第14話 涙は誰のために

 

 見慣れた獣道の入り口付近にはすでに軍の兵士が六人配置されていた。


 たとえ丸腰でも隙があれば二対一なら武器を奪えるかもしれないという遊の淡い期待は早くも消し飛んだ。


 遊と薄荷は草むらに身を潜め、様子をうかがう。兵士達は全員見たことも無い戦闘服と防弾ジャケットを身に着けている。機銃も遊達が使うタイプのものとは違っていた。きっと最新型だ。学校に支給される中古品とはわけが違う。


 あらゆる状況が演習所に近づくことすら不可能であると遊にしめしていた。このまま飛び出しても無意味に命を散らすだけだ。


「薄荷、ここからは無理だね」


「少し遠回りだけど、迂回してみよう」


「うん」


「僕についてきて」


 薄荷と遊は草むらの中で身体を九十度回転させ、匍匐前進で進んでいく。薄荷の移動速度は匍匐とは思えないくらい速い。ついていくのがツライくらいだ。夏休みの間訓練をしていなかったせいか、遊は少しだけ自分の動きが鈍ったような気がした。爬虫類のように土だらけになって地面を這いずる。たくさんセミの死骸が落ちていた。そういえばセミの鳴き声が最近少なくなっていた。いつの間にかそういう時期になったのだ。それを肘や膝でいくつもつぶしながら進んでいく。


 一キロも進んだところで、例の墓標のある広場にたどりついた。


 演習所に向かうにはここを横断しなければならない。


 兵士は一人もいなかった。正確には二人兵士だったはずの大人が小屋の前に転がっていた。遠くて正確なことはわからないが、たぶん死んでいる。


 レジスタンスの子達が殺ったのだろうか?


 周囲に人影はない。


 それが却って不気味だった。

「行く?」遊が薄荷の背中に訊いた。


「僕が最初に行く。もしどっかから撃ってきたら遊はこのまま逃げて」


「それは嫌」


「でも、もしどこかに狙撃手がいたらただの的になるだけだよ? そんなの一人で充分だもん」


「だったら、二人でこのまま逃げるのが正解だよ。でも、薄荷はそうしたくないんでしょ?」


 薄荷は黙って遊を振り返る。遊は薄荷の視線を受け止めながら言葉を続ける。


「薄荷は大丈夫だと思うから行くんでしょ? 私はあんたの勘に何度も助けられたから薄荷を信じるよ」


「……ありがとう。でも、」まだ薄荷は逡巡する。


「二人で行こう」薄荷の言葉を遊は遮った。「ぐすぐすしててもいいことないよ」


「う、うん」薄荷はまだ少し迷っていた。


 でも、遊はここで薄荷を見捨てて逃げるという選択だけはしないと決めていた。


 薄荷が残る以上、自分も付き合う。


 どちらかが死ぬまでは。


「薄荷、一、二の三で行くよ」遊は膝を浮かし、クラウチングスタートの体勢をとる。薄荷もようやく決心したのか、前を向いて「ごめん」とつぶやく。遊は「いいよ」と返した。


 そして、カウントを開始する。


 一、


 二、


 三。二人は同時に草むらから飛び出す。


 百メートル十秒フラットの薄荷が先陣を切って広場へと駆け込む。遊は薄荷に負けじと必死に足を運ぶ。一気に視界が広がる。全身の神経を尖らせて敵の攻撃に備える。目標は約三百メートル先にあるゴミ焼却炉。そこまでたどりつけばまた草むらの中に身を隠すことができる。二人は墓標代わりに立てられたベニヤやトタンの作り出した長い影を全速で横切る。心臓がバクバク鳴っている。怖くてたまらない。いつ弾丸が飛んでくるか、誰かがトリガを引くかと気が気ではない。そんな恐怖を振り切るようにして走り抜ける。


 小屋の前に差し掛かり、転がっていた軍の兵士にまだ息があることがわかる。一人は気を失い、もう一人は大きなダメージを受けて身体をずっと痙攣させて身動きがとれないようだ。薄荷は立ち止まると気絶している兵士のホルスターから拳銃を奪った。遊ももう一人の兵士から同じように拳銃を取り上げる。遊を見上げた兵士が「お前、子供か?」とうめき声を上げた。顔を見られた。遊は躊躇したが薄荷がすぐに兵士に向かってトリガを引いた。


 血しぶきがあがった時、小屋の方から冬子の悲鳴が聞こえた。


 遊より薄荷が早く反応し、小屋の扉に向かって走る。遊も拳銃の弾倉を確認した後、すぐに薄荷の後を追う。薄荷が扉を開け放つ。


 そして、薄荷はそこで動きを止めて立ち尽くした。


 どうしたの?


 遊は言葉をかける前に薄荷の肩ごしにその理由を知る。


 

 レジスタンスの少年達が冬子を陵辱していた。


 

 凍りついたようにその場に固まってしまった薄荷の手から拳銃が床に落ちた。冬子は衣服を乱し、下着を剥ぎ取られ乳房をあらわにして寝かされていた。両手両脚を二人の少年が押さえつけ、一人が馬乗りになっている。冬子が真っ赤に腫らした目で遊と薄荷を見る。口がぱくぱく動くが、言葉になっていない。気が動転しているのだ。


「ち、違うんだよ」


 馬乗りになった少年――友哉が歪んだ笑みを遊達に向けた。


「こいつがさ、ここから外に連絡してやがったんだよ。たぶん軍にチクったんだ。俺達それを止めようとしてさ、でも、こいつ言う事聞かないから」


 意味がわからない。


 薄荷はまるで糸の切れた操り人形みたいに両膝を折ると、その場でうなだれる。


 遊は視界に映りこむ光景がうまく現実のこととして処理できていなかった。友哉がかって自分を汚そうとした娼館の客と養父と入り混じってぐちゃぐちゃになって、溶けて一つになる。そして、嫌らしい笑みと血走った目が怖くて、汚らしくて、寒気がして、同時に腹の底にドス黒い憎悪が渦巻き今にも嘔吐しそうになって、そんな弱い自分にも嫌気が差して、色々と全部捨ててしまいたくなって、身体と頭と心が分断される。上手くリンクしない。筋肉が条件反射で勝手に動くような感覚。まるで眩しい光を浴びた時瞳孔が閉じるかのように遊の腕が上がった。


 ぱすっと、くごもった音がして、友哉が額から血を流し冬子に折り重なるようにして事切れた。


 冬子は声を上げなかった。


 少年達も何も言わなかった。


 数秒して、薄荷が目を見開いて遊を振り向く。


「あ、ごめん……」遊は拳銃のグリップを握ったまま、独り言のように言葉を落とす。その顔に表情はなかった。

「気がついたら、撃ってた」


***


「あたし、ここからは道分かるから」


 永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのは冬子だった。


 あの後、遊が友哉にトリガを引いてから、残った少年兵士達は大騒ぎをして小屋から転がるように逃げ出した。人が死ぬのを見たことがなかったのだろう。そう言えば、小屋の前で倒れていた軍の兵士も死んではいなかった。彼らにとって戦闘はゴム弾で行うもので、殺し合いではなかったのだ。


 遊と薄荷はしばらくその場で動きを止めていた。


 友哉の血がみるみる床に広がる。生臭い匂いが鼻につく。それでも、遊も薄荷も反応しなかった。


 色々なモノがリセットされていて、どうすればいいのかわからない。


 天井の向こうで大きな音がした。あの武装ヘリの音だと遊は頭の片隅で考えた。でも考えただけで四肢は何の反応もしない。冬子が友哉の死体を蹴り上げるようにして押しのけて二人に叫んだ。


「早く逃げなきゃ!」




 草むらに舞い戻り、何キロも地面を這いずり三人はようやく国道にたどり着くことが出来た。服は泥だらけで、身体中傷だらけだ。喉の渇きも空腹具合もとうに限界を越えている。それでも三人は黙って町へ向かって歩き出した。


 逃走期間は三日間。


 その間三人はまったく口を利かなかった。


 まるで言葉を全員が戦場に置き忘れてきたかのように。


 そして、三度目の夕暮れ。


 坂道の下に古ぼけたアーケード街が見えてきて、最後尾を歩く冬子が遊と薄荷の背中に言葉を投げた。


「あたし、ここからは道分かるから」


 遊と薄荷は足を止めて冬子を振り返った。


「あとは一人で家に帰れるよ」


 笑おうとしたのか冬子の口元が微かに曲がる。でも、はっきりと笑顔を作らないまま、ただ表情を歪ませたままで終わってしまう。


「あ、うん」遊の口から自然に言葉が落ちた。


 別れの言葉だと、認識するのに少し時間がかかった。


「……冬子、ゴメンね」薄荷がぺこりと頭を下げる。「本当にゴメンね!」


 薄荷は泣かない。泣きたい時でも泣けないから、苦しそうに身体を震わせて笑うしかできない。薄荷は両手で口を押さえて声をかみ殺し、咳き込むように身体をくの字に曲げて苦悶の表情を浮かべる。遊は薄荷の背中をさすり、薄荷の代わりに泣こうとした。


 でも、泣けなかった。


 どうしてだろう。こんなに、悲しくてツライのに。


 泣いてしまえれば、きっと今よりは楽になれるのに。


 冬子は何度もかぶりを振った。瞳には涙が浮かんでいた。


「気をつけて」


 遊の口からようやく出た言葉は、そんなありきたりの言葉だった。


「南野さん、それ捨てたほうが良くない?」冬子が遊の右手を指差す。


「え? あ」遊の右手には軍の兵士から奪った拳銃が握られていた。まだ弾倉には五発残っている。


「ここで捨てるより私達の学校に隠したほうが安心だよ」


「そうなんだ。……やっぱり、違うんだねあたし達」


「うん、違うね」


「だ、だけどね、南野さん、薄荷くん」冬子は意を決したように語調を強める。「立場全然違うし、あたしは二人の苦労とか、気持ちとかわかってないかもしれないけど、あたしは二人のこと、友達だって――」


「ダメだよ」遊が冬子の言葉を遮った。「それ以上は言わないほうがいいよ。笹倉さんのためにも、私達のためにも」


「……遊、どうして?」薄荷が震えた声を出す。


 遊は薄荷の肩に無言で手を置き、首を横に振る。薄荷が顔を歪ませる。


「……わかった。さよなら、南野さん」冬子は胸の高さまであげた右手を小さく振る。そして、ゆっくりと坂道を一人下っていく。「さよなら、薄荷くん」


「さよなら、笹倉さん」遊も冬子と同じ仕草をして、冬子を見送ることにする。


「さよなら! 冬子、さよなら!」薄荷は両手を振りながら、力の限り叫んだ。


「さよなら! さよなら!」


 冬子は遊と薄荷を何度も振り返った。


 そのたびに手を大きく振る。


 遊と薄荷もそれに応えるように手を振った。


 そんなやりとりを何度か重ね、やがて冬子は夕闇の町の中に消えていった。


「さよならあああぁっ!」


 でも、薄荷はまだ手を振っている。


 遊はどうしようもなく胸が苦しくて、その場に座り込んだ。


 背中から薄荷が抱きついてくる。


 薄荷の感情が、体温を通して伝わってくる。


 突然、遊の頬に熱いモノが流れた。


「うわあああああああああああああああああああああああぁぁっ!」


 ようやく泣けた。


 遊はその場に座り込んで泣き叫んだ。


 電柱に止まっていたセミが微かに鳴いて、すぐにアスファルトに転げ落ちた。セミはしばらく羽根を震わせてもがいた後、動かなくなった。


 ――夏が終わったんだ。


 遊はぼやけた視界に飛び込んできたセミを見て、また泣く。


***


 二学期初日、遊と薄荷は再び二人きりの教室へと足を運ぶ。

 担任がいつもと何ら変わらぬ口調で発表した。



 遊と薄荷がセレクションに選ばれた、と。


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