第13話 キス未満、そして

 海からの風には腐臭っぽい匂いが混じっている。


 陽は傾きかけていた。遊は少しだけ迷ってから、スニーカーを脱いで素足で歩いてみる。昼間の間に蓄えられた太陽の熱とくすぐったい感触が足裏に感じられた。


 そういえば元々海に来るつもりだったんだ、と砂浜を一人で歩きながら思う。


 ――さて、これからどうしようか。


 泉野に拉致されて一月以上経っていた。泉野も他のレジスタンスの人間も誰も遊達に危害を加えようとはしない。むしろ、薄荷や遊は優秀な兵士であるということで歓迎されているような雰囲気さえあった。このまま彼らの仲間になるのだろうか。冷静に考えればその選択肢は間違っている。泉野や他のメンバーとの会話、訓練の様子からここの戦力がどの程度のものなのかはもうだいたいわかっていた。たとえあと十年経っても軍を倒すことなど望めないというのが遊の出した結論だった。軍がこの組織の存在を知り、学校二つ分くらいの部隊を投下すれば一日でここは壊滅するだろう。そして、皆殺しにされる。


 生き残りたいのなら、ここは出るべきだ。


 だが、たとえ泉野でもここまで組織のことを知った自分達を軍にやすやすと帰したりはしないだろう。そもそも情報が外部に漏れることを防ぐために拉致したのだから。なら逃げ出すしかない。ここは色々とツメの甘い組織だ。薄荷と協力すればたぶん何とかなる。


 そこまで考えて、くうと遊の腹が鳴った。


 そういえば、もう夕食の時間だと薄荷に伝えるためにここに来たのだ。薄荷は昼食を摂ってからすぐにここへ来たはずだからかれこれ五時間近くここにいることになる。周辺には日除けになりそうなモノは何もない。こんな所に長時間いたら日射病にでもなりそうだ。それともずっと海につかっているのだろうか。いくら薄荷の体力が並外れていたとしても限界があるだろう。それとも自分の知らない休憩できる場所でもあるのだろうか。


 遊は両手にスニーカーをぶら下げて波打ち際を歩く。あまりキレイではない。よくわからない魚の死骸や海草の付着した廃材、古タイヤ、つぶれた空き缶なんかが無秩序に打ち上げられている。その中には砂浜にうつぶせになって倒れている薄荷も混じっていた。


 すごくびっくりした。


「薄荷!」


 遊は慌てて駆け寄り、薄荷を抱き起こす。最初はふざけているのかと思った。が、砂まみれになった青白い顔を見てその考えは吹っ飛んだ。


「薄荷! 薄荷!」


 頬を叩く。かなり強めに。それでも反応はない。


 耳を口元にくっつけた。呼吸は微かにしているようだ。


 日射病か熱中症だろうか? でも、触れた身体はとても冷たい。


 頭を打ったとかでないのなら、動かしても大丈夫なはずだ。すぐに小屋に運ぼう。


「ごめん、少しだけ待ってて」遊が薄荷を地面に寝かせようとした時、波の音に混じって微かな声がした。何を言ってるのかは聞き取れない。薄荷の口が動いたからしゃべったんだと遊も認識できたのだ。遊の指を薄荷が掴んでいる。弱々しい力だった。


「薄荷」遊は薄荷の手を握る。薄荷の口元が少しだけ笑ったような形になって、「くすり」と発した。


 ――薬。


 以前、学校であの若い保険医が薄荷に精神安定剤を処方していると話していたのを思い出した。薄荷がそれを飲んでいる姿を見たことはなかったが、定期的に服用しているはずだ。それを飲み忘れたのか。


「薄荷、薬今持ってる?」


 薄荷は頷く。


「どこにあるの?」


 ぽけっと、と薄荷の口が動く。


 遊は薄荷の着ている上着の胸ポケットをまさぐった。さっきまでは気付いてなかったがかなり手元が震えている。動揺している。早く早くと気ばかりが焦って上手く身体を制御できていない。指先がつるつるとした感触を探り当てる。カプセル剤の入った小瓶。遊はフタをはずして手のひらにオレンジ色のカプセル剤を載せる。薄荷に「いくつ?」と尋ねる。


 薄荷は右手の人差し指と中指で二つと示した。


 口を動かすのがツライのだろうか?


 遊は薄荷の頭を腿にのせて、膝枕をするような体勢をとる。人差し指と中指で薄荷のあごを上げさせる。「薄荷、口開いて」


 ほんの少しだけ口が開く。このまま薬を放り込んで喉まで届くのか、薄荷が飲み込めるのか不安だった。水といっしょに流し込んだほうがいい。周囲を見渡す。水分は海水くらいしかない。それでも薬を飲まないよりはマシな筈だ。真水を求めて小屋まで戻るほうが良くない。


 遊はいったん、薄荷の頭を砂浜にそっと下ろす。急いで波打ち際まで行って手のひらでなるべくゴミが入らないように海水をすくい、口に含んだ。薄荷のところに戻って濡れた手で薄荷の頬を軽く叩く。薬を見せて、薄荷の顔を見つめた。薄荷は遊の意図を理解したのか口を開いた。遊は薄荷の口に薬を二つ入れる。喉は動かない。やはりこのままでは飲めないようだ。遊は薄荷の上半身を苦労して起き上がらせ、顔を上に上げさせた。薄荷は遊の方を見ているのかどうかわからない。薄荷の瞳には生気がなかった。遊の胸に不安が落ちる。お願い、飲んでと祈りながら唇を重ねた。


 海水を薄荷の口の中に送り込む。ぴくぴくと薄荷の四肢が痙攣したかのように震えていた。遊は薄荷の両肩を強く掴む。暴れないで、吐き出さないでと思いながらぎゅっと手に力を入れた。薄荷の唇はやわらかくて、冷たい。微かに甘いような匂いがする。痙攣が治まって、薄荷の身体から力が抜けた。


 薄荷の喉がこくんと鳴った。


 遊は唇を放して「飲んだ?」と尋ねた。


 薄荷は「うん」と微笑む。


 悔しいくらいホッとした。


 まだお互いの息がかかるくらいの距離。


 薄荷の瞳には涙が浮かんでいる。


 そうとう苦しかったのだろう。遊は慰めるように、頭を撫でた。薄荷がまた目を細めて小さく笑う。


 それだけのことが遊の心を大きく揺さぶる。


 薄荷の右手が力なく上がって、遊の頬に触れた。


「……何?」遊が薄荷を見つめる。


「え、えっと……」薄荷の顔が紅潮しだす。「嫌なら、言って」


 薄荷の両手が遊の後ろ頭に回される。


 あ。


 遊の顔はゆっくりと薄荷の顔へと引き寄せられる。


 薄荷の腕にこめられる力は微弱で、その気になれば簡単に振りほどける。


 でも、遊はそれができない。


 どうしてだろうと考える。


 こんなに近く怖いはずなのに。逃げ出したいはずなのに。


 それでも、薄荷を突き放せないのは何故だろう。


 もう、薄荷の唇は間近にある。


 距離がどんどんゼロに近づく。


 観念して、ぎゅっと目を閉じる。


 ――遊と薄荷の耳に空を引き裂くような爆音が届いた。


 え?


 遊と薄荷は同時に目線を上げる。


 煙。


 訓練所の方だった。


 遊はごくんと唾を飲む。カチャカチャと機銃を組む音がした。心の中で組み上がる機銃の音が聞こえた。組み上がった。カートリッジを装填する。遊は薄荷から身体を離した。薄荷もふらつきながらも自分の力で立ち上がる。


 いつもの距離。いつもの自分達に戻る。


「歩ける?」煙をにらみながら遊が口を開く。


「大丈夫」そう答えた薄荷はもう足を前へと踏み出していた。一歩。二歩。三歩目で砂浜を強く蹴り、駆け出す。遊もすぐさまスニーカーを履くと薄荷を追うようにして走り出す。砂浜からオレンジ色に染まった堤防の階段まで移動し、駆け上がった。訓練所の方から上がる煙はますます太く濃くはっきりと存在を主張している。あれほど大きな火災が起きるとしたら、きっと倉庫が燃えているに違いない。


 何かの不具合で中の爆薬が……?


 いや、違う。肌がそう感じ取っている。


 戦闘の匂いが、嫌と言うほど立ち込めている。


「遊!」

 薄荷は遊の手をつかむと階段を跳ねるようにして降りた。「どうしたの?」と遊が問うより早く、薄荷は海岸に生えている背の高い雑草の陰に遊とともに身を隠す。薄荷は遊を守るようにぎゅっと強く抱きながら夕闇の空を見つめていた。遊は薄荷の腕の中で、同じように視界を上へと向ける。


 気がついた。


 空に黒い点があった。


 点は瞬く間に無骨なフォルムを持つ武装ヘリへと変化をとげた。機関砲に空対地ミサイルまで積んでいた。


 まさか、アレをここで撃つのか?


 遊は身体が震えるのを感じた。


 大人の軍隊だ。


 学校でなく本物の軍隊が制圧に来たのだ。


 遊と薄荷は身を寄せて、ヘリに見つからないことを祈った。とっくにこの一帯の住人達には避難勧告は出ていたのだろう。避難勧告後も戦闘区域に残っている者を銃殺しても軍は罪に問われない。見つかったら、ヤツらは遊と薄荷の身分に関係なくトリガを引くだろう。嬉々としてなぶり殺しにするはずだ。


 何の武器も無い遊と薄荷は無抵抗のまま殺られるしかない。


 ローター音が怪物の咆哮のように聞こえる。


 遊は早く消えろと心の中で叫んだ。


 ヘリは演習所の方へと飛んでいく。


 遊と薄荷は草むらの陰から出る。


 武装ヘリが再び点になって、遊はようやく呼吸することを思いだした。


 終わった。


 あんなものが出てきた以上、泉野の組織が壊滅することは確定した。レジスタンスは全員その場で銃殺される。そして、その場にいたレジスタンスでない者も同じだ。甘い組織だとは思っていた。いずれつぶされるとは予想していた。しかし、それがこんなに早いとは。


 ――私達の国を作るつもり。


 ――ゲームなんて残酷なものから君達みたいな子を解放してあげたい。


 たとえ非現実的な夢でも、泉野の言葉に遊はどこか希望を感じていた。


 そして、その夢は今まさに強力な武力によりつぶされようとしている。


 自分自身の甘さと現実の過酷さに遊は唇を噛む。


「……どうしよう?」うつむいている遊に薄荷が尋ねた。


「今頃、軍がレジスタンスを攻撃している」遊は顔を上げて、立ち上る煙を見ながら答える。「今私達が行っても何もできないよ。いっしょになって殺されるだけ。このまま逃げたほうがいいと思う」


「……レジスタンスは勝てないよね」


「無理。装備が違いすぎるよ。ヘリコプター見たでしょ?」


「……冬子や泉野、どうしたかな?」


「わからないけど、たぶん」


「殺された?」


「……」遊は無言で肯定する。


「っ!」


 薄荷のスニーカーが地を蹴った。


 一瞬、何が起こったのか遊にはわからなかった。


 が、遊の網膜には武装ヘリの向かった先へと駆けていく薄荷の後姿が届いていた。


 ――あの馬鹿。


 そう思いながらも、遊は薄荷の背中を追いかける。


 頭の中では今でも恐怖心が最大級の警告音を鳴らしている。


 でも、迷いはなかった。


 きっと、私も馬鹿なんだ。


 危険の真っ只中へと駆けていく遊の足は何故か軽い。

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