第三章 混沌の森(ケイオスフォレスト)編

第一二一話 路地裏の捕食者(プレデター)

『この世界は危機に瀕している』


 ある夜を過ぎてから、急に現実として捉えられるようになった言葉。

 それまではおとぎ話や小説の中でしか語られなかった言葉。でも今、世界はこの言葉に恐れ慄き、夜の闇を恐怖に満ちた目で見つめている。

 だけど私は知っている、その恐怖は気がつけば目の前に迫ってくることを。


『この世界は危機に瀕している』


 誰もが目を閉じてその言葉を信じようとはしていない。

 目の前にある恐怖を忘れるために、人々は今日も夜の享楽に身を投じようとしている。だから、その恐怖は音もなく忍び寄る。

 注意しろ、警戒しろ、意識しろ……そうやって注意するものがいたとしても誰が責められるだろうか?


『この世界は危機に瀕している』


 どんなに気をつけていても、避けることのできない出来事は起きる。

 そういう時に力無き人々を守るものが必要だ。でも、その力あるものも一人の人間なのだ、全てを救うことはできないかもしれない。

 でも、世界を滅ぼそうという悪を倒すために、戦う人たちはいつの時代も、どこの世界でも存在しているのだ。


 だから……私は今夜も戦っている。




「なあ……いいだろ? ここなら誰も見ていないよ……」

 若い男性が若い女性の肩に手を回して何かを囁いている……男性は二〇代だろうか、対する女性は同程度の年代なのか、栗色の髪を長く垂らした姿で、まるでモデルのように素晴らしいプロポーションをしている。

 胸は大きく、腰は非常に細く、腰は女性らしいラインを描いており着ている服もそのプロポーションを十二分以上に目立たせる扇情的な服装だ。彼女は男性を手で押さえながら、困ったように口を開く。

「ちょっと待ってよ、外でなんか……見られちゃったらどうするの?」


「見つからないように、声を出さずにいれば大丈夫だよ」

 男性は少しだけ興奮したのか、女性の腕を少し乱暴に壁へと押し当ててその絹のような白い首へと軽く唇を落とす。女性はくすくす笑いながら、男性の背中へと手を回す。

 その仕草を見て、男性は受け入れられたと感じたのか鼻息荒く彼女の衣服に手をかけた。

「そう、じゃあ声を出さないでね、約束よ?」


「お、おいなんでそんなに力いっぱ……」

 そこで男性は女性の目を見て気がついた……なんだこの目は……赤色に輝く眼は明らかに人間の目ではない。息ができない……声が出ない……。

 女性は、ニヤニヤと笑うと口を大きく開く……そこには鋭く尖った犬歯が生えている……それままるで映画で見たような吸血鬼ヴァンパイアの姿によく似ていた。

 恐怖で逃げ出そうとする男性を、女性はまるで熊のような筋力で押さえ込むと彼の首筋へと鋭い牙を突き立てた。

「じゃあ、いただきまーす」


「ふう、あんまり美味しくないわねえ。せっかく吸血鬼ヴァンパイアになれたのに……いい男って全然いないんだもの」

 女性の名前は藤井ふじい はるみ、つい先日まで冴えない会社員を務めていた生粋の日本人だ。

 彼女はとある事件に巻き込まれた後、この世のものではない存在へと転生し、その食性に従って彼女の美貌を目当てに群がる男を捕食していた。


 会社員だった頃は地味で目立たない存在だったが、高位の存在へと進化した彼女は男を籠絡する術を本能で理解し、夜の街で生き抜いていたのだ。

 地面へと倒れて絶命した男が小刻みに痙攣し、ゆっくりと立ち上がる……その姿は先ほどまでと違い皺だらけで、鋭い牙と虚な目をした不死者アンデッドである食屍鬼グールとして蘇る。


「あら、食屍鬼グールは作っちゃうと面倒だからダメなんだっけ……勿体無いけど殺しとくか」

 はるみは軽く拳を握ると、食屍鬼グールの顔面へと拳を振るう……まるで果実が破裂するかのように頭部を難なく破砕すると、食屍鬼グールはゆっくりと地面へと倒れ伏す。

「ああ、汚いったらありゃしない……だから男はダメね」


「そうですね……男なんか……男なんか信用できませんよね……わかりますよ」

 いきなり声をかけられて、はるみは慌てて声の方向へと向き直ると、そこには黒い髪を靡かせた一人の少女が立っているのが見える。

 女子高生? 紺色の制服に身を包んだ彼女は、制服の上からでもわかるくらい抜群のプロポーションをしていた。黒い髪は腰よりも少し長く整えられ、夜の闇の中でも美しい輝きを放っている。


 顔立ちは……まだ一〇代だろうか? あどけないながら少しきつめの作りをしていてまるで神話に出てくる女神のようにも見えてしまう。

 腰には日本刀を差し、白く細い脚が少し短めのスカートから伸びているが足元はなぜかかなりゴツめのブーツなのがアンバランスだ。

「だ、だれ? もしかしてアンタ……降魔デーモン界隈で噂の戦乙女ワルキューレさんってやつ?」


「私……皆さんからそう呼ばれてるんですね。藤井さん」

 いきなり自分の苗字を呼ばれて激しく動揺するはるみ……な、なんだこの女は。いきなり私の苗字を呼ぶなんて……動揺して後退りするはるみを見ながら、ゆっくりと歩み寄る少女。

 その目に何も恐怖や、嫌悪といった感情を感じられず、はるみは目の前の少女の不気味さをより一層感じる……感情がないの? この娘!

「藤井さん、吸血鬼ヴァンパイアとして女性は食べずにいて、男性の食屍鬼グールを量産しないのは立派です。ただ、あなたが吸血鬼ヴァンパイアとして生きていく以上、多少なりとも人が死にます。それは看過できません」


「はっ……男なんかいくら食べたところでいくらでも湧いて出てくるんだからいいじゃない! 私は復讐してんのよ! ガキはすっこんでな!」

 少女が腰に吊るした日本刀の柄に軽く手を当てると、カチャリと金具が音を立てる。はるみは牙を剥き出しに威嚇する……そして指先に鋭い爪を伸ばして間合いを測る。

 少女は……噂の戦乙女ワルキューレなら日本刀を使った接近戦のスペシャリストだって聞いている……吸血鬼ヴァンパイアになる前はただの会社員だったはるみには武術の心得はないが、圧倒的な身体能力でなんとかするしかない。


 はるみは地面を蹴り、壁を使って圧倒的な身体能力を使って超高速で少女へと迫る。人間ではなし得ない動き……凄まじい身体能力がなせる目にも止まらない凄まじい高速移動で相手の視界を撹乱しながら彼女へと迫る。

 少女は少し腰を落とすと、日本刀の柄へと手をかけて身構える。抜かせない! はるみは一気に少女に飛びかかる……しかも真上からの攻撃だ、こんな攻撃刀を抜いていないと防御すらできないだろう!

「ハッ! 死にな……お嬢ちゃん! 処女バージンっぽいから血は美味しくいただくわ!」


「ミカガミ流……閃光センコウ

 一瞬の交錯の後、はるみは地面へと叩きつけられる。目の前に立つ少女は無傷だ。な、なんでだ? 立ちあがろうとしてもがくが、自分の両手両足がないことにそこで初めて気がついた。

 傷口からどっぷりと血が流れ出す……まるで現実感のない光景に、はるみは一瞬我を忘れて切り裂かれた腕の傷跡を見ている。

「え? 私の足……手……どこ?」


「そっちに落ちてますよ」

 少女が日本刀ではるみの転がった手足を指し示す……ど、どうやった……真上からの攻撃だったのに……私の目に映らないレベルの斬撃を放ったというのか。

 必死にもがくが、失った手足は吸血鬼ヴァンパイアといえどもすぐに復活させることは難しい……もがきながら必死に少女から逃げようと路地裏を這って進む。

「いやだ、いやだ……私はあの男に復讐するんだ……私から全財産を奪い取ったあの男に……」


「……ごめんなさい。でも降魔デーモンとなったあなたは、見逃せません」

 少女は日本刀をはるみの背中へと突き立てると軽く捻る……背中に焼け付くような痛みを感じて、はるみは悲鳴をあげる。おかしい……吸血鬼ヴァンパイアとなった私に普通の日本刀で傷つくことなんかないのに! この武器はなんなのだ!

 まるで命を吸われるような悍ましさを感じつつ、はるみの意識が遠のいていく。私は……あの男に……。




吸血鬼ヴァンパイア退治しました、確認班を呼んでください」

 藤井 はるみの体は青い炎をあげて燃えていく……全身が炭化し、崩れ落ちていったことで対象の吸血鬼ヴァンパイアの死を確認すると私はインカムへと声を掛けると、陽気なオペレーターさんの明るい声が聞こえてくる。

「わかりました、灯ちゃんお疲れ様」


 また名前……軽くため息をついて、灰となった藤井 はるみを軽く手に持った刀で突いたり、何か残っていないか軽く確認する。

 特に何もなさそうだな……この吸血鬼ヴァンパイアはそれまで被害者だった。詐欺師に騙されてそれまで必死に溜めてきた財産を奪われ、絶望した中でどうやら降魔デーモンと接触したのだろう。なんらかの形で吸血鬼ヴァンパイアとなり夜な夜な男を殺して回っていたのだ。


『おい灯! 私は魔剣だぞ!? 焼き芋を掘り当てるような感じで灰の中に我を突っ込むな! 汚れる!』


 心に手に持つ日本刀……いや前世でも手にしていた魔剣全て破壊するものグランブレイカーの声が響く……あー、はいはい、でも剣ってこういう使い方だってするじゃない。

 焼き芋探してるんじゃなくて、彼女の持ち物がわかる何かがあればって思っただけだよ。


『そんなのは背中に差してる小剣ショートソードでやれば良いではないか! 我の方が高貴なるぞ!?』


 やだよ! だって剣が汚れるんじゃない! 灰が舞ったら小剣ショートソードだと顔にかかっちゃうし、長さがちょうどいいんだもん。その途端、私の心に全て破壊するものグランブレイカーがヒステリックに叫ぶ声が響く。

 め、めんどくさい魔剣だな……前世からの付き合い、とはいえ私の前世であるノエル・ノーランドの時はこんな感じではなかったはずなのに。


『我は崇高なる魔剣なるぞ……所有者の知的レベルに合わせた会話まで可能な超高性能な魔剣である……わかったら早く刀身についた灰と血を拭うといい。気持ち悪いったらありゃしない』


 あー、はいはい。私は懐から拭い紙を取り出すと、刀身を拭い血を拭き取っていく。

 なぜか全て破壊するものグランブレイカーが少しだけ気持ちよさそうな猫、いや悶えるおっさんみたいな声をあげていたが……心に響く声を聞かなかったことにして吹き終わると、私は刀を回して鞘へとしまう。

 さて……個体名藤井 はるみは何か証拠となるようなものは持っていなかった。おそらく私の敵であるアンブロシオたちは捨て駒としてこの女性を吸血鬼ヴァンパイアにしたのだろう。

 まだまだこの先も事件を解決していって、彼らの足跡を追うしかないのかもしれない。私は少しだけお腹が鳴るのを感じて、再度ため息をついて独り言をつぶやいた。


「仕方ない、帰ろっか……お腹減ったから夜ご飯食べないとね」

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