第七八話 怪猫(キャスパリーグ)

「おいで……大丈夫怖くないよ」


 東京都の郊外昭和にできた団地の一角……誰も見向きをしないようなくらい藪の中を見つめて、小学生浮間 萌うきま もえが暗闇に隠れている小さな動物を見つけて声をかけている。

 動物好きだった彼女は、その小さな黒い動物のことが気になり……ダメだとは言われていたが、キャットフードを乗せた皿を片手に声をかけている。

「お腹減っているのかな? これ食べれる?」


 小さな黒い……金色の目を持った不思議な猫のような動物はおずおずと彼女が置いた皿から、キャットフードを食べてグルグルと喉を鳴らしている。

「美味しい? また持ってくるからたくさんお食べ」

 萌はニコニコ笑いながら、その黒い猫を撫でる……不思議な動物だ、黒猫かと思ったが足は六本生えている。そして背中には一対の羽のような器官が伸びているが、大きさはまだ子猫のサイズでしかない。

 キャットフードを食べ終えた黒猫らしき生物はゴロゴロと喉を鳴らして萌に体を擦り付ける……彼女は少しだけこの生物のことが好きになった気分になり、優しくその体を撫でる。

「私、また明日キャットフードを持ってくるね。待てるかな?」




「遅くなってごめんね、今日も持ってきたよ。味を変えてみたの、美味しいよ」

 数日後、萌は再びキャットフードを持って団地の藪の前へと姿を現す……小さな猫らしき生物は、先日よりも大きくなり子犬ほどの大きさになっていたが、彼女の姿を見つけると周りを警戒しながらゆっくりと進み出てくる。

 ……キャットフードを食べ終わると、生物はゴロゴロと喉を鳴らして再び萌に体を擦り付けて甘える……ちょっとだけ嬉しい気分になってしばし生物を戯れるが……ふとその生物の目が彼女の腕に巻かれた包帯に気がついたように、じっと見つめる。


「ああ、これ? お母さんに怒られちゃったんだ……」

 萌は悲しそうな顔で包帯をさする……彼女の家は複雑な事情が存在し、日常的に母親による暴力が日常化していた。数日来れなかったのは、彼女が怪我をしたため病院に連れていかれたからだ。

 彼女の傷を見て医者は複雑そうな表情をしていたが、母親が誤魔化して萌に治療を受けさせたため、それ以上は何も言わずに黙っていたのだが。

「お母さん、私のこと嫌いなのかな……」

 萌は悲しそうな顔で生物を撫でながら、ボロボロと涙をこぼす。そんな彼女を横目に、心配そうな顔で彼女を見つめる生物……すり、と軽く頭を擦り付けると萌は泣くのをやめて、少しだけ影のある笑顔でその生物の頭を撫でる。

「ありがとう、優しいね」




「ただいま……」

 家に帰ると、荒れた家の中に酩酊状態でテーブルに突っ伏して寝ている母の姿があった。

 この状態のお母さんは嫌だ、怖い……音を立てないように自室へと向かう萌……。

「萌、帰ったの? ご飯なんかないわよ……後で酒と一緒に買ってきなさい」

 母親が忍び足で歩いていた萌えを見つけて、焦点のあっていない目で睨みつける。

「ただいま、お母さん……」

 萌は少しだけ恐怖心を掻き立てられ、少しだけ硬い表情で母親に頭を下げる……そんな娘を見て、へっ……と咲うと、空き瓶を投げつける。


 あまり強く投げつけなかったために、壁に当たって割れはしないが音を立てて転がる瓶。

 びくりと身を震わせた萌は、泣かないように必死に我慢をしながらその場を離れていく……。その背中に母親の独り言が聞こえてくる。

「あの男の血が入ってるとか……穢らわしい……ッ」

 萌は聞こえないふりをしながら、なんとか自室に戻るとランドセルを置いて、布団の中に入って震えて声を上げずに泣き始める。


『誰か、誰か助けて……お母さんはお母さんじゃなくなってしまっている……』


 震えながら、萌は部屋の外の状況に耳を傾ける……母親が何か独り言を呟きながら、家の中を歩き回っている音が聞こえる。お父さんが何も言わずに出て行って以来、お母さんは変わってしまった。

 私の顔を見るたびに不機嫌になり、罵り、ひどい時には暴力を振るわれる……昔はこんなでは無かったのに、どうしてこうなってしまったんだろう?


 ご飯を買ってくるついでに、お母さんのお酒も買わなければ……いつものコンビニで買うしかないだろうか? あそこならお使いだと言えばお酒も売ってくれるだろうし。布団からなんとか這い出ると、萌はリビングへと向かう。

 その姿を見つけて、母親が鬱陶しそうな顔で彼女を見つめる……。

「何よ、その顔は……さっさと酒買ってきなさい。無駄なもん買うんじゃないよ」

 財布を投げつけるように萌へと放ると、グラスに酒を注いで飲み始める母親……この人はどうして私が嫌いなのだろう? お父さんの子供だから? それとも……お母さんを捨てて逃げていったお父さんに似ているから?

 悲しくなりながらもなんとか我慢して、財布を拾うと黙ってそのまま家を出ていく。

「行ってきます……」


 お酒を買ってこいと言われて外に出たものの、萌は家に戻る気がせずに……預かった財布から少しだけ余計なお金を使って、お酒やご飯、そしてあの動物にあげるためのキャットフードを片手にいつもの団地の藪へと向かっていた。

 彼女の姿を見ると、藪の中からゆっくりと大型犬ほどの大きさになったその生物が姿を現す……黒く光る毛皮、不気味さよりも神々しさを覚える六本のしなやかな足、金色の目が輝く獰猛な肉食獣の顔、コウモリのような羽を持った不気味な生物がそこにはいる。


「わぷっ……くすぐったいよぉ」

 彼女の姿をみると、グルグルと甘えるような声を上げて……彼女の頬を舐める。彼女がキャットフードを用意しているのを黙って見つめる生物……ふと見つめられていることに気がついて萌はその生物の顔を見るが……思いもかけずに頭の中に野太いが威厳のある声が響く。


『悲しい? どうして?』


 萌の前で首を傾げる生物はグルルと唸りをあげる……もしかして、言葉が通じるのだろうか? 萌は少しだけ嬉しくなって、キャットフードを開けた紙の皿と、弁当から少しだけご飯を選り分けて生物の前に置いてから声を掛ける。

「どうぞ……それとあなた喋れるの?」

 萌の置いた皿からペロリとフードを食べ終えると、生物はもう一度彼女の目を見つめて少しだけ口元を歪ませると、頷くように首を垂れる。


『あなたの名前は、モエ? いつも食事をありがとう……』


 萌は少しだけ嬉しくなって、その生物の頭を撫でる……もう一度ペロリと彼女の顔を舐めると、生物は唸るような声で萌の頭の中へと話しかける。


『どうして悲しいの?』


「……私のお話を聞いてもらってもいいかな?」

 萌はその生物の隣に寄り添って……それまでのことをポツリポツリと語り始める……それまで幸せだった家族の思い出、お父さんとお母さんと一緒に遊園地で遊んだこと、お父さんもお母さんも笑顔だったこと。

 急にお父さんがお母さんと喧嘩をし始め、その結果お父さんは家に帰ってこなくなったこと、お母さんは半狂乱になってお父さんを探したが、お父さんからは手紙だけが届いたこと。

 その手紙を読んだ後からお母さんは萌に憎しみに満ちた目を向けるようになったこと……忘れた頃に再開される暴力と、普段はお酒ばかり飲んで意味のわからないことを呟くお母さんが少しだけ嫌いになっていることなど。


「お母さん嫌い……いつも私をぶつの……帰りたくないよ……」

 萌がボロボロと涙を流して泣き始めると生物は彼女の体に身を寄せて、少しだけ悲しそうな声で低く鳴く……萌はその生物の首にすがるように抱きついて泣き続ける。


『僕が……君を助けてあげようか?』


 生物の思わぬ申し出に、萌は目を見開いて……生物を見つめる。そんなことができるのだろうか? もし昔のお母さんに戻るのであれば……手を借りても良いのではないだろうか?

「お母さん元に戻るの?」


『……元には戻らないね。君のお母さんは、壊れている』


 しかし生物はそんな願いは難しいとばかりに首を横に振る。それを見てそっか、と悲しそうな顔で前を向く萌、その横顔を見つめて、生物はグルルと低く唸る。

 生物の艶やかな毛を撫でながら、萌は独り言を呟く。

「お母さん元に戻らないのなら、どうしたらいいかな?」


『そうだね……お母さんがいなくなったら君は嬉しい?』


 その言葉に、萌は少しだけ眉を顰める……お母さんがいなくなる? 今のお母さんは嫌いだけど、いなくなるなんてことはあるのだろうか? 

 少しだけ悩む萌を見つめて、その心の奥底に漂う感情を読み取るかのように生物の金色の目が輝く。

「今のお母さん嫌い……いつも私をいじめて……」


『……では契約をしよう、モエ……僕は君を嫌なやつから守るよ、それが君のお母さんでも』


 そっと萌の頭にその大きな手を乗せて……まるで人間のように優しく彼女の頭を撫でると、口元を大きく歪めて笑う。その表情がまるで人間のように見えて、萌は少しだけ不思議な気持ちになった。

 生物は大きく羽を広げる……まるでコウモリのような羽は怪しく夜の月明かりに照らされて、美しく輝く。

「お名前を教えて?」


『僕はここではない遠い場所で、怪猫キャスパリーグと呼ばれていたよ』


「きゃす……ぱりーぐ? キャスでいいかしら?」

 萌の言葉に大きく頷く怪猫キャスパリーグは満足したかのように大きく吠える……まるで獰猛なネコ科の猛獣のような声だったが、萌はとても心地よいと感じた。


『いい名前だ! 僕の名前はキャス! 契約は為された……背中にのりたまえ!』


 萌は、熱に浮かされたようにキャスの背中へとよじのぼる……とても高い……でもとても暖かい、私はこの大きなお友達と一緒にいるのだ。

 萌の目が金色に輝く……契約は為された……彼女はその言葉の意味を深く考えることもなく、キャスと萌の意識がシンクロしていく。

 まずは……萌をいじめたものを狩立てるのだ、そしてこの混沌の魔物による殺戮を……この世界に蔓延る蛆虫のような人類を殺し尽くす。

 萌は自然と歪んだ笑みを浮かべて、目の前に広がる街の光を見つめて呟く。


「この世界を……私の嫌いな人たちを狩ろう……キャスと一緒に!」

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