小さな橋の上で

青樹加奈

小さな橋の上で

「あの橋、渡りたくないなあ」

「はあ? お前何言ってるんだよ。渡らなきゃ帰れないじゃないか?」

「でも、渡りたくないんだよ。とにかく、俺は橋の右側を下を向いて走って渡るからな」

 と親友のKが訳の分からない事を言い出した。


 大学三年のある日、冷蔵庫の食料が尽きたので買い出しに出かけようと思ったが、久しぶりに飲みに行きたくなった。親友のKを誘うと二つ返事で行くという。Kは付き合いのいい奴で誘うと必ずのって来た。下町の食堂で落ち合い、ビールと料理で腹を満たした。夜九時頃店が閉まったので、Kの部屋で飲みなおそうと言う話になった。歩き始めてしばらくして、言い出したのだ。「橋を渡りたくない」と。

 橋は車が通れない人専用の小さな橋だ。駅よりにもっと大きな橋がかかっていて、車はそちらを通る。

「なあ、まさか出るとかいうんじゃないだろうな?」

「うーん、幽霊じゃない、と思う。女だ。……変な女がいたんだ」

 Kがポツポツと話し始めた。

 二ヶ月程前だった。夜、駅の近くで買い物をしてアパートに向かって歩いていた。橋の上に女がいるのが見えた。川面を覗き込んでいて、半袖のブラウスから白い腕が伸びて欄干を掴んでいるのが見えた。薄い布地のひらひらする長いスカートを着ていて寒くないのかと思った。髪の長い女でどれくらい長いかというと身を乗り出した女の頭から伸びている髪が橋の欄干の影になって毛先が見えない。それ程長かった。変な女だと思ったが、熱心に川面を覗き込んでいるので自分も覗いてみた。が、何も見えない。「何かあるんですか?」と気になって女に声をかけたら「落としてしまって」というので何を落としたのかと女の側に立ってグッと体を乗り出した瞬間、背中を押された。あっという間もなく橋の向こうに体が浮いていた。咄嗟に欄干をつかんで橋から落ちはしなかったが、買って来た食料は落としてしまった。なんとか自力で這い上がったものの、背中を押したであろう女は消えていた。

「おいそれ、殺人未遂じゃないか。警察には行ったのか?」

「証拠がないんだよ」

「はあ?」

「女がいた証拠、背中を押された証拠、何もないんだ。警察に言ったって、自分で落ちたんだろうって言われるのがオチさ」

 Kは誰にも言わず、それからしばらくは駅よりの橋を渡ってアパートに帰った。一月もすると怖さも薄れて来たのでこちらの橋を渡るようになった。すると、また変な女がいた。

 今度は和服を着たお婆さんで、日本髪を結っている。今時日本髪なんて随分古風なんだなと思った。Kは知らん顔して通り過ぎようとしたが、何を見ているのかやはり気になった。相手は老婆だし、仮に押されても男の自分の方が力は強い、落ちはしないだろうと思った。好奇心に負けて川面を覗き込んだ途端、「落としたんです」としわがれた声と共に背中を押された。老婆とは思えない強い力で、欄干をしっかり握っていたから落ちはしなかったが、「何するんだ」と振り返ってもやはり誰もいなかった。以来、川面を覗き込んでいる人を見かけても、そちらを見ないで走って渡るようにしている。渡った後も後ろを振り返らない。振り返っても恐らく誰もいない。それを確かめたくなくて振り返らないのだという。

「お前、今度見かけたらスマホで写真撮って送ってこいよ。俺も見たいからさ」

「馬鹿なこと言うなよ。そんなことして写ってなかったらどうするんだよ? 考えただけでも恐ろしいよ」

 俺は肩をすくめた。

 話しているうちに件の橋についた。橋の上には誰もいなかった。俺は好奇心にかられて橋の真ん中から下を見た。Kも側に来て川面を覗きこむ。

 ドン!

「うわあ!」

 欄干を越えたKの体。俺は咄嗟にKの腕を掴んでいた。俺が突き飛ばしたのに。

「何するんだよ!」

「すまん」

「すまんじゃないだろう」

「それより、お前、下を見てみろよ」

 Kがキョトンとした顔をした。

「下? そんなことより早く引き上げてくれよ」

「いいから、下を見ろ」

「なんでだよ?」とぶつぶつ言いながら、Kが首を捻って下を見た。

「うわあ、なんだ、これは?!」

 橋の下には銀河が広がっていた。

「思い出せ。俺たちに何が起きたか」

 Kが顔を歪める。

「嫌だ、思い出したくない」

「俺たちは事故にあった。この橋の上で。そうだろう?」

 Kが顔を背けた。泣いているのだろう。

「ここは車が通れない橋なのに、軽が無理やり突っ込んで来た。酔っ払い運転だった。俺もお前も跳ね飛ばされて橋から落ちた。俺は死んだが、お前はまだ生きている。病院のベッドの上で。お前が目を覚まさないのは、お前の魂がこちらの世界にいるからだ」

 Kが俺を見上げ、両手で俺の手を掴んだ。

「この手を離さないでくれよ。俺、お前が、、お前が好きなんだ。一緒にいたいんだ」

 わかっていた。わかっていたからこそ、この役は俺がやらなければいけない。

「すまない」

 俺は目を逸らした。

「だがな、お前の気持ち、嬉しかった。だからこそ、生きてほしいんだ。生きて幸せになってくれ。お前はいい奴だ。お前だって生きたいって思ってるんだろう? この橋を渡りたくないのは、事故の記憶を思い出し始めているからだ」

「……これで、お別れなのか?」Kの押し殺した声が聞こえる。

「ああ、お別れだ。だが、いつかまた会えるさ。お前が寿命を全うしたらな」

 Kの体が光り始めた。光る魂になったKを俺は引き寄せ抱きしめた。Kの魂が俺を包む。やがて離れたそれは、ゆっくりと橋の下へ降りて行く。一度躊躇うように揺れ、銀河へ向かってダイブした。

 いつの間にか、二人の女性、髪の長い女と老婆が隣に立っていた。二人が頭を下げる。Kのご先祖様だ。Kを救おうとKの魂を橋から落とそうとした二人だった。

「事故の時、あなた様はあの子を庇って下さった。ですから、あの子は命をとりとめたのです。改めて御礼申し上げます」

 老婆が深々と頭を下げる。

「あなた様もあの子を……」

「お婆様、私達の役目は終わりました。さあ、参りましょう」

 髪の長い女が老婆の手を引いて去っていく。

 もう一度、橋の下を見た。

 銀河の片隅、太陽系第三惑星に向かって落ちていくKの魂。次第に輝きを増して行く。

 K、いつか、また、会おう。

 今度会ったその時は、俺の気持ちを伝えよう、愛していると。


(了)

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小さな橋の上で 青樹加奈 @kana_aoki_01

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