黒十字

ピエレ

 1

 小さな緑実を輝かせていた夕陽が薄れ、宵風に若梅の香が漂った。樹々の間の草土に倒れていた男子が、腕を痙攣させながら四つん這いになった。高校の制服が泥に汚れている。

「何で? 何でおれが、いつもこんな?」

 血反吐が腫れた唇から垂れ、奈落へと糸を引いた。

 曲がりくねった樹々が、尖った影を震わせ、あまたの枝を彼の方へ伸ばしていた。

「あのう・・」

 予期せぬ女性の呼びかけが背を突いて、彼はおののき尻を着いた。背が曲がった樹に当たった。

「あのう・・」

 薄闇に娘が立っている。

「れんくん? 坂口れんくんでしょ? あたし、川島みち」

 彼女も高校の制服を着ている。ショートの黒髪の痩せた娘だ。頬が青白くほのめき、大きな瞳が星屑を呑んだような深い輝きを秘めている。

「川島、みち?」

 坂口蓮は苦しげに言葉を吐き出した。

 美智は枝を避けながら、男のすぐ前に膝をついた。

「まさか、あたしのこと、知らんと? 同じクラスなのに」

 美智はハンカチで蓮の唇の血を拭いた。

「その顔、見たことあるかも」

 指先が傷口に触れたので、蓮は顔をしかめた。

「毎日教室で見とるよお。あたし、ずっとあんたのこと、見てたのに。だって、あんた、坂口めぐみさんの弟でしょ? めぐみさんは、あたしのお兄ちゃんと、もうすぐ結婚するとよ。それも知らんと?」

 蓮は顔を背けて、口内の血糊を吐き捨てた。

「じゃあ、おまえの兄ちゃんは、川島さんね?」

 美智は草土の血反吐に目を剥きながらうなずき、ハンカチを差し出した。

「これ、あげるけん、自分で口、拭かんね」

 蓮は取ろうとしなかった。

「何で? 何でおまえ、こんなひとけのないとこへ、来た?」

「あんた、放課後、たくみくんたちに呼ばれて、ついて行ったでしょ。あたしが帰り道で長門石橋を昇りかけていたら、たくみくんたち三人が梅林寺の方から来るのが見えたけん、もしやと思って、引き返して来てみたとよ。そしたらあんたがおった。れんくん、いつもあいつらにやられとるとやね」

「おまえだって、おれに関わったりしちゃ、あいつらに狙われるけん」

 娘の顔色が忍び入る闇に沈んでいく。

「大丈夫、見られとらんけん」

 暗い瞳がもつれるように絡み合った。

「もう、おれたち、会わんほうがよか」

「毎日教室で会うじゃない。それに、あたしのお兄ちゃんとめぐみさんが結婚したら、あたしら、親戚になるとよ。嫌でも会うごつなるけん」

 蓮は梅の木の枝を支えにしながら立ち上がった。

 美智もふらつく彼を支えようと手を差し出しながら一緒に立つ。そしてスカートのポケットから何かを取り出した。彼女の手から白い光が浮かび上がった。

「ねえ、あんたも、携帯出して。アドレス交換しよう」

 スマホの光を受けた美智の瞳が想像以上に艶やかに見つめてきた。

 蓮は息を呑んで固まった。

「嫌なの?」

 蓮は驚いたように顔をそらすと、近くに落ちている鞄をひろい、無言のまま樹々の間を歩き出した。

「えー、シカト?」

 美智は追いかけ、両手で男の肘をつかんで引き留めた。

 蓮がほどこうとすると、彼の肘が娘の乳房を痛打した。

「何すっと?」

 美智は悲鳴をあげながらも腕を離そうとしない。

「おまえが離さんけん」

 力ずくで振り払おうとすると、美智も負けずにしがみつき、蓮の腕はなおも娘の胸に食い入ってしまった。

「いやらしかあ」

 抵抗をやめた蓮の口から、うわずった声がもれた。

「携帯、なかと」

「えっ、何て?」

「携帯なんて、とっくにやつらに奪われとる」

 美智は腕を離して、うつむく男に熱いまなざしを注いだ。いつしか蓮の目も、美智の星影秘める大きな瞳に釘付けになっていた。

「どうして、そげん、見ると?」

 そう問われた蓮は、再び背を向けて歩き出し、樹々に体を擦らせながら、暗い筑後川の方へ出て行った。

「この世にこんな美しいものがあるなんて」

 と彼の口からもれ出ていた。

「何、あいつ? ほんと、好かんタイプ」

 と美智はつぶやいていた。

 もう彼女は蓮を追おうとはしなかった。濃密さを増していく闇に浸りながら、空にひときわ大きく光りだした木星を見やった。その遙かなる輝きがにじんで見えなくなった時、彼女は涙溢れる自分に驚いていた。














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