14時35分
――なんて、これまでの半生をつらつらとネガってみたりしたけれど、私がこんな憂鬱とした気持ちになっているのは、何も人生に絶望しているからではないのだ。そもそも、今を生きる女子高生が過去に引きずられるなんて、あり得ないというか。
今、私の胸の奥の底にどんよりとした雲が覆い被さっているのは、つまり――この手に収められた期末試験の英語の答案――の右上の隅に真っ赤なペンで大きく書かれた19という数字――よりも、もっと大きく書かれた「追」の一文字――すなわち追試を受けろという非情なる宣告の頭文字である一文字――つまり高校生が最も忌嫌う不吉なワード「赤点」の二文字が頭の中にデカデカと飛び込んできたからにすぎない。
「はぁ……」
思わずため息に似た何かを
我が高校の規則では20点未満は有無を言わさず赤点となる。つまりは、あと1点取れていればセーフだった訳なのだけど――よりにもよって「white」のスペルを間違えて「wite」と書いてしまったせいで1点減点だなんて、めっちゃ笑え……るわけないでしょ!
英語で赤点を取ってはいけない。英語以外、たとえば化学ならOKなのは分かっている。だって、1年の2学期と3学期に計2回も赤点を取ったのにも関わらず、一度も追試が開かれないまま無事に進級することができたのだから。
もしかすると我が校には「女子は理系科目など勉強しなくても良い」などという大昔のオジサン的な固定観念が根付いているのかもしれない(そうだよなんて、口が裂けても言わないだろうけど)。それが仮に事実だとしても、救われている私がいるのもまた、事実なのだ。全くもって悪い話ではない、私にとっては。
一方、英語となると話は別だ。追試の魔の手から逃れる術はない。うちはキリスト教系――いわゆるミッション系の学校だから、英語教育にはとりわけ力を入れている。暗黙の了解的なことでなくて、入学パンフレットに「グローバル化が進む社会において世界のあらゆる場所で活躍できる人材を育てます」って書かれていることからも容易に想像することができる、学校の基本方針なのだ。まあ、この学校の卒業生で海外在住のバリキャリがいるなんて聞いたことないけれどね。それはともかく、英語が出来ないような生徒は、その一点だけで容赦なく切り落とされる。例えばクラスには2人のダブった先輩が在籍しているけれど、風の噂によれば2人とも英語の追試に失敗して一発退場をくらったらしい。
残念だけど、取ってしまった以上は仕方がないと割り切るしかない。ぴったり一週間後に実施される追試にさえ合格すればいいのだから。赤点だけど、レッドカードではなくてイエローカードなのが不幸中の幸いと言えるかもれない――
「ねえ、真珠は何点だったの? ちょっと見せてよ!」
しばらく現実を直視できなかった私が現実に引き戻されたのは、手の中にあった答案がクシャクシャと乱暴に取り上げられたからだ。はっと後ろを振り返ると、
「や、やめてよ。返してよ」
精一杯の声は、彼女には届かない。いや、聞こえているけど聞いていない、という風に見えた。
「うっそ! 赤点じゃん! 19点だって!」
「え、マジ? ヤバない? 私、初めて見たんだけど」
「真珠、ダブるん? アハハ、カワイソー!」
彼女とその取り巻きが、嘲笑の眼差しでこちらを見ている。クラス中に聞こえるように大声で点数が読み上げられて、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。「かわいそう」って言った? 私には「ざまあみろ」としか聞こえなかった。
私は彼女たちが苦手だし、嫌いだ。特にその中心にいる美春が、たまらなく嫌いだ。
成績は学年のトップクラスで、スポーツも卒なくこなして、明るくクラスのムードメーカー的な位置にいて、端麗な顔立ちで――書けば書くほど私とは対照的な存在。私とは違って、赤青黄と、様々な色を持っている。普通は色を重ねれば黒に近づくのだけれど、七色というかキラキラと光り輝いているような、そんな風に見えて仕方がない。
「アンタ、あまり頭がよくないじゃん。つーか、バカ? この際だからダブって一から勉強しなおしたら?」
この、口の悪さは真っ黒とでも言うべきか。こんな私は無視でもしてくれればいいのに、なぜだか、からかい、突っかかってくる。私という空白が、そんなに可笑しいのだろうか?
「そんなの、できるわけないじゃん! だって――」
「だって、何?」
「……」
その先の言葉が、喉元で引っ掛かって出てこなくなった。
「ふーん、だよねー。だって、アンタの家、ビンボーだもん。ダブったら、カネが掛かっちゃうかもね?」
そうだよ。ママは私が産まれてからすぐに離婚をして、ずっと女手一つで育ててくれた。わがままを言って私立の高校に進学させてもらったけれど、ホントは家計が苦しいのを知っている。ママは仕事が終わった後に毎日自宅で副業をしているのだから。だから、私には留年なんていう選択肢はないし、これ以上の迷惑を掛けたくない。でも、それって普通の感覚じゃない? 裕福な家に生まれた美春には、こんな私の気持ちなんて分からないのかもしれないけど。
「アンタが使っている、この筆記用具だって、全部100均で売っている奴でしょ? 節約生活、マジ泣けるねぇ」
「総額千円以下? 普通にドン引き案件なんですけど」
「ペンぐらい、いいやつ買おうよ」
彼女たちの嘲笑は止まるところを知らない。
―― ちょっと待ってよ! これは別に倹約するためとかで100均で買っているわけじゃないんだから! 例えばそのマーカーはちょっとラメ入っていて綺麗だから揃えてみただけだし、今は100均でも結構良いのが売っているんだって! ――
って、言ってみたい。でも、言えない。言えるわけがない。
黙ってうつむいていると、美春は笑みを浮かべながら小さく耳打ちをしてきた。
「じゃあさぁ……オトコ、紹介してあげようか?」
「え???」
この子、何を言っているの?
「月に5? いや、頑張れば……10とか?」
「え??? あ……それって……そんなこと……」
その言葉の意味が鈍感な私にもようやく伝わってきた。さっき点数が読み上げられた時以上の恥ずかしさで、胸がいっぱいになる。
「……」
「……」
ちょっとした静寂に包まれる。
「……ぷっ」
「ギャハハ!!」
取り巻きの一人が思わず吹き出した。それが号令だったかのごとく、一斉にゲラゲラと品の無い笑い声がどっと沸きあがった。
「ジョーダンに決まっているじゃん! 私が? そんなこと? 真に受けちゃって。バッカじゃないの!?」
分かっているよ、そんなこと。
「てかさぁ、どんな想像したのか知らないけど、自分、鏡を見たことがあるの? アンタみたいなブスが?」
「……」
死にたい。
「ちょっと、黙ってないでさ、何とか言ったらどうなの?」
「……」
消えたい。
無言を貫けば飽きてどっかに行ってくれると期待したけれど、さっきよりも増して嬉しそうに、こちらの顔をマジマジと覗き込んでくる。
こんな奴と同じクラスじゃなければ良かったのに。留年を回避しても、あと一年は一緒だと思うと、心底嫌になってくる。
こんな時に助けてくれる子は――
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