第88話、侍女(覚悟)

「んにゅ・・・なんじゃ・・・あったかい・・・?」


 むにゃむにゃと呟きながら、賢者は心地良い感覚と共に意識が浮上するのを感じた。

 それはしっかりと起きた訳ではなく、半ば夢の中に居るような感覚だ。

 ぽややんとした意識の中で視界に捉えたのは侍女の姿。


「ザリィ・・・?」

「起こしてしまいましたか。申し訳ありません。もう少々で終わりますので」

「んむ・・・?」


 賢者がぼーっとした頭で自分の姿を見下ろすと、下着以外何もつけていなかった。

 そして侍女の手には手ぬぐいが握られており、傍にお湯の入った桶がある。

 という事だけを認識してはいるが、それに対し特に何を思う事も無かった。


「・・・起きてませんね、これは」


 目が開いているだけで寝ている。そう判断した侍女は止めた作業を再開する。

 手ぬぐいをお湯にぬらして軽く搾り、優しく賢者の体をふく作業を。


 青年と別れた後、侍女は賢者を休ませる為に当然だが部屋へ向かった。

 ただ賢者は訓練で少なくない汗をかいており、そのまま寝かせるのは如何なものか。

 とはいえ起こして風呂にというのも心苦しいと、賢者を寝かせたまま拭いている。


「んみゅ・・・ひもちいい・・・」

「ふふっ、そのままお眠りになって構いませんよ」


 その心地良さに開いたはずの目はまた閉じられ、寝言の様に呟きが漏れる。

 いや、意識がはっきりしていない呟きなので、実際に寝言と変わらないだろう。

 そんな賢者の様子を微笑ましく感じながら、侍女は賢者の全身を拭いて服を着替えさせる。


「はい、お嬢様、ごゆっくりお休みくださいね」

「んんー・・・やすみ・・・」

「ふふっ」


 可愛らしい笑みを見せながら、舌足らずにもにゅもにゅ喋る賢者。

 普段は割と幼児らしからぬハキハキした喋りなので、今の賢者は余計に可愛らしく見える。

 侍女は優しい笑みを浮かべながら賢者の頭を撫で、少し寂しげな顔で熊耳を少し撫でた。


「これが無ければ・・・いえ、今更言っても仕方のない事ですね・・・」


 侍女は賢者の熊耳を見つめ、どうしてもその熊耳を恨めしく感じていた。


 山神に見初められさえしなければ、我が家の可愛いお嬢様はただのお嬢様だった。

 戦争に向かう必要なんて無かったし、戦争で人を殺す必要も無かった。

 幸いはお嬢様が『人を殺した』という事に、余り意識が行っていない事だろうか。


 それはそれで良くない事ではあるのだろう。けれど苦しむお嬢様を見たくない。

 きっと何時かは直面する日が来るけれど、今暫くは平穏に過ごして欲しい。

 お嬢様は年端もいかぬどころか、本来なら家族に愛されるだけの幼児なのだから。


 それもこれもこの熊耳さえなければ、山神に見初められてさえいなければと。


「・・・ふふっ、何時か天罰を受けてしまいそうですね、私は」


 国よりも、国王よりも、崇めるべき山神よりも、自分は目の前のお嬢様を選んだ。

 この可愛らしいお嬢様をただの子供として育てたいという、主人の願いに同意した。

 そして気持ちは今も変わらず、お嬢様が幸せになれる様にと願っている。


 だからこそあの王太子殿下には、今のままでは預ける事が出来ない。


「訓練、訓練ですか。一体何の為の訓練やら。お嬢様の魔法を突破して、一体何をするつもりなのでしょうね・・・お嬢様を殺す術を探している様にしか見えませんでしたよ」


 侍女は穏やかな寝息を立てる賢者を見ながら、賢者の展開していた魔法を思い浮かべる。

 そしてそれに相対し、あらゆる手段で下そうとしていた青年の姿を。

 訓練場で戦う姿を思い出す侍女の目は、おそらく知る物が少ないであろう目をしていた。


 家の『敵』を見る目を。お嬢様の『敵』を見る目を。殺すべき『敵』を見る目を。


「王太子殿下。ギリグ家の方々を失望させないで欲しいものですが・・・どうでしょうね」


 賢者が『良い』と言ったから婚約を許した。ギリグ家の判断はただそれだけだ。

 王太子殿下を信用など欠片もしていない。もっと言えば王家を信用していない。


 それは何も国王や王子を信用していないとか、この国は信用出来ないという訳ではない。

 精霊術師になった者の家族として、王家が賢者をどう扱うかを信用出来ないという意味だ。

 王族の精霊術師に対する目。一部の隙も無いあの目。それがどういう意味であるか。


 ―――――常に殺し合いに備えている。


 味方に向ける目ではない。いつか殺すべき敵に向ける目を、侍女は確かに見た事がある。


 賢者に対して見せた事も無くはないが、他の精霊術師に対しての視線を。

 精霊術師が暴走した時の事を知っていれば、その警戒もおかしいとは思わない。

 特に我が家のお嬢様は、おそらく歴代の精霊術師の中でも群を抜いているのだから。


 いざという時に国に害を与えるよりは、速やかに殺害をするのが一番の対策だろう。


「・・・殺させませんよ、お嬢様は。何があろうとも」


 たとえ自分が殿下に勝てずとも、盾にさえなれば一瞬の時間は稼げる。

 そしてその一瞬があればお嬢様は勝機を得られる。今日の光景でそれを確信した。

 お嬢様の魔法は剣を振る速さを越えている。剣士の踏み込みと同じ速度で魔法を放てる。


 ならばそれは、お嬢様を守る盾さえあれば、後は何の心配も無い。


「・・・お休みなさいませ、お嬢様。失礼致します」


 きっとお嬢様はそんな事を望まないだろう。優しいお嬢様はきっと私を怒るだろう。

 うぬぼれでも何でもなく、お嬢様が私を好いてくれている事は解っている。

 私が倒れた後に、お嬢様が悲しむであろう事だけが心残りか。


 そんな風に考えながら静かに部屋を出て、賢者を起こさないように扉を閉める。

 音も無く扉が絞められた後、侍女はすぐ傍に居る護衛に目を向けた。


「お嬢様はお眠りになられたままですので、引き続き警護をお願いしますね」

「お任せ下さい」


 力強く頷く騎士に頷き返し、軽く仮眠をとるべくその場を後にする。

 お嬢様が起きている間は常に傍に居る。その為には休める時は休んでおかなければ。

 勿論『侍女』である自分では、どうしてもついて行けない所もあるのだけれど。


 それでも、出来る限り傍に居る。お嬢様を守る大人として。お傍に。

 もはや誰も彼もがお嬢様を子供として見ないのなら、せめて私達だけでも。


「お嬢様は、命に代えてもお守りしますよ」

「よろしくお願いします」


 自分達が一騎当千ではない事など解っている。それでも守って見せよう。

 この命を盾として。そう告げる護衛に、侍女も笑みを見せて応える。

 何時もの様に。今までの様に。そしてこれからも。


 我らの可愛いお嬢様は、ただの可愛いおてんばなお嬢様なのだから。

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