第8話「恋愛小説」

 袁閃月えんせんげつは、冥現鏡めいげんきょうをくぐって現世に再び出現した。場所は、前回と同じくうらぶれた天帝廟だ。だが、前回とは違う点がある。天帝像の前に置かれていた台は倒れ、供えられていた杯や皿が床に散乱している。


「どうやら、明明さんもここに来た様ね。まだそれほど時間も経っていないみたい」


 閃月のすぐ後に到着した劉陽華りゅうようかは、床を注意深く調べながら言った。床には、外に向かって水たまりが出来ていた。


 恐らく明明が外に出て行った痕跡に違いない。明明は水落鬼であり、常に水気をまとっている。先ほどまでいた閃月達の屋敷には神通力が施されているので、その能力を制限されていた。だが、いかに天帝が祀られているとはいえ、ただの廟ではそうはいかなかったのだろう。


「閃月さん。すぐに後を追いましょう。明明さんは呉開山ごかいざんの所よ」


 陽華に促された閃月は、すぐに廟の外に出た。廟の外は土砂降りで視界が悪く、通りの反対側さえ見えない程だ。閃月が先程現世に来た際は、雲一つ無い晴天であり、この様な豪雨に襲われるなど予想できる状態ではなかった。


「これは一体?」


「多分、明明さんの水落鬼としての能力が暴走しているんじゃないかしら?」


 愛の果てに心中さえ試みた相手が、自分を裏切っていた事を知ったのだ。そのため、感情が昂っているのだろう。そのため、本来全身が常に濡れている程度の怪異が、これ程の豪雨を起こすほどになったのだ。


 閃月の記憶には、これ程の豪雨の経験はない。雨の多い水害が多発する時期ですら、これ程降る事は無かったはずだ。と言う事は、これだけの雨が降り続けば、辺り一帯に洪水が引き起こされたり、地滑りや建物が倒壊する恐れがある。ましてやここは都なのだ。世界一の人口と繁栄を築いているとも言われる枢華すうか世界の中心地なのだ。人口密度は比ではない。その被害は場合によっては数万人から数十万人に達するかもしれない。


「すぐに明明さんの気を鎮めねば。こっちだ。行くぞ」


 閃月の先導で、二人は呉開山のねぐらまで走り出した。降りしきる雨粒によって視界は悪いのだが、閃月は道を覚えている。閃月達は迷わず進んで行く。


 閃月達は既に死んでおり、今は鬼になっているため生者から見られることは無いし、物に触る事も出来ない。だが、不思議な事に雨粒の感触を二人は感じていた。地面をすり抜ける事も無いので、何かの法則があるのかもしれない。


「陽華さん。あなたは、呉開山が明明さんを騙していた事に、気付いていたんですか?」


「ええ、そうね。だから、あなたが前もって呉開山の素性を調べに行く事に賛成したの。もし私の思っていた通りの人間だったら、明明さんに黙っておくためにね。隠し通せませんでしたが」


 閃月が現世から戻って呉開山の人物を伝えた時、陽華は全く動じる様子が無かった。そのために陽華が呉開山の人物像を予想していたのだと閃月は感じ、陽華はそれを肯定した。


「なんで分かったんですか?」


「そういう話が、最近流行ってるのよ」


 陽華の説明によると、都では最近「小説」なる分野の書物が流行っているのだと言う。そしてそこでは空想や娯楽の話が書かれているのだ。


 書物は従来、天下国家を語るための物であり、娯楽などのための物ではない。そのため、従来の書物である「大説」に対して新しい分野の書物を「小説」と呼んでいるのだ。


 いまだ紙は高価な物であり、庶民には手を出すことが出来ない。そのため、小説は富裕層で流行っている。そして、士大夫層は小説の価値に対して否定的な者が多いため、自然と小説を読むのは商人達が多くなる。


 まあ、隠れて小説を貪り読む士大夫も存在するのであるが。そもそも、小説と馬鹿にされる書物の内容には、様々な歴史書や学術書からの引用も数多く、執筆しているのはどう考えても士大夫である場合が多い。単に生活に困窮して書いているのか、好き好んで書いているのかは人それぞれであるのだが。


 それはさておき、元々小説は士大夫の学者先生方が隠れた執筆者だったことが多く、過去の英雄豪傑が活躍した歴史をもっと娯楽的に取り上げたものや、神話から現代に至るまでの神仙や妖怪を題材にする事が多かった。


 だが、最近の小説界隈に新たな潮流が生まれた。


 恋愛小説である。


 富裕層の男性の間で流行っていた小説は、その内家族内の女性にも読まれるようになって来た。そうやって一定数の女性読者が増えると何が起きるか。それは、女性執筆者の誕生である。


 小説を読んだ者の内、ある一定の割合が自ら書きたくなるのは、世の真理である。


 そうして女性執筆者が増えた結果生まれたのが、恋愛小説である。女性にとって、英雄豪傑や妖怪話も興味を引く題材であるのだが、やはり恋愛こそが最も高い関心事であり、その分野にはこれまでの男性執筆者は手を付けていなかった。


 そして誕生した恋愛小説は、富裕層の女性たちに広く読まれるようになり、彼女らはそこで描かれる様々な恋愛譚に自分を投影していく事になる。


 なお、世に流行っている連載小説には、男女間のものだけでなく男同士のものも実は存在する。存在すると言うより、結構な割合と勢力を誇っている。それは今回の件と関係ないし、閃月に説明しても理解を求めるのが難しいと陽華は判断したので、取り立てて話すことはなかったが、要は蓬王朝における娯楽小説はかなり発展していると言う事だ。


 閃月は、小説など全く読んだことは無かったのだが。


「それで、あなたと疫凶さんが調べ物で外に出ている時、明明さんに呉開山との出会いの話とかを聞いてみたの。そしたら、都で流行ってる恋愛小説の人気の場面が、出て来る出てくる。それで、何となく怪しいと思ったの。そんな、小説に書かれているみたいな話や男が、いるわけないって」


 明明から世間話を装って身の上話を聞いた陽華は、呉開山の怪しさに気付いた。明明は、深窓の令嬢であり、あまり外に出る事も無く男性と話す経験も無い。そのため、恋愛小説で描かれる様な恋に憧れていた。そこに現れたのが、呉開山なのだと言う。


 陽華は呉開山が恋愛小説を参考に、女性の気を惹いて近づいているのではないかと推察したのだ。


 呉開山と明明との過去の話は皆恋愛小説に似たような話がある。出会った時に妹への贈り物を選ぶために女性の意見が聞きたいと話しかけてきた事も、治安の悪い地域を進む時に庇う様にして歩いていた事も全部人気の恋愛小説に載っている。


 陽華も生前は人気作品である「明泉公主」や「碧州夢」等は読んでおり、明明の話を聞いた瞬間、これは小説の再現であると推察した。


 世間知らずのお嬢さんが、恋愛小説に出てくるような恋に憧れ、そして騙されて死んだ結果怪物となり果てている。


 この様な悲劇が起きている事に、閃月と陽華は激しい憤りを感じたのだった。

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