十月と人と浮世にあってなし 〈壱〉

 死に場所を探してなんておおげさなことではないけれど、人生に疲れたので当てのない旅に出た。看護師の仕事は辞めた。三十を越えてきつくなってきたのもないではないけれど、辞職のきっかけは職場とは無関係だ。


「顔だけは好きなんだよな」


 この一言が決め手になって彼氏と別れた。同居して一年、最初のうちは結婚を視野に入れていたれけど、それが段々遠ざかっていくのを日々実感するようになっていた。決め手の切れ味が鋭いといってもあくまできっかけにすぎなくて、お互い不満の石を無理な積み方で重ねていたのだ。これじゃ優しさは枯渇する。


 仕事を辞めて同居と賃貸契約を解消し、愛車で旅に出た。結局この車の方が彼よりも付き合いが長いままになった。ドライブで遠出するのが好きなので、多くの荷物を詰め込めて眠ることもできるこの車の仕様はとても気に入っている。買って良かった。


 旅に出る前に自分の持ち物はできるだけ処分した。売り払えないものは友人たちに引き取ってもらい、衣服は動きやすいものだけを、化粧品は最低限のものだけを残した。生理用品を削れないのが何故か今は無性に腹が立つ。


「これまさか形見分けのつもりじゃないよね」


 親しい友人に共通の趣味のファングッズ類全部を物ごとに箱につめて更に段ボールにつめて渡しに行った時、心配そうな表情できかれた。思わず笑ってしまい、謝りながらそんなつもりじゃないと答えた。この三十路女、推しを捨てて死ぬつもりなどまだまだ毛頭ござらぬ。


 車に備え付けのカーナビとスマホに加え、よく行く本屋で買った道路図が数冊、重火力すぎるこれらの羅針盤に満遍なく出番があるとも思えないけれど、当てのない旅だから少しは使う気がした。


 とりあえず海から離れたかったので、一番近い北向きの国道に入ってひたすら車を飛ばした。生まれてからずっと神奈川県の太平洋に面したところで暮らしてきたし、彼氏が、もう元彼か、海好きだったし。あいつは泳ぐのもサーフィンも釣りも大好きな奴だった。大人になってからの私はどれも好きでも嫌いでもない。子供の頃は好きだったのに。どこかで海にうんざりしていたのかもしれない。あるいは恐怖。


 ともかく私はひたすらに走り続けた。ボーカルとベースを不幸な形でうしなったバンド、アリス・イン・チェインズを大音量で流しながら、気持ちが一段落するまで走り続けた。三時間後、ちょうど前方左に道の駅が見えてきたので休憩をとることにした。既に周りの風景は田舎のものにきりかわっている。


 猛暑の夏が突然おわった初秋、道の駅を遠巻きに囲む山々はまだ緑色をしている。できれば紅葉が鮮やかなころに旅を始めたかった。


 当てのない旅といっても少しは目的があった方が退屈しないですむと思い始めた私は、食堂でご当地 (らしい) ラーメンをすすりながら今後の小目標について考えをめぐらせた。歴史好きなのはこういう時に便利だ。べつに便利だから歴史好きなわけではないけれど。


 車に戻り、スマホで調べて行き先決定、カーナビに目的地として設定して出発する。マイナー史跡に立ち寄るぶらり旅で今よりも過去に目を向けよう。ずっと過去に。前が見えなくなった私にぴったりだ。車中泊できるだけの準備はしているもののできれば避けたいので、史跡近くでよさそうな宿泊施設を見つけて泊まることにしよう。金ならあるぞ。


 山間部のマイナー史跡を三か所巡ってそこそこな満足感を得た私は、ちょうど良い場所にある観光ホテルに宿泊した。翌朝の朝食後にネット検索で次の目的地に目星をつけてチェックアウト時に受付の年配の男性にきいてみると、「親戚の一人が住んでいるのでたまに行きますが別になんということはない平凡なド田舎ですよ」とのこと。ただ一つだけ注意事項があり、「村の中は場所によっては携帯電話が繋がらず圏外になります」とのこと。その時は「すこし場所をずらしたりすると良いですよ。だめかもしれませんが」とのこと。


「のどかでへいわなところですよ。時間がとまったようでね」とのお言葉が私の心をくすぐった。


「でもお客さん、あそこは今は宿泊施設がないんですよ。いや……ちょっとお時間もらえますかね。もしかしたら手配できるかもしれない」


 親戚の友人が民宿をやっていたのだが今は開店休業中、しかし頼んだら泊まれるかもしれないという。それならとお願いしてみた。この旅は厚かましくいこう。


「お客さん、大丈夫だそうですよ。いやあ良かったです。こっちもね、これで心配しなくていいから」


 夕食付の一泊、朝食はなしで予約してもらえた。とてもありがたいし、うれしかった。宿の人たちにお礼を言い、さわやかな気分で車に乗り込み四つ目の目的地に向かって出発。車の調子もいい。


 ここまでたずねた三か所は、ゲームに出るか出れないか微妙なラインの知名度の戦国武将の屋敷跡、幕末期の古戦場、蛇神の伝説がある沼地跡の空き地。どれも地元ではそれなりに語り継がれていたっぽい。特に武将に関しては地元の民俗資料館が充実していたのでとても楽しかった。


 次の場所は、飛鳥時代の有名な歌人の終焉の地といわれている村。この人の歌は万葉集にも入っているという。これだけなら今までよりメジャーな感じがする。でもそこは終焉の地といっても異説の地なのだ。


 その歌人、稲辺旅人いなべたびとの終焉の地として有力なのはそこからずっと北、山々を越えて日本海に面したところ。はっきりとした場所の特定には至っていないものの、その辺であるというのはほぼ間違いないというのが学者も民間も一致してる。万葉集の作者不明の歌のいくつかは彼の作ではないかと言われ、当時は役人だったと推測されている人物だ。私の次の行き先は史実と伝説めいた言い伝えのあいだの、源義経は奥州から落ち延びていた説みたいなものが残っている土地ということ。


 私は時間に止まってほしいのか、それとも気がついたら百年後でしたというのがいいのかと頭の片隅でテキトーに時間を転がしながら車を走らせた。


 その内に道路は二車線から一車線になり、道路の上には木の枝が張り巡らされるようになった。とはいえ路面はしっかりとアスファルト舗装されていて、ところどころに対向車をかわせるスペースもあったので困ることはなかった。軽トラと向きあうことが二回あったけれど、どちらも向こうの運転手さんがなれた運転で道をゆずってくれた。ありがとう。


 ホテルを出発してから二時間ほどで目的地に到着した。距離はそんなにないのに時間がかかったのは道路が山にありがちなアップダウンとカーブの連続であったからだ。途中に駐車スペースのあるトイレと休憩所があったのはありがたかった。


 村内を徐行して予約した民宿へ。少し大きめの普通の一軒家という趣だ。横にある駐車場に車をとめる。時計を確認するとまだ昼前だ。お腹も空いていない。


 民宿の玄関をくぐって挨拶すると、すぐに女将おかみさんらしき人が奥から現れた。もう部屋に案内できますよと言われたけれど、少し散歩してからにしますと答えて外に出た。車をとめた時にそばの山のふもとに見えた鳥居が気になっていてすぐに歩いて行ってみたかったのだ。


 御影石みかげいしのがっしりとした門構えの鳥居だ。その向こうに石段がある。神社の名前を確認しようとしたが、鳥居にも付近にもそれがわかるものが見当たらない。たぶん歌人にちなんだ名前なんじゃないかなとは思う。石段をのぼればわかるかもしれない。


 石段を数えながらのぼる。三十まで数えて面倒になってきて、半分意地になって数え続けていると四十九段で終わった。


 真正面に建物があるものと思っていたのに、なかった。石段の上がり先からまっすぐに参道があるのに先にはおやしろもなにもない。その代わりに地面に等間隔で刺された棒杭とその間にめぐらされた注連縄しめなわが何かを囲っているのが見えた。参道の石畳の上をあるいて近づいてみると、そこにあるのは池だった。どろりとした抹茶色でダムの人工湖に酷似している。生き物がいるのかどうかは抹茶の緑が濃すぎてわからない。注連縄は池をぐるりと囲っているのだ。


「こんにちは」


 突然うしろから声をかけられ文字通り跳ね上がった。


 ……恥ずかしい。振り向くとそこには私と同じくらいの身長の、女性らしい人がワンピースのドレスを着て立っていた。ドレスのデザインが妙に古めかしい。というのを思いながら平静を装って挨拶をかえす。


「こっこここんにちは」


「あの、旅の方でいらっしゃいますか」


「あああ、はいっ、そうです」


「この辺には面白いものはありませんのに、迷われましたか?」


「あ~その、わたし歴史好きなものでフラフラと旅してるんです」


「歴史、そうですか。なにか見つかると良いですね」


 やけに深そうなことを言う人だな。ちょっと困ってきた。


「はい。歌人の伝説でも知れたらな~って思ってます」


「歌人ですか、そうですか。それならこの辺りの人に聞けば誰でも教えてくれると思いますよ」


 女性はにっこりと微笑み、向きあっていた私の左に歩みを進めてすれ違うと、池を囲っている注連縄を躊躇ちゅうちょなく持ち上げてくぐり出した。ちょっと何をし出すんだこの人は!


「わたくしはこれから用事がありまして、あなたの知りたいことに答えられないのが申し訳なく思います。それではごきげんよう」


 は?


 女性はどんどん池に足を踏み入れて進んでいき、身体を沈めていく。深い。この池は間違いなく深い深い!


「ちょちょちょちょっと、ちょっと、危ないですよ!」


 私があわてて声をかけると、女性は振り返ってにこりと笑った。なんの屈託もない不気味さのかけらも無いまぶしい笑顔だ。


「わたくしはだいじょうぶです。それではごきげんよう」


 彼女はそう言ってこちらへ深々とお辞儀をすると、そのまま全身を池の中へ沈めてしまった。


 え?


 は?


 いいの?


 いや、良くない。


 私は一瞬フリーズした後、スマホを手に取った。119! 119!


 つながらない。謎の圏外問題だ。ああもう! 社務所は?


 あたりを見回すとそれっぽい建物が見えたので駆け寄りながら大声をあげる。


「すいません、すいません」


「はい、なんでしょうか」


 格子戸こうしどがガラガラ勢いよく開いて、ごま塩頭のおじさんが出てきた。格好からして宮司っぽい。


「今ですね、そこの池に女の人が沈んでしまいました」


 事態が異常な割には私が意外と冷静でいられるのは仕事柄か。もう辞めたけど。でも相手がそうとは限らない。だけどとにかく電話だ。


「ああ、ああ、そうですか。旅の方ですか。沈みましたか。ご心配をおかけして申し訳ありません。大事ありませんので」


 は?


(つづく)

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