第177話 岩塩鉱床へ……
――――ヒューバート
八角形の木製の箱の中心に磁石の針を設置し、ガラスの蓋でそれを覆った作りの方位磁石を時折見やりながら遠眼鏡を覗き込み、各方角に何があるかを確認しながら歩を進め。
そうやって犬人族達が「あっちにあるよ!」と教えてくれた岩塩鉱床へと向かうヒューバートは、弾む心の中で色々な事を考えていた。
下賤とされている獣人の血を引いている学問しか取り柄がない自分に目をかけてくれて、官職に拾い上げてくれた王の勅命により、辺境開拓の一翼を担うことになり、全くの手付かずの辺境を開拓出来ることになり……自分の中に溜め込んだ知識の全てを発揮出来るとなって、大喜びしていたのが去年の冬の終わり頃で……。
それから紆余曲折を経ることになり、冬が来るまで彷徨うことになり、ようやく開拓地へとたどり着くことが出来て……。
……そして今自分は、新たな領地獲得という大功を立てようとしている。
こんなにも嬉しいことがあるだろうか、こんなにも興奮することがあるだろうか。
何もない未開拓地で、自らの腕を存分に振るえるというのは内政官としてたまらないものがあり、初めてイルク村を歩いて回りその仔細を確認した時には、こんなにやりがいに溢れている村があるだろうかと興奮したものだが……今のこの興奮はそれとは全く比べ物にもならないもので、あの時の数倍は……いや、数十倍は胸が高鳴っていて、喉の奥から心臓が飛び出してきそうな程だ。
交易路が出来つつあり、しっかりとした特産品があり、その上塩まで採れるとなったら、一体どれ程の収益が上がるのだろうか、どれ程の書類仕事が出来るのだろうか、この地をどんなに豊かに出来るだろうか……。
そしてそれが上手くいくかどうかは、自分の双肩にかかっている訳で……こんなに嬉しいことがあるものかと、そんなことを考えたヒューバートは、興奮のあまり思わず身震いをしてしまう。
風も吹いていないのに唐突に身震いなどしてしまって、変に思われただろうかと振り返り……後方でソリ足を車輪へとつけかえた荷車を牽く公爵であり領主のディアスへと視線を向けるが、ディアスは気にした様子もなく周囲をきょろきょろと見回していて……荷車の持ち手をしっかりと掴みながらのっしのっしと歩を進めている。
その荷車の荷台には荒野まで荷車を牽いてくれた犬人族達の姿があり……、
『よし、ここらで交代するとしよう。
ここまでの道中で疲れたのだろうし……私が牽く間は荷台の上で休んでくれて良いぞ』
とのディアスの言葉を受けて荷台で休憩することになった犬人族達は、荷車の縁に両手を乗せてちょこんと座り、なんとも楽しそうな笑顔で周囲の景色を楽しんでいた。
まさか公爵が自らそんなことを言い出すだなんて……。
王都の人々ならば……王国の『常識的』な人々であれば、公爵ともあろう者が何を馬鹿なことをと嘲笑し、蔑んだのだろうが……ヒューバートはそうは考えずに、そんなディアスのことを好ましく思っていた。
初対面で自分の言葉を聞き入れてくれた。
初対面の自分を信頼し、様々なことを任せてくれた。
自分の言葉一つ一つにしっかりと向き合ってくれて、善意には素直な感謝を返してくれる。
知るべきことを知っていないというか、公爵として足りない部分があるにはあるのだが、そのことを自覚していて、怠けることなく勤勉で……時折考え事をしているのか、返事が曖昧な時もあるが……それでも彼は自分の話をしっかりと聞いてくれていた。
「やはり誰かが住んでいるような様子は見当たらないな。
犬人族達の鼻にも引っかからないようだし……サーヒィ! そこから何か見えるか!」
と、そんな声を上げたディアスは『まずはこの荒野が本当に無人なのかを調査する』とのヒューバートの言葉を受けてなのか先程からそうやって、周囲の様子へと意識を向けていた。
「いや! 何も見えないな!
無人っていうか、獣の姿も見当たらないぞ!」
空からそんな声を返してくれるサーヒィの目と、犬人族達の鼻と、ヒューバートが手にしている遠眼鏡があれば、ディアスがわざわざ何かをする必要は無いように思われるのだが、それでもディアスは懸命に周囲を見回していた。
「そうか、本当に誰も住んでいないんだなぁ……」
そう言いながら尚も周囲を見回して……そうして唐突に何か思いついたことでもあるのか、ハッとした表情を浮かべて……、
「あ……!
ミュレイア……いや、メァレイアの方がメーアらしいか」
と、そう言ってディアスはメァレイアとの名を何度も呟いて……しっくり来るものがあったのかこくりと頷く。
その様子を見ていたヒューバートは小さく笑ってから……自分も自分のすべき事をしようと視線を前方へと戻し、方位磁石と遠眼鏡を使っての確認を再開させる。
ディアスとはつまり、こういう人物なのだろう。
じっとしているよりも働いていたい、座学よりも体を動かしている方が良い。
やるべきことには全力で取り組んで……全力が過ぎて効率が悪くなってしまうこともある。
名前を考えるのなんて後でやれば良いのにと周囲が言っても、名前を待っているメーア達に申し訳がなくてそれが出来ない。
もしかしたら人はそれを馬鹿だと言うのかもしれないが……ヒューバートにとってはそんな所がとても好ましく思えた。
本物の馬鹿というのは、剥き出しの嫉妬心をぶつけるばかりで仕事をしなかった元同僚や、生まれだけが立派で無能を自覚せず他者の邪魔ばかりしていた元上司のことを言うのだろう。
そうした馬鹿共が居ないこの仕事場は、ヒューバートにとってとても仕事がやりやすい、居心地が良いものであり……その居心地の良さがヒューバートの興奮を更に強いものとしていた。
そうして更に心が弾み、足取りが軽くなり……ヒューバートがずんずんと足を進めていると、空を舞い飛ぶサーヒィが大きな声を上げてくる。
「お、おい、前方に何かとんでもないものがあるぞ!
何かっていうか……あれか、あれが岩塩鉱床なのか!?」
その声を受けてヒューバートはすぐさまに遠眼鏡で前方を見やり、その何かとんでもないものを見つけようとするが……方角が間違っているのか何なのか、それらしい物は何処にも見当たらない。
「そこからだとまだ見えないだろうな!
もう少し足を進めれば……アレが嫌でも見えてくるはずだ!」
サーヒィが続けてそう言ってきて……逸る気持ちに負けたヒューバートは遠眼鏡と方位磁石を懐の中にしまってから駆け出し、少しでも早くそれを視界に入れようとする。
とんでもない岩塩鉱床とは一体どのようなものなのか……もしかしたらもしかすると、とんでもない埋蔵量の、空から見て分かる程の大鉱床なのだろうか。
そう思ったら居ても立ってもいられず、駆けて駆けて息を切らして……そうしてサーヒィが言うソレを目にしたヒューバートは、唖然とし……何も言えずにその場に立ち尽くす。
それから少しの時が流れて、荷車を牽くディアスが追いかけてきて……そしてヒューバートが唖然としながら見やるソレを視界に収めたディアスは感嘆の声を上げる。
「おお……これはまた凄いな、まるでスープ皿じゃないか……。
岩塩を拾ってくると言うから、どんな風になっているかと思えば……まさか岩塩だけの大地があるとはなぁ」
ディアスの言う通り、ヒューバートの眼前にあるそれは、一面に広がるそれは岩塩の大地であり、そこから相当な量の岩塩を掘り出し、持ち出したのだろう……まるでスープ皿のように大地がへこんで……いや、えぐれていた。
とても緩やかな傾斜の大きな大きなスープ皿。
一体どれ程の量の岩塩を採掘したらこうなるのか、想像することも出来ないとんでもない巨大さ。
その圧巻の光景に見とれたヒューバートはふらふらと岩塩の大地へと足を踏み入れ……足元に落ちている岩塩の欠片を拾い上げる。
雨に打たれ土にまみれて薄汚れているが、汚れを払ってやるなり割ってやるなりしたなら赤みがかった綺麗な白色を見せてくれる。
割った断面を舐めたなら強烈な塩味が口の中いっぱいに広がって……そうしてヒューバートはぐっとその拳を握り込むのだった。
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