地底十番街のネオン
可惜夜アタ
第一章
第0話 十番街のプロローグな夜
地底の一日は、夜に始まる。
「ねー、ネオン、夕食のトースト多めに焼いたけど食べる?」
階下から呼ばれて、ネオンはゆっくりとベッドから起き上がった。
「……食べる」
尖った尻尾を眠たげに揺らし、目を擦りながらカーテンを開ける。
窓の向こうには、幾多のネオン看板が輝く、だだっ広いビル街が広がっていた。
排水溝に反射するライトのきらめき。
眼下を通り過ぎるバイクのエンジン音。
夜の喧騒をぼんやり眺めていると、再びネオンを呼ぶ声がした。
「おっけー、今日仕事でしょ? 糖分もたっぷりつけとくから、焼き立てのうちにおいで」
「サニークロエのローズジャムがいいな」
「それはネオンが先週、空き巣に投げつけて駄目にしたじゃん」
「そうだった」
ふああ、と短く欠伸をする。
と同時に、枕元に置いたままのスマホがけたたましく鳴り始めた。
「……クソ、あの女じゃん、しつこいな」
深紅のネイルが光る指が、すかさず通話拒否ボタンを押す。ついでにブロックも忘れない。
そして、スマホをパンツスーツのポケットに突っ込んで、部屋を後にする。
「おはよ、シーシャ」
一階へと下りて、アパート共用キッチンの扉を引く。
髪に水滴を纏った少女が、シンクに肘をついて、ライムソーダを飲んでいた。
「おはよう~。夕食そこに置いたよ」
「ありがと」
テーブルに並べられたトーストの一枚を手に取ったネオンは、もにゅ、と一口噛んで、何とも言えない顔をした。
「シーシャこれ、何塗ったの?」
「プランクトンクリーム」
「言ったじゃん、水妖向けの食べ物は口に合わないって」
そうだっけ、とシーシャと呼ばれた少女がしらばっくれる。人の形をしているが、その下半身はうっすらと透け、銀と水色の混じる髪には渇くことのない水の雫が絡みついている。
「あのね、シーシャ」
ネオンは、トーストを完食すると溜め息をついた。
「ごめんって、用意してから思い出したの。それよりネオン、今日はどこ行くの」
「バー・シャーデンフロイデってとこ。新規の依頼があったから」
「へぇ、なかなか期待できそうな顧客だね。わりと有名らしいよ、そのバー」
「そうなの? いつものスーツで大丈夫かな」
「いいんじゃない。いかにも”用心棒”って感じだし」
シーシャは微笑んでネオンを見つめる。
ネオンは全身鏡に視線を向けて、じゃあいっか、と笑った。
黒いパンツスーツに丈の長いジャケットを羽織り、赤いリボンタイをなびかせた少女の姿が、そこに映っていた。金色の髪がキラキラと蛍光灯の光を反射している。
黒いコウモリの髪留めで、ぱちんと髪を一つ結びにまとめた。
自らの姿に満足して、テーブルに向かう。
トーストをもう一枚手に取ろうとした時、ポケットから再びスマホの通知音が鳴った。
「ええ、さっきブロックしたばっかりなのに、早すぎ」
ノールックで拒否してブロック後、二枚目のトーストを口に押し込んだ。
「電話、いいの?」
「うん」
しかし再び通知は鳴り出す。
鳴るたびに拒否してブロック、そんなことを数度繰り返していると、
『あー、あーあーあー。……ネオン! ネオン・ライト返事なさい!!』
「うああうるせええええ!」
鼓膜を通り越して脳内にダイレクトにぶつけられる信号に、ネオンはたまらず悲鳴を上げる。
シーシャも驚いてグラスをひっくり返していた。
『あら、精神感応の範囲が少し広すぎましたかね……あーあーあー、これでどうでしょう。音量大丈夫ですか?』
「あんたまさか、地区一帯にテレパシーでヒトの名前流したんじゃないでしょうね!」
『だってネオンさんが通話に出てくれないんですもん……』
「出るワケないでしょ、あんたに関わるとロクなことがない」
『今回はただお仕事をお願いしたかっただけなんです!』
「あいにく、仕事なら間に合ってるし」
『そこを何とか!』
シーシャは注ぎ直したライムソーダを一口、吞み込んだ。
精神感応で言葉のやり取りをするのは相当に高度な技術のはずだが、まるで目の前で対面しているかのように会話は流れていく。
『ほら、この地区も昔に比べてだんだんと人口が減ってるじゃないですか。そろそろ何とかしないといけないと思うんです。ちょっと嘆きの河に行って住民を勧誘してきてくれませんか? ほんの一人でもいいですから!』
「嘆きの河での勧誘は少し前に規制されたと思うけど……」
『嘘っ!? こないだ地上での勧誘が禁止されたばっかりなのに?』
「それは数百年も前の話、っていうか私生まれてないし」
『まったく、規制規制規制って、すっかり地獄らしくない世の中になってしまって嘆かわしい……』
「用件がそれだけなら、私もう仕事に行くから」
『ああ、待って待ってネオンさん! お給料は出しますから、手が空いたらお屋敷に来てください。模様替えを手伝ってほしいんです』
「ねえ、私はあくまでボディーガードで、便利屋じゃないんだけど……」
『そうですね、この地区をオリエンタルな感じにしてみるのはどうでしょう? 九龍城でしたっけ、ああいうのもロマンですよね』
「模様替えって街ごと?」
『ここに住みたがる住民も増えるかも』
「話聞け!」
しばらく不毛なやり取りをした後に、テレパシーは途切れた。『また時間をみてかけますね』と嬉しくない挨拶を残して。
筒抜けの会話を大人しく聞いていたシーシャが、ぽかんと口を開いた。
「……ネオン、まさか今のフルーレティ様?」
「そうだけど」
「この地区の上級悪魔によくそんな態度がとれるよね。ねぇ、どこで親しくなったの?」
「別に親しくなんかないし、色々あったの、思い出したくもないけど」
水妖の少女の薄い眉が、八の字に曲げられる。
「余計なお世話かもだけど、あんまり不遜な態度取ってると、そのうち追い出されたりしちゃうかもよ」
「あいつのオモチャになるくらいなら、そっちの方がマシ。そもそも、私はフラウロス様の地区に住むのが夢なの」
「ああ、昔の恩人だっけ? ホント好きだねぇ。フラウロス様は確かにワイルドでかっこいいけど、フルーレティ様も美人だし可愛いし何が不満なんだか」
「会えばわかる」
「ふぅん? そういえば時間は大丈夫?」
「あ、そうだね、もう行った方がいいかも」
「じゃあ頑張って、またおやつの時間にね。あたしもそろそろお店開けようっと」
ビルの外に出ると、魔力星の輝く地底の空が広がっていた。『シーシャのインスタントコーヒー』と書かれた看板の下、錆びたシャッターが開く。濡れた髪がひょっこりと現れ、湿り気のある手がひらひらと揺れてネオンを見送った。
地底の一日は、夜に始まる。
地底には夜しかないから、当然といえば当然なのだが。
(さて、バー・シャーデンフロイデ、ねぇ)
目的のバーは九番街にあるらしい。ネオンはポケットの中の身分証を確かめた。
地獄の悪魔には階級があり、身分によって行き来できる地区が決まっている。
(いつか、フラウロス様のいる六番街まで行けたらな……)
移動ゲートに身分証である紋章をかざしながら、ネオンはぼんやりと憧れの上級悪魔の姿を脳裏に思い浮かべていた。
「どうも、十番街ボディーガードのネオンです」
「おおネオン様、お目にかかれて光栄です」
バー・シャーデンフロイデに到着すると、さっそく個室へと通される。
そこに待っていたのは、上物のスーツを纏い、葉巻をくゆらせた異形頭の悪魔紳士だった。
山羊の頭を恭しく下げて、紳士は礼をした。清廉された仕草だが、どこか胡散臭さも滲んでいる。
「ワタクシはこういう者です」
「アイドルの、プロデューサー……ですか」
初めて目にする業種だ。ネオンは差し出された名刺をまじまじと見つめた。
「早速ですが、依頼内容を伺えますか」
「ええ、ワタクシの担当するアイドルユニットの護衛をしていただきたいのです」
プロデューサーは、スマホの画面に一枚の写真を表示した。
「サキュバス二人組のユニットです。ユニット名はHallowe♡en、彼女たちの名前はマシュマロゴーストとチョコレートムーン。あ、右のツインテがマシュマロゴーストで、最近ダンスのキレが増してきた努力家で愛想も良く、左のチョコレートムーンは何でもソツなくこなす器用な子ですがたまに抜けているところがあってそれがまた可愛くて」
「は、はぁ」
「ともかく、そんな大事なウチのアイドルを、熱心なファンがつけ回しているみたいで」
「ああ、いわゆるストーカー、というやつですか」
「まあただのストーカー案件なら、面倒臭いんで彼女たちの鋼メンタルに甘えて放っておきますけど」
「急に突き放しましたね」
プロデューサーは、葉巻を大きく吸って細長い煙を吐き出した。
「なぜ、放っておけないか。あけすけに申し上げますと、彼女たちには世間にバレたら困る秘密があるんです。ストーカーなんかにうっかり暴かれたら洒落にならない」
「秘密」
「ええ、そりゃもう、彼女たち本人はもちろん、プロデュースしてる私の首も飛ぶほどの。もちろん物理的にね」
「物理的に」
「ええ。長期の契約になりますが、彼女たちの身辺が落ち着くまで、二人のプライベートから有象無象をひたすら遠ざけて欲しいのです」
「自分のとこのファンを有象無象呼ばわりする精神、嫌いじゃないですが」
ネオンはテーブルに広げられた契約書を一瞥した。
「報酬は破格、正直すぐに受けたい。けど、彼女たちの秘密って?」
「それを聞くことは、契約成立と捉えます。聞いたら後戻りできませんよ」
「まあ、そりゃそうですよね」
「ちなみに、あなたの前のボディーガードは秘密を知って取り乱したので、首にしました」
プロデューサーは親指で首を切るジェスチャーをした。
「物理的に?」
「物理的に」
「わあ、悪魔的」
「それで、受けていただけますか?」
紳士は真っ直ぐにネオンの瞳を見た。
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