第76話 ラストスパート(3)
選手一同が固まっている。ジッとスタートの合図を待っている。
かけ声とともにピストルの音がこだました。
息を潜めていた野獣が一斉に獲物に襲いかかるように、生を帯び動き出す。
「601」のナンバーを付けた妃美香が先頭を勢いよく突き進んでいく。その後を「602」の部員がついて行く。有紀は3番目だ。セイントレアの選手は妃美香を入れて6名。ナンバーは「601~606」が付けられている。
スタート直後に10名が先頭集団となった。この時点で、トップが妃美香、以下「602」、有紀、「603」「604」、恵と続く。恵の後ろには、「605」「606」、芽久美、社会人の選手が連なる。
(速い!新川さんが食らいつけなかった。神沢は当然だけど、602が凄い。それに前にいる603、604が厚い。ただの取り巻きじゃない)
恵は直感で状況を把握した。
山中のコースに入ると軽いアップダウンから左右に長いクネクネとしたコースが続く。そこを抜けるまぎわに2連のジャンプ台がある。
クネクネコースで有紀が、「602」に揺さぶりをかける。妃美香を逃がしたくなかった。
(この602の選手、速いだけじゃない。私の状況も把握している。神沢をガードしている。戦略的に動いている。ロードの選手なのは伊達じゃない・・・・・・か)
「602」が有紀の行く手を阻む。邪魔をしているわけではない。速いのだ。抜きたくても加速していけば、一気に引き離していく。無理に抜いたとすれば、その後が続かない。再び抜かれるのが見えている。
手が出せないまま、有紀は妃美香を追う。「602」が速いため、妃美香と離れていないのは救いだった。
(抜ける場所はどこなの?)
短期決戦となれば、突破口が必要だ。
(このまま1週目で妃美香に追いつけなければ、勝ち目はない)
追いつけるはずの場面で立ちはだかる赤い壁に有紀の中に焦りが生まれる。
(ロードからの転向選手に阻まれるなんて。私はこれまでずっと走ってきたのに)
有紀の小さな焦りが動揺に変わる。赤い壁が滲んで見えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(泣いても速くはならないよ・・・・・・有紀)
初めてコースで練習したとき、お姉ちゃんが教えてくれた。
なかなか乗れないマウンテンバイク。少し走ってはすぐに転んだ。坂道が怖くて無理に止まるとバランスを崩してまた転んだ。痛くて、怖くて、遅い。
走れないから悔しくて泣いた。マウンテンバイクを押して歩いた。周りの子が追い抜いていく。
「有紀、泣いても速くはならないよ。速く走るなら乗らないと。有紀が乗らないと」
「お姉ちゃん」
「私の後についてきて」
有紀は恐る恐るペダルを踏む。ライトグリーンのマウンテンバイに乗る女の子が前を走る。走りながら、立ったり、しゃがんだりする。有紀はそれを真似て走る。何度も同じことをする。しだいに、力の入り具合がわかる。路面の状況が直に分かるようになる。地面への力の入れ具合で自然にスピードが上がっていく。乗るということが分かれば怖さが薄れていった。
「有紀、上手くなった。それが乗るってこと」
女の子が笑っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
フッと有紀が笑う。
(私、乗れてなかったかも)
「602」を追いながら冷静に状況の把握に努める。焦りで熱くなった頭が冷えていく。
(焦ることはない。なぜだろう、自然に冷静になっていく。チャンスがありそうな気がする。昨日の方がもっと焦っていたはず)
2連ジャンプにさしかかる。妃美香が抜けた後に、「602」と有紀が並ぶように跳ぶ。
(・・・・・・!?これは)
有紀の頭に何か違和感が漂う。
有紀は着地して次の急勾配に備えた。妃美香がトップで駆け下りると「602」が続き、有紀が後輪ほどの差で入る。この大会から急勾配の道幅は広がっている。有紀は殆ど並んだ状態で「602」と走る。
(・・・・・・もしかして)
大通りと交わる出口で有紀はスルリとカーブを曲がっていくように滑らかに方向転換する。無駄に減速しないで、勢いがあるまま一気に加速して上りに入っていく。抜き去る瞬間、「602」の選手の顔がスローモーションで流れていく。ゴーグル越しに驚いている顔が目に入った。
(こっちだって伊達にマウンテンバイク乗ってるわけじゃないのよ。未舗装の滑りは怖いでしょ!)
有紀が「602」の欠点に気がつく。
(この人、怖がっている。まだ乗りきれてない)
「いけたあ!」
完全に前に出た有紀は、そのまま加速をしていく。わずかではあるが、「602」に差をつけた。有紀の照準は妃美香へと移っていた。
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