第66話 思い今は気づかず(3)
恵は、浴衣姿でしゃがみ込むと宿の裏庭に一面に咲いているレンゲの華を眺めていた。
「おーっ、これは清々しい眺めだなあ。来たときから気になってた。レンゲ畑、最近は見ないもんなあ」
ライトの薄明かりに浮かび上がる紫に染まるレンゲの華が、幻想的に見えた。
「水城さん、ここにいたのですか」
声をかけたのは美樹雄だった。恵と同じ浴衣姿で立っている。
「えっ、ああ。お風呂長く浸かっちゃって。それでノボセちゃったから、ここで湯冷ましだよ」
「そうなんですか。実は僕も浸かりすぎちゃって。熱すぎないお湯だったからつい」
美樹雄が手で仰ぐ仕草をしながら笑った。
「そうなのよ。ここのお湯って、熱く感じなかったからいつまでも浸かっていられそうで。ついね」
恵が勢いよく立ち上がると、頭がフワーッとして目の前が真っ白になった。そのまま後ろに倒れかけた。のぼせて急に立ち上がったから、貧血の症状がでたのだ。
美樹雄すかさず恵の手を握った。勢いもあり、そのまま二人ともレンゲ畑に倒れ込んでしまった。
美樹雄が手を引っ張ってくれおかげで、強打は避けることができた。もっとも、レンゲの華がクッションになってくれおかげもある。
「だいじょう・・・・・・ぶ?」
声をかけた美樹雄は思わず息をのんだ。恵の上に自分が乗っかった状態。浴衣越しに恵の胸が自分と合わさっているのが分かった。当然なのだが、恵は浴衣の下にTシャツを着込んでおり、美樹雄はそのまま浴衣を着ていた。
風呂場での恵の言葉が頭に浮かぶ。奈美と比べて小さいと言っていたが、十分に、いや、それ以上にその膨らみは感じられた。鼓動が頭の中まで響く。どんなレースでもこれほどドキドキしたことはない。自分の鼓動が恵に気づかれるのではと思うと余計に速くなった。
「美樹雄・・・・・・顔近い」
その言葉に美樹雄は、ハッと恵を見た。目の前の大きな瞳が美樹雄を見つめていた。その言葉を発した唇もあと少しで触れあうところまで近かった。
(どうすればいい?この思い。僕はこれからどうすれば)
自分がどうしてこんなに苦しんでいるのかその理由をしっかり理解できていた。目の前にいる恵とこのまま時を過ごしたいと思う自分がいること。それは確かだった。
頭の中が真っ白になっている美樹雄に対して、恵はゆっくり落ち着いてパチクリと瞬きをしている。そのおかげで、美樹雄も一呼吸入れるタイミングを得ることができた。頭の中のモヤが晴れて、マウンテンバイクのように自分自身をコントロールできているという実感が湧いた。
素直にバタンと身体を倒して恵の横に並んで空を見上げた。
「わあー、美樹雄。星がすごくよく見えるよ。久しぶりだあ」
恵は、空に手をかざしていた。大きな正座はもちろんであるが、街中であれば気がつくことがない小さな星まで、空に輝いているのをハッキリと見ることができた。
美樹雄も頷きながら、空を一緒に見ていた。
このとき、倒れ込む前に握った手がまだ繋がれていることに美樹雄は気づいていた。恵の手はしっとりとして柔らかく、温かみがあった。いつまでも触れていたいと思う気持ちに対して、恵は今の状態に気がついているのかどうか、美樹雄には分からなかった。気づいていていればと思いながらも、気づかないでいて欲しいとも思えた。どちらにしても、このまま二人でいられたらと星に願った。
「そうだ。奈美ちゃんから聞いたよ。美樹雄、私が新川さんに負けたとき、すごく悔しがってたって」
恵が空を眺めたまま声をかけてきた。
「あの時は見ていてすごく気持ちが高ぶったから。つい」
言い訳に聞こえる台詞が口から出てきた。もしかして、『気持ちを悟られたのでは』と頭の中で身構えていた。
動揺している美樹雄とは裏腹に、恵は普段と変わらない明るい口調で話している。
「それ聞いたとき。私、すごく嬉しかったんだ。悔しがってくれたのは、『勝てるかもしれない』と思ってくれたからでしょ。それが、本当に嬉しいんだ。『負けてもしょうがない』とか『負けたけど善戦した』なんて慰められると、逆にすごく辛いんだ。最初から勝負にならないと諦められているようで。美樹雄のそんな応援、有り難いよ。ほんと、なんかやる気出てきた。まだ、速く走れる。速くなるって」
恵は手をギュッと力を込めて握ると、ようやく美樹雄と手を繋いでいたことに気がついた。
「あーっ、ごめん。痛かった?そうか。あの時、助けてくれて。私、握ったままだ。気がつかなかった」
恵は恥ずかしがって笑うと、優しく手をほどいた。
美樹雄が平静を装いながら上半身を起こしたとき、二人のお腹がク~と鳴った。
「そうだ。食事の準備ができるって、水城さんを呼びに来たんだった」
美樹雄は自分のお腹に手をあてると思わず笑った。
「待ってました。お風呂に浸かりすぎて、お腹空いたよ~」
恵もニッコリ笑ってお腹をおさえた。
ク~。
星空の下で二人のお腹が合唱をしていた。
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