ちん〇んで世界征服 [客室乗務員のマル秘手帳]

ちょぽっと

第1話 ちん〇んで世界征服

 ケンジは、クルーバー(船員のためのバー)の一角に腰を下ろした。スツールがケンジの疲れを吸い取ったのか、音を上げている。朝の八時から仕事を開始し、ようやく退勤だ。時間を見ると、夜十時半を回っていた。


 薄暗いクルーバーは多くのクルーで賑わっており、騒々しい。様々な国の言語が飛び交う。出来ればソファーに座りたいが、先客が居た。フィリピン人の集団がどっかりと座り込み、みんな揃ってビールを飲んでいる。


 後ろから、どっと笑い声が上がった。服装から、船内イベントの進行を担当しているイタリア人を中心としたチームだと分かる。テレビの前にはスペイン人たちが群がって、カーレーシングゲームに熱狂していた。


 いつもと変わらないクルーバーの光景。


「中国は、ちっちゃい」


 どこの国の子だろう。白人の子が、ケンジの隣に腰掛けたサキに話し掛けている。サキは、くすくすと肩を揺らした。


 サキの手元のプラスティックカップはもう空だ。底が赤くなっているので、いつも通り赤ワインをあおったのだろう。サキは、カードをバーテンダーに手渡す。「赤ワイン。ダブルね」


 クルーにはカードが配布されており、船内でクレジットカードのように使うことが出来る。船で使ったお金は、給与から自動的に引かれる仕組みだ。酒は一杯三百円程度と安いので、ついつい吞み過ぎてしまう。


「ロシアは?」サキは、先ほどからランダムに国の名前を挙げている。

「んもう、特大」白人の子は、間を開けずに答えた。


 サキが両手でカウンターを叩きながら、笑っている。ちらりと八重歯がのぞいた。オーバーリアクションに見えるが、煩いクルーバーではこのくらいしないと声がかき消される。


「一体、何の話をしているんだ? 中国とロシア?」ケンジは尋ねる。


「あぁ、居たのね」と言いながらサキが振り向く。


 奥二重の双眼は、酔いが回り始めたのかとろんとしていた。陶器のように白い肌が、軽く紅潮している。胸のあたりまで伸ばした黒髪から、石鹸の良い香りがした。シャワーを浴びて着替えてから、クルーバーに来たらしい。ジャージを着ているので、呑んだらすぐに自室に帰って寝るつもりなのだろう。


 ケンジもシャワーを浴びたかったが、あいにく塞がっていた。四人で一つのシャワーを共有するのだから仕方ない。待つ時間も惜しいので、スーツ姿のままクルーバーに来た。

 船の生活は、忍耐の連続だ。


「大きさの話をしていたのよ」

「確かに、ロシアの国土面積の方が中国より広いよな」

「馬鹿ねぇ」


 サキが、ケンジの臀部を撫でた。背筋が、ゾクリとする。


(突然触るなよ!)


 人は触られることに一旦慣れたら、触ることにも慣れてしまうらしい。クルーの男たちが執拗に体を触ってきてほんとウザいのよ、サキは先日そう言っていたはずだ。


「……あぁ、そういう話をしているのか」


 下ネタだ。

 自分の意志とはいえ閉鎖空間に閉じ込められ、自由を奪われた男と女の間で何が起こるか、わざわざ説明する必要もないだろう。どうやらサキの隣に座っている子は、クルーエリアで世界中の男を漁っているらしい。ご苦労なことだ。


 サキがうきうきした気分を隠しきれないような顔つきで、ポケットから手帳を取り出した。

 世界地図が、カウンターの上に広げられる。

 会話は自然と、どこの国の男を制覇したのかという話に流れていった。


(俺が、会話に入れないじゃないか)


 ケンジは居心地の悪さを感じながら、大人しくシャンパンを注文する。


「じゃあ、東南アジアはだいたい制覇したわけだ」

「うん。ヨーロッパでまだなのはねぇ。……ここと、ここと……」

「……待って! 日本、まだなんじゃない?」

「うん。まだやってない」


 二人の鋭い視線がケンジに突き刺さり、危うくシャンパンを吐き出すところだった。鼻の奥で、シュワシュワという音がする。この船に、日本人の男は一人しかいない。


「てっとり早いとこで済ませちゃえば?」


 サキが、ご飯冷めちゃうから済ませちゃえば? というような軽いノリで言い放つ。


(ふざけるな!)


 バーテンダーが、白人の子にカシスオレンジを差し出した。


 サキがプラスティックカップを掲げ、口角をぐいっと上げる。そして一言「ちん〇ん」


 悪乗りが過ぎる。一体、サキは何杯酒を吞んだ? 

 上機嫌なのは結構なことだが、大分酔いが回っているらしい。


「今日もぉ、おちん〇んにぃ、カンパイ!」白人の子が、ほくそ笑む。


「うーん。何かちょっと発音が違うんだよね」


 正しいおちん〇んの発音を指導し続けるサキを無視して、白人の子の顔を覗き込む。

 暗めの赤毛を明るく染めている。顔は、なかなか可愛いじゃないか。


 水のように赤ワインをガブガブと飲むサキの姿が目に入り、腕を掴んだ。


「おい! 呑み過ぎだ」


 クルーは、一日一杯以上の酒を呑んではいけないことになっている。

 建前上の話だ。

 そんなことを本気で気にしているようなクルーは居ない。呑み過ぎてふらふらになったのを仲間に担がれていくのを見たのは、一度や二度ではない。


 赤信号はみんなで渡れば怖くないのだ。


 ストレスの溜まる仕事である。警備員も騒動を起こさない限りは、クルーがいくら呑もうが放置している。実際、船橋で働くオフィサー連中でさえ、酒癖が悪いので有名なやつが居る。


 たまに運の悪いやつが見せしめに捕まって、船を降ろされる。


「まだいいじゃないの」

「ダメだ」


 船の規則の心配をしているのではない。翌日の仕事に影響が出るのを心配しているのだ。


 クルーは乗船したら最後。下船の日まで、休みの日なんて一日たりともない。一日十二時間にも及ぶ仕事を、毎日嫌でもこなさなければならない。

 同僚のサキが、二日酔いになったなんて言い出したら、ケンジの仕事が増える。


 嫌がるサキの腕を引っ張って、クルーバーから連れ出す。

 白人の子は、ひらひらと手を振っていた。

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