強い腕

@eiso

第1話 神森文政

1 殺人犯の不起訴


 山岡市にある山岡警察署は県内で有数の多忙な警察署であり、事故発生件数や犯罪件数がトップクラスであった。山岡警察署の刑事課も忙しく、日々数件の事件を抱えている状況だった。そんな刑事課が取り扱った事件の中でも重要な事件が最悪の形で終わりを迎えようとしていた。山岡市内で発生した殺人事件が不起訴処分になるという知らせがあったのだ。事件を裁判にかけるか否かを決めるのは検察官であり、その検察官から不起訴、つまり裁判をしないので犯人を釈放するようにと指示を受けたのだ。

 犯人である鈴木五郎の取り調べを担当していた神森文政巡査部長は苛立ちを隠せなかった。状況的には鈴木の犯行と思われる事件だった。しかし、決め手となる証拠がなかったことから、検察官は裁判をしても負けると判断したのだ。社会的に反響が強い事件であることからも、上司の宝塚雅警部補が必死に悪あがきをしたが無駄だった。そして、三日後。鈴木五郎は笑顔で警察署を去って行った。


「くそっ、鈴木を野に放つとは。」

 宝塚は憤怒していた。

「あの、くそハゲが口を出さなければ…」

 当初から決め手となる証拠が乏しいことはわかった。だからこそ宝塚は慎重に捜査を進めていた。しかし、その捜査方針に山岡警察署長の加藤丸男が口を出したのだ。この署長が宝塚の言うハゲである。署長は自分の手柄を急いだのか、刑事課長に対して仕切りに逮捕するよう指示してきた。困った刑事課長が警察本部の刑事と係長の宝塚と相談して、署長の要望に応えることにしたのだが、やはり予想通りの結果となった。

「宝塚警部補、それは仕方ないです。どちらにしても有力な証拠は出てきていないので…」

 そう言いながら神森は宝塚の気を落ち着かせた。

「だが、これじゃご遺族に申し訳がない。」

「そうですね…」

 当然、一番悔しい思いをしているのは遺族である。思いを巡らせる神森の表情からは、憎悪が滲み出ていた。


 事件は、3ヶ月前に発生した。被害者は鈴木五郎の知人で市内に住む60代の男性である。男性は背後から刃物で複数箇所刺されており、自宅で倒れているところをパート勤務から帰ってきた妻により発見された。そして妻の話から、被害者が鈴木五郎に数十万円ものお金を貸していることが明らかになり、捜査線上に浮上した。

 捜査を進めて行くと、鈴木五郎の人物像が明らかになっていった。鈴木五郎は50代男性で、生活保護を受けながら市内に単身で住んでいる。短気な性格から昔からトラブルが絶えず、この歳になっても独身でまともな友人もいない。被害者とはパチンコ屋で知り合い、最初のうちは意気投合していたことから無心にも応じてくれた。しかし、借金が数十万円にも膨れてくると関係が悪化し、最近では被害者と口論ばかりしていたということだった。

 そして、署長の指示により、鈴木五郎を逮捕したのだが、当初から一貫して犯行を否認した。それどころか被害者を愚弄したり、悪態をつく始末であった。結局、最後までその態度は変わらなかった。


2 遺族


 数日後、神森は被害者の妻を警察署に呼び出していた。事件を洗い直すため、妻の話を再度聴く必要があったのだ。

「わざわざ時間を作ってもらってすいません。」

「いえ…」

「今回、鈴木五郎が釈放になり、我々の力が及ばず申し訳ありません。」

「いえ、刑事さんたちはよくやってくれました。」

「さぞ、お悔しいことでしょうが。」

「…、正直そこまで…」

「えっ」

「誰にも言っていませんが、実は前から夫に暴力を振るわれていましたし、そこまで悔しくないのですよ。むしろほっとしているというのが本音です。…もちろん殺人犯が平然と外に出ていることは怖いことですが。」

「そうだったのですか、わかりました。とは言いましても、犯人は重大な犯罪を犯しています。確実にそれ相応の償いをしてもらいます。」

「はい、わかりました。」

「それでは聴取を始めますね。」


 2時間後、聴取を終えて妻は警察署を後にした。

「どうだった奥さんの方は」

 聴取を終えた神森に宝塚が声をかけた。

「そこまで落ち込んでいる様子はありませんでした。奥さんの説明では、被害者からDVの被害を受けていたということで、旦那がいなくなってむしろほっとしていると、」

「そういう話か。」

「しかし、我々としても聞きたいことが聞けました。あとは、リベンジするしかないですね。」

「あぁ、次は負けられないからな。」

「はい、息子さんにも連絡して今週中には準備を完了させておきます。」

 被害者の息子は県外で暮らしていたが、今回の事件を受けて飛んで帰ってきたのだ。その息子も今回の結果を知って落胆していると思われる。

「頼んだ。息子さんはひどく悲しんでいたから配慮はしっかりとね」

「了解しました。」

「あと、今から本部の人たちと会議をするから神森も参加してくれ。」

「なんかあったのですか。」

「鈴木に関することだ。」


 別室に作られた捜査本部室には、警察本部の刑事たちが神森たちを待っていた。その中の統括的な人物となる前澤亮警部が話を切り出した。

「揃ったようだから始めようか。」

 神森はよく分からないまま、宝塚とともに空いている席に着いた。

「鈴木についてだが、残念な結果になったが、我々はもう一度、別の事件で奴を逮捕する方針で進めている。」

 神森は驚いた。別件逮捕は最初の方にやるもので、犯人を釈放した後ではないと思ったからだ。すると、宝塚が神森の言いたいことを代弁してくれた。

「別件逮捕をこのタイミングでやるのは、どういった意図ですか。」

「これだけ社会的反響の大きい事件をこのまま終わらせる訳にはいかないと判断した。当然、我々としても出来るだけのことをやった上でダメなら仕方ないが、やらずして示しがつかないだろ。」

「そ、そうですか。わかりました。」

 神森は『コイツも自分可愛さか』と思い呆れた表情で目線を逸らした。宝塚も『それを堂々と言うのか』とでも思っているのか、力が抜けた表情をしていた。

「とりあえず、生活保護の不正受給で行こうと思う。所轄の方にはそれを踏まえて捜査を進めてくれ。以上。」


 その日の夜、宝塚たちの係だけが残って鈴木の事件捜査を進めていた。皆黙々と仕事をしていたが、宝塚がこの沈黙を破った。

「あぁ面倒くせぇ。ほんと、警察やべぇな。あんなクソ野郎が幹部だもんな。どうかしてるぜ」

 その言葉で皆の集中が切れた。

「本当、前澤さんはやばいですよね。あんな人が上に立つと周りが困りますよ。それに、前澤さんの金魚のフンがいるでしょ。」

「あぁ、佐渡か。」

「そうです、あいつにも少し絡まれましたよ。」

 神森は会議の後、佐渡真巡査部長に呼び止められ、会議での神森の態度に注意をしてきたのだ。神森と佐渡は同じ階級だが、佐渡の方が先輩であることからネチネチと注意されたのだ。

「上しか見てないですね、佐渡。」

「ったく、どいつもこいつもロクなやつがいねぇな。あぁ、辞めだ辞め。皆帰ろうぜ。」

 とは言え、縦社会でどうにもならないことはわかっている宝塚たちは、夜な夜な不平不満を漏らすに留まっていた。


3 真犯人


 数日後、被害者の妻を殺人罪で逮捕した。そして、妻もその犯行を認めた。

 事件の真の概要は、パチンコ依存症の妻が、無許可の金貸しをしている鈴木五郎から数十万円を借りており、それが原因で夫婦喧嘩が絶えなかった。そして、被害当日も口論していたところ、感情を昂らせた妻が被害者の背後から刃物で複数回刺したのであった。

 当初から妻の証言には違和感があり、被害者に対する周囲の話とは異なった発言をしていた。そして、鈴木五郎を逮捕した後に捜査を続けていたところ、妻の証言が虚偽であることが特定できた。被害者がパチンコをする人ではないことや、妻ともめていることは被害者の息子の証言からも判明した。

 実はこの妻は、被害者の再婚相手であり、息子は被害者と前妻との間の子供であった。それもあって妻と息子には微妙な距離感があり、父親が殺された報告を受けた息子は最初から妻を疑っていたのだ。こうして裏付けを積み重ねて、殺人事件の真犯人を逮捕したのだ。

 ただし、鈴木五郎がこの事件に関与していない訳ではない。妻を唆し、夫の生命保険で借金返済の話を持ちかけたのは鈴木だったのだ。妻が警察に対して、DVを受けていたことや、鈴木五郎という人物が怪しいなど説明するよう指示していた。仮に自分が逮捕されても、アリバイをちゃんとしていれば嫌疑不十分で釈放になることを想定していたのだ。そして、ハゲた署長はまんまと鈴木の策にはまってしまったのだった。


 刑事課では、妻に対する捜査を続けながら鈴木五郎を逮捕する準備を行っていた。宝塚も刑事課長と鈴木を捕まえる段取りの話をしていた。

「係長ぉ」

 宝塚の係の者が、切迫した形相で話に割って入ってきた。

「お前、なんだよ。か、顔が怖いし。」

「す、鈴木が変死体で見つかりました。」

「何ぃ」

 鈴木五郎は、山岡市の山間部の崖下で倒れているところを発見された。死後の状態からも昨夜死亡したと思われる。道路は通っているが、夜間は車も通らない場所で、付近に民家もない暗い場所となる。何者かによって殺された可能性を調べたが、外傷はなく争った形跡もなかった。死因も崖上から転落したことにより死亡したものと判明した。こうして、この殺人事件の共犯者となる鈴木五郎は死亡のまま書類送検された。そして、鈴木五郎の死についても自殺で処理されることとなった。


5 ゴツゴツした腕


 鈴木五郎の変死体が発見される前日の夕方。

 鈴木五郎は、パチンコ屋で金を貸している客たちから利子分を回収した後、コンビニエンスストアで発泡酒を買って家に帰った。鈴木の家は、生活保護者が多く住んでいるアパートの一階の角部屋だった。鍵を開けていつもどおりリビングに向かうと、窓際に男性が立っていた。

「うわっ」

 驚いて思わず声をあげてしまったが、その男性をよく見てみると見覚えのある人物だった。そう、自分の取り調べを担当していた神森だった。

「な、何で刑事さんが勝手に家に入っているんだよ。」

「鈴木、お前金貸しもやってるそうじゃないか。」

 鈴木は警戒をした。

「なんですか、今度はそれで逮捕しようとしてるんですか。」

「生活保護もらっていながら、収入があったら返金しなきゃだめだろ。」

「今度、支払おうとしてたところですよ。」

 神森は、言い訳をする鈴木に対して、取調べでは見せない鬼の形相をして言い放った。

「このクズが、適当なことを喋るな。」

「あんたにそんな言われ方される覚えはないよ。だいたいそんなこと、そこら辺の奴が同じようなことしてるじゃないか。」

 クズ呼ばわりされて頭に血がのぼった鈴木は、さらに続けて言った。

「ここに住んでるやつみんな同じようなもんさ。生活保護費をもらったその足で、パチンコに行ってるんだ。働けるのに働かない奴らばっかだよ。そんな奴らに多少の利子つけて金貸して何が悪い。悪いのはそんな奴らと、お金をばら撒いている福祉事務所だろ。俺を捕まえるなら、ここにいる奴ら捕まえてから来いっ、うっ…」

 鈴木は急に何かに首を絞められたかのように苦しくなった。

「あくまでも悪いのは自分じゃなく、周りのせいにする。充分なクズさだな。」

「…っな、」

「お前にはちょっとついてきてもらう。」


 鈴木は体の自由が効かないまま、目に見えない何かに引っ張られて、自宅から出ていった。助けてを求めようにもなぜか声が出ないのだ。首が締められた感覚で意識が朦朧としながらも歩き続けると、少し離れた場所に止まっていた明らかに警察の車ではない車両に乗せられた。そこで意識がなくなった。

 次に目が覚めたときには、辺りは暗闇だった。よく目をこらすと山の中で崖の上に立っていた。なぜこんな所にいるか分からなかったが、神森のことを思い出した。とりあえずここから逃げ出そうと思ったが相変わらず体の自由が効かない。

「起きたか。」

 神森が近くに座っていた。

「お、お前、警察だろ。こ、こんな事してただじゃ済まさないからな。」

「そんなことクズが心配するようになってない。」

「クズクズ言いやがって。」

 こんな状況でも鈴木は頭に血をのぼらせていたが、神森の言葉で肝が冷えた。

「それでは、これからお前の処分をおこなう。」

「えっ」

「そうだろ、お前が生きてても誰も喜ばないし、お前が死んでも誰も悲しまない。なら社会のために処分するべきだろう。」

 無感情な言葉が鈴木を恐怖させた。

「何言ってんだ、やめてくれ。頼む、死にたくない。」

「お前は、今回殺された被害者も同じ気持ちだったとは思わなかったか。」

「な、どういうことだ。」

「誰も死にたくないんだよ。でも、お前は他人のことはどうでもよくて、被害者の妻に殺させて、保険金を手に入れさせるように仕向けただろ。」

「悪かった、認めるから。殺人の共犯だと認めるから。」

「いや、いいんだ。法律で裁いても死刑にならないかもしれないし、もしお前が生き残ったら食費とか税金でまかなわなければいけなくなるだろ。血税なんだ。もったいないだろ、お金が。」

「ひ、人の命だぞ。」

「人じゃない、クズだ。」

 神森がそう言うと、鈴木の体がゆっくりと後退りして、足場がないところへ移動した。そして、鈴木もこれ以上言葉が出せなくなっていた。

「父さんの腕は相変わらずゴツゴツしている。」

 次の瞬間、高さ50メートルある崖の上から鈴木が落下した。


6 新たなクズ


 鈴木五郎の体を調べても、絞首された跡もなければ異常は全く認められなかった。鈴木の自宅も荒らされた形跡はなく鍵もかかっていた。怨恨による殺人も検討したが、結局、動機は不明だが自殺しかないという判断に至った。

 宝塚は鈴木の死について考えていた。

「なぁ、神森。鈴木五郎は何で自殺したんだろうなぁ。死ぬ意味ないよな。」

「どうなんですかね。クズが考えることはわからないですね。」

「毒づいてるな…。まぁ、神森はむしろすっきりした感じだろうな。因果応報ってやつか。」

「鈴木みたいな人間は沢山いますよ、でも鈴木は運が悪かったんじゃないですか。」

「なんだそれ。まぁいい、おかげで前澤さん個人のための仕事をしなくて良くなったし。」

「係長も毒吐いてるじゃぁないですか。」

「まだ未解決の事件が山積みだからなぁ。気を取り直して頑張るか。」


 昼食の時間帯。神森が警察署に設置されていた自販機で缶珈琲を買っていると、生活安全課の巡査が溜め息をつきながら歩いてきた。神森は何気なくその巡査に声をかけた。

「どうしたんだ、溜め息ついて。」

「いやぁ、仕事のことでちょっと。」

「なんだ、相当きつい仕事なのか。」

「きついと言いますか…、実は、決闘罪で捜査をしている少年なんですが、親がやばい人物で。」

「やばいというのは、どうやばいんだ。」

「はぁ…、それが虐待やら、窃盗やら色んな事件を含んだ人物なんですよ。」

「ほほぅ、それはやばいな。」

「うちの係は他にも、多く事件をかかえているのに、その親も事件化してたら体がいくつあっても足りないですよ。」

「そうだな。でも、その親の案件なら課長同士の話し合い次第では、うちの係と一緒に出来るかもしれないな。」

「いやいや、課長同士仲悪いじゃないですか。」

「そうだったな、ハハハ。」

「笑えないですって。」

 巡査の話を聞いた神森は、人前では笑いを見せていたが、心の中では憎悪が渦巻いていた。


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