142 ラナウェイ・フロム・ザ・ヘヴン
その夜、執務室で書類と格闘していると、
「ただいまぁ~」
と言って、メルヴィが帰ってきた。
「おかえり」
「……ん? なんかあんた、疲れてない? って、んなわけないか。あんたは疲れないんだった」
メルヴィが言いかけて自分で納得した。
「でも、ちょっと顔色悪いわよ? 根を詰めすぎてるんじゃない?」
「……そう見えるか」
〈ミスティックフェアリー〉のクラスを持つメルヴィは人の感情や体調の機微に敏感だ。メルヴィが言うならそうなのかもしれない。
「といっても、俺の場合ゆっくり寝るって選択肢はないしな」
眠れないのもこういう時は面倒だ。もっとも、眠らなくてもしばらくすれば体調が回復していくわけだから、眠らないことに不都合はない。普通の人は起きている間は寝ている間ほど回復しないが、俺の場合起きているからといって回復力が落ちることはない。ある意味では、起きながら眠ってもいるようなものだ。女神様によれば、パソコンのバックグラウンド処理みたいな形で睡眠が本来果たすべ役割を【不易不労】のスキルが代行しているのだという。
「アルフェシアさんは元気だったか?」
「ええ、それはもう。真空管を使った計算機の試作型ができたって喜んでたわ」
「とうとうそこまで来たか。でも、アルフェシアさんなら魔法で直接電子回路を作れそうなものなんだが」
「原理を理解するために、あなたの世界の発展順序と同じ流れで開発してみたいらしいわ」
この勢いだと、連邦の南部ではあと十年もしないうちにIT革命が起こってしまいそうだ。従来の仕事を奪ってしまう面もあるから、連邦で職業訓練の助成を行うべきだと意見書を出しておくべきかもしれないな。デヴィッド兄さんならそれくらい既に織り込み済みかもしれないが。
「それより、なんかやつれたように思うんだけど?」
「そうかな……」
俺は次元収納から手鏡を取り出して自分の顔を見てみる。
17歳になった俺は、自分で言うのも何だがかなりのイケメンである。そりゃ、アルフレッド父さんとジュリア母さんという美形夫婦の子どもなんだ。これでイケメンじゃなかった方がショックを受ける。10歳になる妹のフィリアも、父さんに似た少しおっとりした部分のある儚げな美少女だった。俺は
……で、なんだっけ?
「やつれてるって話よ! あんた自分の顔見てニマニマするのやめてよね! キモい!」
メルヴィが辛辣なツッコミを入れてくる。
まぁ、今のは俺が悪かった。でも、しょうがないじゃないか、前世ではフツメンだったから、イケメンになったらそりゃ何度だって見ちまうよ!
「うーん……毎日見てるからよくわからないな」
言われてみれば頬が少しこけたような気がしないでもない。
「まったく。ちゃんと休みなさいよ? って、あんたの場合は休んでもしかたないのかしら? うーん……どうすればいいのよ」
「いや、俺に聞かれても……」
運動しすぎて身体が痛くなったような時はしばらく運動を避けて普通に生活してるといつの間にか身体が治っている。今までそうだったから、今回もそうだろうと思って、事務仕事の合間に槍の型をやったり射撃練習をしたり魔法を試したりはしていた。それでもリフレッシュしきれていないらしい。
「なんか、何もかもを投げ出して旅に出たいと思うことがあるんだよな」
「ちょっとやめてよ。怖いじゃない」
「いや、マジな話でさ。【不易不労】で疲れないとは言っても、向き不向きがなくなるわけじゃない。こういう事務系の仕事はそんなに向いてないんだろう」
「前世ではやってたんでしょ?」
「それは給料のためにしかたなく、だな。仕事が終わったらゲーセン行ってゲームびたりだ」
「この世界に『ゲーム』とやらはないものねぇ」
「そう言われるとなおさら格ゲーがやりたくなってきたな……」
アルフェシアさんがコンピューターの製作に成功したとして、その性能が上がってゲームらしきものが作られるようになるまでにあと何年かかるのか。
「転生者がやりそうなことは軒並みやってしまった。まぁ、内政チートはデヴィッド兄さんに、生産チートはアルフェシアさんにお株を奪われた感じだけど」
この世界に魔王でもいたら、それがモチベーションになったかもしれないな。
いや、いなくていいんだが。仲間を何人も失ってかろうじて勝ちました、みたいな話は勘弁してほしいし。
そう考えると、転生者ってのは、最初にやりたい放題暴れた後は、身内を含めた身の安全をいかに守るかというところに汲々としている感があるな。前世のネット小説の相場観だとそうだ。
「
「連邦と帝国がそれぞれに空軍でも作ったらぶつかるかもしれないけど、当面はないわね」
「ああ。それに、航空機はキュレベル財閥の航空機部門が独占開発している。俺の前世知識とアルフェシアさんだ。およそ他のいかなる組織にも真似することはできないだろう。だから、両国が空軍を作ったとしてもキュレベルがノーと言えば戦争はできないさ」
「キュレベル連邦とキュレベル帝国だって言ってる人もいるわね」
「あながち間違ってないな。もっとも、独占は市場の効率を阻害するから、害のないものから他の企業でも作れるようになってもらう必要があるけど」
「要するに
「うん。しいていえばフロストバイトの魔族だけど、悪神の勢力が弱まった今、鎮圧されるのは時間の問題だろう」
「めでたし、めでたし……でお話が終わってしまったわけね」
「そういうこと。もう俺にやることはないよ。身内はみんな一騎当千の実力の持ち主ばかりになったし。政治も経済も技術開発も、俺の身内の信頼できる優秀な人たちが当たっている。前の世界でも、ここまで理想的な状況は考えられない」
俺はそこで言葉を切る。
「……そうだ。俺の役目はもう終わってるんだ……」
窓の外を見てつぶやく俺に、メルヴィは何とも答えられないでいるようだった。
俺はメルヴィに気づかれないようにポーカーフェイスを保ちつつ、内心では自分自身の言葉に衝撃を受けていた。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
腑に落ちたその言葉は、俺に行動するよう激しく促してくる。
その衝動を悟られないようにしながら会話を終え、俺は執務机へと向かった。
さっきまでが嘘のように仕事が進んだが、俺の心はもはや目の前の書類には残っていなかった。
◆
その夜中。
俺は在ミスランディア・南ミドガルド連邦大使館をそっと抜け出していた。
ミスランディアはフロストバイトに近いこともあり、冬には雪が降ることもある。
が、
ミスランディアも、高緯度のわりに、大陸南端のモノカンヌスと気温の面で大きな差はないようだった。
大陸の気温が安定しているとはいえ、今はまだ春になったばかりの時期だ。
夜はまだ肌寒い。
俺は全身を覆う外套のすそをもう一度合わせ直し、影から影へ、気配を消したまま移動していく。
街の外れまで来たところで異変に気づいた。
俺が目星をつけていた城壁の破れ目の前に、ぼうっと淡い光点が浮かんでいたのだ。
それが何かは近づかなくてもわかる。
俺は観念してその光に近づいた。
「……メルヴィ」
「やっと来たわね。さぁ、行きましょう」
メルヴィはふん、と胸を張ってそう言った。
「……わかってるのか? これは……」
「みなまで言わなくていいわよ。わたしはあんたについていくと決めたんだから。置いていくってのはなしよ」
誰にも気づかれていないと思っていたのだが、相棒にはお見通しのようだった。
「……そっか。すまない。ありがとう」
「いいってことよ」
俺がいつか使った言い回しでメルヴィが言う。
目は少しそらされている。照れくさいのだろう。お互い様だ。
「置き手紙くらいは残したんでしょうね?」
「ああ。さすがに、な」
罪悪感が胸をちくりと刺す。
でも、もう決めたことだ。
「〈闇隠れの巫女〉のエレミアも、〈万魔庫〉のアスラも追跡に回られると厄介だわ。行くなら早く」
「いくつか偽装工作はしてきたよ。もっとも、俺の心理を読まれる可能性もある。引き離すに越したことはないな」
俺とメルヴィは言葉少なに状況を確認する。
メルヴィは飛んで、俺は壁面を駆け上って低くなった城壁を越える。
その向こうに広がるのは、中央高原特有の果てしなく続く段丘地帯だ。
「……思い出すわ」
「何を?」
「
「俊哉と出会った時のことだな」
「トゥシャーラヴァティよ! 茶化さないで!」
「そりゃ悪かった」
あの時の経験があったから、メルヴィは俺がやろうとしていることに気づいたのか。
そして、止めるのではなく、一緒に行こうとしてくれたのか。
「よし、行こう」
「うん」
――こうして、一人の少年と一体の妖精は、ミスランディアの街から姿を消した。
◇
翌朝。
ステフはエドガー・キュレベルの執務室に入ったところで戸惑った。
いつもは夜明け前から仕事を始めている主の姿がなかったのだ。
それ以外にも、今の執務室にはなんとも言いがたい違和感を覚えた。
「坊ちゃまぁ?」
なんとなく声に出すが、部屋の中にいないことは確実だ。
隣りにある寝室を覗く。
寝室と言ってもこの部屋の主は眠らない。筋肉や骨など、身体に痛みを感じた時に横になって「休む」ことがある程度だ。疲労は感じなくても同じような運動を繰り返せば身体を痛めてしまう可能性はあるのだから。
が、その寝室にもエドガーの姿はない。
執務室に戻って、ステフはようやく違和感の正体がわかった。
執務机に山積みにされていた書類。それらがすべて片付けられていた。
仕事が進んだのならいいことだが、ステフは逆に嫌な予感にとらわれた。
そしてステフは執務机の上に、ペーパーウェイトを載せられた紙が置かれていることに気がついた。
その紙に目を落として――ステフは固まった。
そこにはこう書かれていた。
――旅に出ます。捜さないでください。 エドガー・キュレベル
「ぼ、ぼぼぼ、坊ちゃまぁぁぁぁぁっ!」
それからほどなく。
大使館は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
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