第一章 竜の揺り籠

第一話 いきなりの修羅場

 「はぁ! はぁ! はぁ! はぁ……っ!」


 僕は走っていた。落ち葉が敷き詰められ、あちこちから巨大な根が飛び出した、平坦とはとても言えない地面の上を。

 息はとっくに上がっている。喉も、心臓も、両脚も、それぞれが焼け付くように痛み、悲鳴を上げている。準備運動も無しで急に全力疾走なんかすれば当然だ。


 それでも。


 決して止まってはならない。足を休めてはならない。

 全身全霊で感じていた。その誘惑に屈した瞬間、僕の命は……終わる、と。

 

 「――! ――――!」


 すぐ後ろから聞こえてくる、土を蹴る複数の音と荒い息遣い。

 必死に走っているのに、十六年の人生の中で(恐らく)一番死に物狂いで頑張っているのに、一向に引き離せていない現実を嫌でも突き付けられる。

 “追跡者達”は、今この瞬間も自分を射程圏内に捉えているんだ。


 振り向いて確かめたいという気持ちを懸命に抑える。そんな余裕、ある訳がない。やったが最後、一気に距離を詰められて追い付かれる。


 (くそ……! そもそも何処なんだ、ここは……っ!?)


 次々と背後に流れてゆく周囲の状況を、目だけを上下左右に動かして確認する。

 太い幹を持つ巨大な木々。天を覆い尽くさんとする無数の枝葉。起伏に富んだ獣道。突き出た岩。

 疑いようもなく、森だ。それも人の手が加えられた無情緒な人工林などではなく、命の力強さを声高に主張しているような、自然そのままの樹海。

 弱肉強食という、この世の摂理がとても良く似合う場所。

 そう、さしずめ『肉』は僕――――。


 「……っ!? うわあ!!」


 余計な考えに気を取られたのがまずかったのか、なにかに躓いた僕は走り続けていた勢いそのままに地面へダイブする。無意識に両腕を前に出して、落ち葉とのキスを阻止した。


 「うっ……! ううう……!」


 それでも倒れた衝撃が全身を駆け巡り、息が詰まる。痛みに一瞬全ての意識が持っていかれた。

 しかし、すぐに現実へと引き戻される。


 「――っ!?」


 唸り声が耳を震わせ、痛みより恐怖が勝った僕は、急いで上体を起こして背後を振り返った。


 「あぁ……!」


 絶望感に溢れた情けない声が走り続けて荒くなった呼吸と共に喉から漏れる。息苦しさからか痛みからか、それとも恐怖のあまりか、目尻に涙まで浮かんできた。


 「グルルルル…………!」


 二頭のオオカミが、二メートル程先で姿勢を低くしながら唸っている。いつでも相手に飛びかかり、喉笛を食いちぎれるという構えだ。

 オオカミと形容したが、その姿は明らかに尋常ではない。仔馬くらいあるかという巨大な体躯。焼け尽くされた炭のように黒い四肢。それに反して艷やかな銀色の体毛を靡かせる胴体と尾。蛍光ペンで塗りつぶされたのように赤く光る両眼。極めつけは額の中央から天を貫かんばかりに生えている一本の角だ。

 どう考えてもバケモノとしか思えない。そいつが今、ギラギラと光る牙を剥き、口の端から涎を垂らしながら僕を睨めつけている。


 もう逃げられないと高をくくっているのか、二頭の巨大オオカミはすぐに襲いかかっては来ずに、品定めするかのような視線をじっと僕へ注いでいた。『肉』の配分をどうするか、考えているのだろうか?


 いっそ一思いに速攻で食い殺してくれればいくらか気が楽だったのかも知れない。余計な『間』を与えられたおかげで、心の中にぐるぐると益体もない考えが浮かんでくる。


 ――どうして僕がこんな目に!? 折角、全てを一からやり直そうと意気込んでいたのに! 過去を嘆いてばかりいないで、前向きになろうと決心したのに! そうすれば、いつの日か兄さんや姉さんともう一度会えるかも知れないと希望を抱いていたのに! 高校生に上がったら、気持ちをリセット出来ると思っていたのに!!

 それがどうしてこんな事に……。入学式へ向かっていたら、通学路の途中でいきなり白いケムリみたいなものに包まれて、気が付いたらこの森の中だった。

 あまりにも目を疑う周囲の変化にパニックを起こしていたら、奥の方からコイツらが現れた。それで、この有様だ。


 いくらなんでも理不尽すぎる。神は人の運命を弄ぶのが趣味なのか?


 「――――!!」


 ついに時間切れが来た。二頭の片割れが短く吠えたかと思うと、次の瞬間には地面を蹴ってこちらへ飛びかかって来た。

 

 (……!? 兄さん――!!)


 真っ白になる頭。思わず、首のロケットペンダントを握り締める。

 兄さん――――!!






 「――――ッ!?」

 

 風を切る音と共に、僕に牙を突き立てんとしていた異形のオオカミは、頭部にもう一本角を生やして空中で身を竦ませる。

 勢いを殺された巨躯が、そのまま僕の手前にドスンと落ちてくる。地面に身を投げだした姿勢のままピクリとも動かない。半開きになった口からダラリと力無く舌が伸びている。どうやら既に事切れているようだ。

 

 何処かから放たれた一本の矢は、真っ直ぐ異形のオオカミの脳天を貫いていた。顎の下から矢じりが顔を覗かせ、とめどなく滴る血が大地に染み込んでゆく。

 僕は予想外の事態に咄嗟の反応ができず、立ち上がることも忘れてただ呆然とその死体を見つめていた。


 「――!」


 一方で生き残ったもう片方の反応は速かった。

 僕には目もくれず、風のように脇をすり抜け駆けてゆく。


 同時に僕も我に返り、異形のオオカミが向かっていった先へ急いで目を走らせる。

 少し離れた先、ここから見ると若干の高台になっている坂の上でローブのようなものを纏った男がひとり、既に次の矢を弓につがえていた。


 そのまま無造作に、自分目掛けて走ってくる異形のオオカミへ矢を放つ。

 だが不意打ちで斃された先の1頭とは異なり、今度のヤツは全身全霊で射手に意識を集中させている。


 異形のオオカミは紙一重で軸をずらして矢を躱すと、その勢いのまま走り幅跳びの選手みたいに身体全体をバネにして飛び上がり、一息に坂を飛び越えローブの男に肉薄する。驚くべき跳躍力だった。

 鋭利な牙が喉に喰らいつこうとした瞬間、男が僅かに身を屈めたように僕には見えた。


 男とオオカミの身体が交差する。地面に着地したオオカミが、よろよろと上半身だけで振り返る。

 左の前足が欠けており、断面からドクドクと血が流れている。


 男の右手には、仄かに青く光る短剣が握られていた。


 悔しげな咆哮をひとつだけ残し、三本足となった異形のオオカミはどうにかバランスを保ちつつ森の奥へと駆け去ってゆく。

 男は僅かに振り返っただけで、それ以上の追撃はせずに短剣を鞘に戻し、膝を曲げて地面に落とした弓を拾った。


 そしてこちらに向き直り、フードを外す。緑がかった髪とあごひげ。ブルーサファイアのように透き通った蒼い瞳が真っ直ぐ僕を捉えていた。

 彼はおもむろに坂を下ると、相変わらず痴呆のように地面に身を起こした姿勢のまま固まっている僕の方へ歩いてきた。


 「大丈夫だったか?坊主。」


 僅かに破顔すると共に、気遣うような声を掛けてくれる。僕は言葉を返す事ができずにただ何度も首を縦に振った。


 (助かった…………!)


 安堵と脱力感が同時にやってきて、緊張が解けた僕は身体を震わせながら大きく息を吐いた。

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