学習意欲の高い優等生と、彼女の戦争

蓮見 悠都

学習意欲の高い優等生と、彼女の戦争


 志帆しほは不思議な少女だった。昔からそう思っていたわけではなく、かといってここ最近にはっと気づいたわけじゃない。じゃあいつからだと問われても、俊樹としきは答えられなかった。

 それでも、いまこの目の前にいる少女は不可思議を身に纏い、一種独特を振りかけた存在だった。俊樹は最初、この少女を志帆だとはどうしても思えなかった。俊樹にとって志帆とは、親戚の集まりでちまっと隅っこに座っているようなごく普通の少女だったので、この独特の人間の香りは「志帆ではない」と脳が自動的に判断していた。

 改札の前に立つ、黒いコートを着た少女。胸の間からは濃い緑色のブレザーが覗かせる。俊樹は一度、「違うかな?」と思いつつも「違うだろう」と目を離した。しかし先方がじっと見つめてきたので、「違うかもしれない」と疑ったままそっと声をかけたのだった。

「……志帆さんですか?」

 少女はそっと一回頷いた。続けて、

「突然のお電話、申し訳ありません」と頭を深々と下げる。「安子やすこさんにはすでに連絡を入れているので」

「ああ、そうなの」

 深く考えずに、俊樹は返事をした。ここで留まっているのも他の人の邪魔になる。とりあえずは足を動かして、人の行きかう改札前から離れようとした。ちらと後ろを覗くと、後ろにしっかりと付いてきていた。

 お互いの白い息が、薄暗い空気に紛れて消える。

 俊樹はポケットに手を突っ込み、唇を舐めた。

 道路の途中、ウィンカー代わりに歩く速度を下げて足を止める。一定の距離を保ったまま、志帆の茶色のローファーも足を止めていた。

「あのですね」

「はい。なんでしょう」

「僕の部屋で……本当にいいの? 男の部屋だし、ビジネスホテルとかちゃんとしたところのほうが……」

 後ろの言葉が尻すぼみになる。志帆は右肩に鞄をかけ直した。

「ホテルは好きじゃないんです」

「それは、なんで?」

「自由じゃないから」

 志帆の顔には笑みが含んでいないが、かすかに肌の上から滑稽さがイボのように出ているような気がした。答えが上手く喉の奥から出てこずに、唇が潰れるほど口を閉じてしまった。これがぐうの音も出ないことなのだと、俊樹は身を持って体感した。

 部屋の隅の幼子は、街を轟かす不思議っ子に成長してしまったのかもしれない。




従妹いとこ?」

 原田は声を上げた。体型と同じような丸っこい大きな口を開けている。

「ああ。昨日から来てる」

「そいつは羨ましいじゃないか。可愛いんだろ」

「可愛さは問題じゃない」

「じゃあ、何が問題なんだよ」

 真っ当な疑問に、俊樹は瞬時に答えられなかった。身体を捻らして生み出すように、「……意思疎通」と言葉を出す。

「かぁー」

 原田はコーヒーの缶をぐいと口に傾ける。ドクドクと一気に液体が注がれているのが喉の振動からして垣間見えた。

「なぁ、原田。なんとかしてくれよ」

「知るか」

「あの子が……ちょっと分かんなくて」

「向こうもお前のことなんて眼中にないだろ。こっちで受験する一週間だけ世話になる都合のいい親戚ってだけで」

「ケッ」

 俊樹はベンチに凭れかかる。固い背もたれが肩甲骨に当たって少し痛みが伝わった。

 家に誰かがいるというのは不思議な感覚だ。どうしようもなく自分の生活を侵食してしまう。そういうなかで、志帆の顔にかかっている謎のベールの内側を覗きたくなるのが人間の性というものだ。いや単純に、会話が続かないことに自分だけが気まずさを感じているだけなのかもしれない。

「なんだかなぁ、お前は」

 原田はすでに空になった缶を弄んでいる。ここの公園にゴミ箱はあっただろうか。

「だからさ、いちおう話はしたんだよ。どこの大学受けるの? とか、趣味はなに? とか。一問一答だよほんと」

「そこから話を発展させられないの? 趣味とかなら共通点を見つけられるだろ」

「訊きたいか? 俺の従妹の趣味」

「ああ、聞いてやる」

「『ダルマ集めをしている』って」

 あんぐりと原田はまた口を開けていた。今度はミカンぐらい大きいサイズだった。

「ダルマって……あのダルマか?」

「他になんのダルマがあるっていうんだ」

「群馬が産地で有名な、赤くて目ん玉が片方にしかない置物」

「それだよ、それ」

 俊樹は両手を組んで頭の後ろにやった。

「聞くところによると、人ぐらいのサイズも持ってるらしいよ。ここから話を繋げられるほうが化け物だ。俺はただ相槌を打つだけでしかできなかった」

 さすがの原田も同情を隠せないような表情になった。悩む仕草をしつつふと言葉を吐き出した。

「じゃあさ、勉強を教えてあげればいいんじゃないか」

「あぁ」

「それくらしか、お前と従妹のコミュニケーションは取れなさそうだ」

 失敬な。しかし、それはいい手ではないのかと俊樹は思った。なんとなく行ける気がした。




「いいです」

 早速、志帆に断られた。俊樹はがっくしとなった。机の上には昨日作ったカレーが並べられてある。男一人ができるまともな料理なんてカレーぐらいだ。まさか、カップ麺を夕食にと出すわけにもいくまい。

「そっか」

 なんとか心の動揺を抑えつつ、食事を続ける。お互い機械的にルーとライスを口に運んでいた。

「今日は……どこの大学に行ったんだっけ」

 志帆はすぐには答えなかった。あ、また地雷を踏んだかと変な汗が搔いてきたが、やがて某中堅私立大学の名前を上げた。正月の駅伝を見ている人なら聞いたことのあるところである。

 俊樹はまた煮詰まってしまった。話が続かない。皿とスプーンのカチャカチャと擦れある音が鳴るだけ。気にしない人なら気にしないだろうが、俊樹は気にしてしまうタイプの人間だった。とはいっても、「学業」というお互いの共通項が封じらたいま、彼女と会話が弾みそうな話題がもう尽きてしまっただろう。

 カレーが不味くなってきた。そもそも、料理に自信があるわけがなかった。ジャガイモの皮は残っているし、ニンジンの切り口は不細工だし、ルーのトロみは少ないし――。

 料理で志帆との話を咲かせようなんて、百年早い話みたいだ。

「ごちそうさま」

 小さく呟くように彼女はいって、キッチンで皿を洗うのだった。水の流れる音が、俊樹にはやけに耳障りに感じた。




 翌日、また同じ公園で二人は顔を突き合わせた。

「やっぱり、原田。俺の家に来てくれ」

 そういうと、太い顔に反比例している細い目をさらに細めた。

「嫌だね」

「なぁー、お前がいなきゃどうしようもないんだよー」

「ちくしょ、触るな! 汚らわしい!」

 俊樹の引っ付いてきた身体を剥がす。体型の太さと心の寛大さは比例するものだと誰かがいったが、そのパターンに当てはまらない男が原田という奴だ。やけに神経質で小癪な性格を持っている。「豚」と冗談めかしていうと怒髪天を衝くかのごとく激怒する。しかし「海象せいうち」と呼ぶことは良いらしく、むしろ上機嫌になる。基準がまったくわからない。

「なんでだろうな。俺の訊き方が悪いんだろうか」

「年頃の女なんて家じゃそんなもんなんじゃないの」

「そうやって思考停止したら話せることも話せなくなる」

「知るか」

 原田は明後日の方向へと目を向けた。

「愛が足りないんじゃねえの、愛が」

「抽象的だな」

「自分で考えろってことだよ」

 ベンチのミシリという音を立てて、原田は立ち上がった。これからバイトだ、といって立ち去っていった。ショートケーキ屋で働いてる彼の仕事場は、神から与えられた天職なのかもしれない。そんなことを俊樹は思った。

 俊樹はふらふらとその足でスーパーに向かった。昨日でカレーは尽きてしまった。今日は何にしようか、とロクに考えたこともなかった今晩のメニューを思索する。金と、技術と、時間と掛け合わせて最適解を導き出す。俊樹は母親の凄さを実感する羽目になった。

 そしてなんとなく、ニンジンジャガイモ玉ねぎとカレーと同じ具材をカゴに入れていた。無意識に手が動いていた。どうしようもないな、と半笑いしつつグロッサリーコーナーに到着した。

 腰を屈めて種類の選抜をしょうとしたところ、ふと隣側のレーンに目が向かった。そこには同じような具材で同じような手順を踏めば作れるであろうシチューを発見した。俊樹にはもちろん作った経験がなかった。

 数秒迷ったあと、一番安くも高くもないシチューの素に手を伸ばしていた。食べ合わせのよいパンを買うことも、忘れないようにした。




 右手にレジ袋を挟んで、自宅に戻っていく。ここ数日は決して完全なる安らぎの空間とはいえなかった。緊張状態が続いてしまう。漠然とした不安感を抱えながらアパートに帰っていった。

 自分の部屋の前まで行くと、扉に凭れかかっている人がいた。俊樹は最初、セールスの人間か何かと警戒したが、体育座りをしているのはもちろん志帆だった。

 あっ、と俊樹は自分の失態に気付く。

「ごめん――鍵を開けておくのを忘れてた」

 志帆は無言で首を横に振る。よくよく見ると唇が小刻みに震えていた。こんな冬の夕方だ。俊樹は慌ててポケットから鍵を取り出して、開けた。

 こたつに志帆を押し込み、俊樹は薬缶に火を点けた。ごうごうと激しい音がする。ちらとリビングを覗くと、身体いっぱいをこたつ布団にくるませてこれまた体育座りの志帆がいた。寝っ転がらないところには、彼女なりの節度があるようにも見えた。

 引き出しのなかには、いつぞやに買った抹茶オレの粉の素が無造作に放り込まれていた。後先考えずに薬缶を沸かしたが、とりあえず正解のルートは辿っていたようだ。粉を大きめのカップに落とし、その上から熱々の水を注いだ。湯気が天井まで上るぐらい沸き立っていた。

 銀のスプーンと一緒に、志帆の目の前に置く。

「これしかないけど――はい」

 志帆は白い両手でカップを包み、ゆっくりと、時間をかけて抹茶オレを飲んでいった。俊樹はその間、ただずっとそばで動きを見守っていた。積極的にそうしようと考えたわけでなく、ただそういう本能的な心配りだった。

 ふぅっと、一息。

「あったかい」

 志帆はそういった。

「良かった」 

 安堵した。続けて、

「――買い物行ってて。ごめんね」

 と頭を下げた。

「ですから、もうそれはいいです」

「そうだね――分かった」

 俊樹は自分のポケットから携帯電話を取り出した。

「何かあったら、気遣わなくていいから俺の番号に電話して。こないだ宿泊の許可の電話くれたじゃん? それと同じ番号だから」

 ボーッとした目で俊樹の携帯電話、コップ、そして自分の鞄に目を移動させた。やけに薄っぺらい鞄である。ただそのなかには、いままで積み重ねてきただろう勉強の証と、財布と受験票と携帯電話が入っているはずだ。

 志帆は一度、大きく頷いたかと思うと、そのまま首を下げたまま寝息を立てた。外に着るコートを羽織ったままなので風邪を引くことはないだろうと、俊樹はこたつから腰を上げた。

 夕食時。我ながら上手くできたであろうシチューをほおばりながら、俊樹は訊いた。

「明日は、どこの大学?」

 すっかり目覚めた志帆は、「明日は休みです」といった。ちょうど受験日が重なってない日だという。

「そっか」

 俊樹はちぎったクロワッサンを口に入れず、指で弄んだ。擦れ合わせて、屑が皿の上に落ちる。やがてゆっくり口を開いた。

「もしよかったらさ……どこかに行かない?」

 志帆が目を丸くする。もちろん、と俊樹は続けた。

「もちろん、勉強で忙しいのは分かっているけどさ……息抜きで半日ぐらいなら、いいかなって思って」

 言い訳がましい言い方をしてしまった。だが気持ちは伝わったらしい。志帆は口に入れたジャガイモを咀嚼し、ごくんと飲み込んでからいった。

「行きます」

 少し嬉しそうな口調だった。




 ただ俊樹は、これといって高校生女子が行きそうな遊び場を知っているわけではない。考えた末、馴染みのある遊園地に連れていくことに落ち着いた。

 平日の昼間だけあって家族連れはほとんどいなくて、暇な大学生の集団ぐらいしかまともな客はいなかった。列に並ぶこともなくアトラクションに乗車できた。

 意外にも、志帆は積極的だった。ジェットコースターからなんだかよく分からない乗り物までを片っ端から参加していった。俊樹は志帆の分のチケットだけ買い、傍から見守ることに徹していた。この年になって父親になったような気分がして、変な違和感を覚えた。

「楽しい?」

 俊樹は訊いた。志帆は売店で買ったチュロスを頬張りながら、「楽しいです」と頷いた。ただ表情が真顔のままなので、俊樹の不安は晴れなかった。面に出にくい性格なのは分かっているが、行動と感情が反比例しているような気もする。考えすぎかもな、と俊樹は首を振った。

 そのあとも、志帆はとにかく遊んでいた。同じアトラクションに二度も乗車した。ゲームセンターにも行った。俊樹はクレーンゲームでシャチのぬいぐるみを獲得し、志帆に挙げた。「ありがとうございます」と彼女は小さく感謝した。格好がついてよかった、と思う。

 日が落ちる前すでに、財布のなかは限界に近かった。志帆に引き上げたい旨を伝えると、素直に「分かりました」と了承してくれた。

「楽しかった?」

「楽しかったです」

 シャチのぬいぐるみを抱きながら、いった。

「明日も、またあるんでしょ? どこの大学?」

 彼女はかなり知名度のある某有名大学の名前を上げた。俊樹は目を口を同時に開いた。

「おー、それは……前日にこんなことしてよかったのかな?」

「いえ、いいんです。いまさら足掻いたところで、結果は変わりませんし」

「そっか。行き方は大丈夫? 電車の乗り換え必要じゃないかな、そこのキャンパスまでは」

「少し不安ですけど、スマホがあるので」

「あ、そっか。じゃあ、まあ、頑張って」

 志帆は柔らかいシャチに顔を埋めた。




 俊樹が起きたのは、すでに時計の短針が10の数字を過ぎていた頃だった。床に敷いた布団の上で、爆発している頭を搔く。すでに志帆は出かけているはずだ。俊樹は襖を開け放って、家に誰もいないことを確認した。こたつの電気は消され、皿も綺麗に洗われている。丁寧な仕事ぶりに感激しながら、便所へと向かった。

 寒い。

 足が酷く寒かった。そして何かの固形物を食す気にもなれなかった。最近は朝食を抜く日が週に三、四回発生している。朝起きた時の気分によって食うか食わぬかは変わる。

 テレビを点けて、ブラァフ・ブラァフ・ブラァフと喋る人間たちを薄目で見ながらこたつのなかをもぞもぞと動いた。

 ふと何か固いものが足に当たった。

 正確にいえば、太ももと床でそれを挟んでしまったような形になった。俊樹は考えた。テレビのリモコン、ではない。じゃあ、エアコンのリモコンかと考えた。志帆が勝手に点けたのだろうかとこたつのなかに手を伸ばした。

 リモコンどころの騒ぎじゃなかった。さらにシステマチック化された薄くて軽い電子端末――俊樹のではない。色合いと機種から、明らかに志帆の所有物だった。

 その瞬間、俊樹はサーッと血の気が引いた。

「まずいっ!」

 どけ邪魔だ。俊樹はこたつをなぎ倒した。下の住人がどう感じたのかは、もうどうでもよくなっていた。




 自転車を出す時間も惜しかった。俊樹は足で地を踏み、駅まで激走した。無我夢中だった。まるでアフリカの荒野でシマウマを追いかけるライオンのように――とにかく必死だった。死に物狂いだった。

 最寄り駅に着き、あたりを見渡した。額から流れ出る汗が止まらなかった。彼の顔は酷く歪んでいたが、気にするのも面倒だった。

 駅にいないことを確認して、改札を抜けた。ちょうど電車がやって来たが、各駅列車であったことに小さく舌打ちをした。しょうがない、と諦め俊樹は飛び乗った。

 志帆の携帯電話には、当然ながらパスワードがかかっていた。覗くつもりではなく、彼女からもしかしたら電話が来ているかもしれないと思ったからだ。しかし志帆の携帯電話にも俊樹のにも連絡は来ていなかった。苛立っていた。足でトントンと電車の床を鳴らした。ノロノロと動く車窓が、今日は憎たらしくてしょうがなかった。

 到着とすぐに降りて、路線を乗り換える。志帆の携帯電話はしっかりと手に握ったままだった。手汗がすごいかもしれない。嫌がられるかもしれない。俊樹はどうでもいい心配を打ち消した。いまは、網目のような路線図に卒倒しそうになる志帆の姿を見ることが一番辛いところだった。

 時間はギリギリだろうか。大学の最寄り駅にたどり着いて、階段をダッシュで降りた。改札の前には、試験会場までの行先を書いたプレートを持った学生がいた。周りを見渡すと、受験生らしき人はほとんどいない。変な汗が一段と出てきて、俊樹は唇を強く噛んで噛んで噛みまくった。

「ちくしょう!」

 プレートが指さす方向に、俊樹は全速力で走った。




 脚は疲れ切っているはずだった。しかし俊樹の歩くスピードは早歩きとほとんど同程度で、帰宅途中の小学生集団を一瞬で追い越していった。なぜ速くなるのかは、俊樹にはよく分からなかった。おそらく、急かす気持ちが疲労が溜まる足をも軽くさせるんだろうと解釈した。

 アパートの階段を上り、自室の扉のドアノブに手をかける。ガチャリという金属音が鳴ってなんの抵抗もなくドアは開かれた。電気は点いておらず、西に太陽が落ちてくる時間帯としてはちょっと暗い空間だった。

 居間まで行くと、こたつ布団がのっそりと動く気配がした。猫ほどの大きさではない。ああ、そういえば鍵をかけずに飛び出していったな、と俊樹は思い出した。

 志帆はポツリと一人座っていた。俊樹に気付き、「おかえりなさい」といった。

「ただいま」

 俊樹は片膝をつく体勢になった。そしてポケットから取り出した、彼女の携帯電話をテーブルに置く。

「これ、スマホ。忘れていったでしょ」

「そうですけど、やっぱり……」

 志帆は申し訳なさそうに目線を落とした。「届けてきてくれたんですね。ごめんなさい、迷惑かけて」

「いや、いいんだ。それより、受験のほうは」

「そっちは無事に済んで――」

「嘘だよね」

 はっと志帆は顔を上げた。胸のなかを勘ぐるような目つきをしていて、それが答えを雄弁に物語っていた。

 俊樹はいった。

「志帆ちゃん、なんで家出なんかしたの?」




 歩きながら、話したい。そう彼女は告げた。正直、疲れ切っていたが、俊樹は承諾した。お互いに携帯電話を持たず、鍵だけをかけて外に出た。

 道が組み込んでる住宅街。俊樹が引っ越してから、すでに三年が経過しようとしている。一本の畔道が永遠と続く街から出てきた俊樹にとっては、果てしない迷宮のようなダンジョンだった。そして今日まで、何度も何度も歩いて地図を頭に叩き込んでいった。いまではあたりが暗くなろうとも、迷うことはない自信があった。

 家を出てから数分間、志帆は口を開かなかった。考えを整理しているのか、ただ歩きたいだけだったのか。とにかく俊樹からは口を開かないと決めていたので、彼女がしゃべり出すのを待ち続けていた。

 やがて出てきた言葉は、まず疑問だった。どうして、気付いたのかと。俊樹は語った。

「テストが終わる頃にずっと大学の前で待っていた。だけど君らしき人物は一人も現れなかった。もしかして受験できずにそのまま……と気が気でなくて、受験責任者に問い合わせたんだ。電話でね。ホント迷惑だったろうな。で、帰ってきた答えが、『受験者のなかに北野きたの志帆という人は存在しない』というものだった。

 俺はとにかくビックリして、ビックリしたんだけど、それから冷静になってなんとなく繋がったんだ。やけに薄い鞄とか、あまり受験のこと話さないな、とか、そもそも勉強をあまりしている感じじゃないな、とか。

 それで、確認のためにウチの親に電話した。そしたら逆に訊き返されたよ。志帆の居場所を知っているのか、と。あの子が家出をしたって北野の家から連絡が来たのだと。

 俺は適当にはぐらかして電話を切った。それだけ」

 志帆は小さく、何度が頷いた。

「そうなんですか」

 坂の上に足を運んでいく。冬空にオレンジ色の夕日が輝いて、寒い割には気持ちの良い気候だった。こんな日には温かい料理――そう、ちょうどシチューのようなものがピッタリである。

「俺からも訊いていいかい」

「なんでしょう」

「家出をした理由を、聞かせてくれるかな」 

 彼女はふっと小さく息を吐いた。  

「難しいです。答えるのが」

「はぁ、そうなの?」

「はい。とっても」

「でも、俺は納得しない」

「分かっています。分かっていますが」

 俯き加減になる。

「たまには何かを辞めてみたいときもあります」

 かすかに涙声が入り混じっていた。鼻をすすって必死に堪えようとする姿は、とても見ていられないものだった。俊樹はただ白い息を弾ませた。  

 田舎から一人家を出て、大学受験をすると嘘をつき、特に親しいわけでもない親戚のアパートに転がり込むぐらいの彼女。親戚の集まりで大部屋の隅っこにいるような少女ではもうない。並大抵の覚悟と勇気があったのはいわずもがなだった。

 そんな彼女に向けるのは、こちら側の勇気と覚悟を決めた誠意。それ以外にはありえない。

 俊樹は立ち止まった。

「なあ、志帆ちゃん」

 目を合わせた。滲んだ瞳だった。

「俺からいえるのは、一つだけ。家に帰るんだ」

 正解じゃないのかもしれない。間違ってるかもしれない。安易に「お前が決めろ」ということはできる。しかし、それは責任放棄である。俊樹は語気を強めた。

「志帆ちゃんの親御さんは心配している。これはたしかなんだ。俺は志帆ちゃんの身に何がったのかは知らない。北野の家で嫌なことがあったのかもしれない。でも、誰かを本当に悲しませるのはいけない。部外者の俺がいえることじゃないのかもしれないけど。

 でも、とりあえずは親御さんと話してくるんだ。その上で、自分の気持ちを伝えてみればいい。怒られって、軽蔑されたっていい。ただ、もう一度考えることだね。よくよく熟考した上で、やっぱり田舎から出たいっていう気持ちが強いのなら俺は全力で応援する。いつでも電話をしてくるといい」

 志帆は大きく頷いた。空はすでに夜の様相で、一番星が遥か彼方に蚊がいている。彼女の肩を一回だけポンと叩くと、俊樹はアパートの方角に足を向けた。




「――それで、田舎に帰っちゃったんだ」

「だな。向こうで元気にやってるそうだよ」

「へぇ」

 原田は焼酎をぐいと傾ける。彼が机に体重を乗せるたび、重みでこたつが潰れないかと俊樹は気が気でなかった。焼酎の瓶をボウリングのピンのように並べている光景は、ただの酒豪その者だった。

「なんかね」

 赤く頬を火照らせながら、原田はいった。

「答えが出ないねぇ」

「出ないねぇ。それが人間というものだよ、原田君」

「だが一つ正しいといえるのは、『そこの奴』がお前の家には不適当だったってことだな」

 いいや、違うと俊樹は笑った。気持ちだけがあればいいんだよ、といってこの男に伝わるだろうか。どうだろうか。

 志帆が帰ってから数日後。巨大な荷物が二人がかりで俊樹の家に届けられた。唖然とした俊樹に対し、冷静な配達員はサインだけをもらって悠々と退散していった。しょうがないから、俊樹は一人で巨大物体を両側の壁にごつごつと衝撃を加えながら散乱したリビングまで引きずった。あっという間に額に汗が浮かび、図らずも運動をしてしまう結果になった。疲労と釣り合うほどの荷物だろうな、と俊樹は無理やり外側のパッケージを引き剥がした。

 そこには、ダルマがいた。

 人ほどのサイズを持つ、巨大なダルマがいたのだった。

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