第55話 懐かしの味、そして香り、
ほう……。
美味しい。
わたしは、挽きたて、淹れたてのコーヒーをいただき、思わずため息を洩らす。
これぞ、幼少の頃より両親に連れられていった、古き良き喫茶店の味。
駅前にあった、長い呪文の果てに出て来るものとは一線を画す味わい。
いや、あれはあれで、友達と一緒に出掛けて、わいわいやるのが楽しかったんだけど。
一杯飲んだだけで銘柄を当てられるほどの通ではないけれど、ウル翁の淹れてくれたコーヒーは忘れていたわたしの気持ちを呼び覚ますような味がした。
わたし、コーヒー好きだったんだな。
この世界に来てから、まだ僅かな日にちしか経っていないけれど、その間確かにコーヒーは飲んでいなかった。
なにかと考えることも、しなくてはいけないことも多過ぎて、コーヒーそのものの存在さえ思い出すことがなかったのだ。
わたしにとっては懐かしの味。なんだけど、マティアスくんはどうかな。美味しい?
「色は不気味なものを感じますが、この苦みはクセになりそうですね。しかも飲んでいると何か妙な覚醒感があります。それになんと言っても香りが素晴らしい」
大好評でした。
「昔飲んだこれは、なんと言うか、豆の煮汁のようなものじゃったんじゃ」
ウル翁も、何かを懐かしむような表情で語り出す。
「じゃが、今回のこれは産地の者たちが豆を煎ってから砕いたものを煮出して飲んどったのじゃ」
なんだろう? コーヒーの歴史を聞いているような気分だよ。ウル翁の言う昔って、いつ頃の話さ。随分と昔のことのように思えるのは気のせいかな。
でもウル翁が楽し気に語る、コーヒーとの出会いを聞いていると、そんなことなんかどうでもいいことに思えてくるから不思議だね。
「昔よりも格段に味も香りも上がっとった。もう儂もこれのとりこじゃよ」
おー、ウル翁、わたしもこちらの世界で、またコーヒーを飲めるなんて感激だよ。
けど、煮出す式だともっと口の中が粉っぽくなるんだけど、これは大丈夫だね。上手に沈殿させてるのかな。
「そこで、いろいろと試してみたのじゃ」
どうやらウル翁は、この半年の間、豆の産地と、この店の奥にある研究室を行ったり来たりしながら、コーヒーを美味しく淹れる方法を研究していたようなのだ。
って、大陸間をどうやって移動してたの?
いやいや、もう深く考えるのはよそう。
ウル翁だったら、やりかねないのだ。
現地で購入した機材を魔道具として改造したりしながら、豆の煎り方なんかを研究していたそう。
その成果が、さっき見た魔導焙煎機かな。
わたしはがらがらと回る、あの機械を思い出す。
火に焼べられた網の上、豆が踊るように炙られていく様は見ているだけ楽しい。
ウル翁の研究は、それだけではない。
隣り合った土地でも、産地が違うと味も違うことに気がついたウル翁は、複数の産地の豆を組み合わせることまで考えたのだ。
おー、それでは今いただいている、この一杯は『ウル翁ブレンド』って訳だね。
その結果、最適なブレンド比率やら、焙煎の度合いやら、挽き方なんかも見つけ出したらしい。
ちなみに煎った豆を挽くのは手動のようだね。
さっき見た、わたしの元いた世界でお馴染みの、コーヒーミルに良く似た機材。
これは焙煎機と違って全自動じゃないんですね。
「この中に豆を入れて、ハンドルを回す時のゴリゴリとした手応え。それもまた楽しみのひとつじゃ」
わかります、それ。
わたしも、お家で豆を挽き過ぎて粉々にしちゃった経験が……。
「それに、何もかも魔法で済ませてはつまらんじゃろう。いろいろ試してみるのが楽しいのじゃ」
ふふふっ。マティアスくんがウル翁を師匠と呼んで慕っている理由がわかった気がするよ。
そして遂に、コーヒーの淹れ方の話となった。
いきなりエスプレッソマシンみたいな、オーパーツなんかが出てきたらどうしようかと思ったんだけど、さすがにそんなことはありませんでした。
取っ手の着いた、茶こしのような袋。それがガラスで作られた丸い容器の上でスタンドで支えられ、蓋のように乗っかっている。
袋の中にミルで挽いた豆を移したら、今度は鶴の首のようなカタチの注ぎ口を持つポットで沸かしたお湯を、静かにその上から落とす。
この段階で、もうコーヒーの良い香りが辺りに漂い出した。
「このコーヒーを漉すための布。これも幾つか試したんじゃ」
ウル翁は、まるで職人気質のバリスタのような目付きと手付きで、ゆっくりとお湯を注いでゆく。
おおっ?! これは、もしやネルドリップではあーりませんか?!
いや、フィルターが布っぽいってだけで、あれがフランネル製かどうかは謎だけど。
もう驚かないよ。
例えウル翁が、元の世界でもポピュラーなコーヒーの淹れ方を、僅か半年足らずで見つけ出したとしても。
改めてウル翁の淹れた一杯を味わいながら、ふと、この場にはいないおっちゃんを思い出す。
まろやかながら濃い苦み。そしてあとから来るのは仄かな酸味。飲み下したのちには微かに甘みさえ感じる。
まさに大人の味。これはもう、おっちゃんにピッタリじゃないか。
おっちゃんもお酒ばっかり飲んでないで、コーヒーを飲めばいいのに。
この美味しいコーヒーを、おっちゃんにも味わってほしいな。
何故か真っ先に浮かぶのは、おっちゃんの顔。実に不思議だ。
幸せな香りに包まれて、そんな何でもないことを考えている。
でも、その何でもないようなことが、なんだか大切なことのように思えてくるわたしなのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます