社畜さんとアップルパイ

わた

第1話 出会い

 厳しい暑さを乗り越えた9月下旬。未だに暑さを感じる日は訪れるが、吹き付ける風に冷たさを覚える。街ゆく人を見やると、長袖姿の青年や薄いカーディガンを羽織った妙齢の女性。少しモコっとした厚手の上着を羽織る母親が、半袖姿で走り回る子供を追いかける姿が視界に入る。外に出る前、洋服で悩めることは羨ましいなと思いながら広告代理店で働く岸田博人は道の端をとぼとぼと歩いていた。


 そんな博人の格好は紺色のスーツに赤いネクタイを巻いた社会人スタイルである。上も下もビシッと決まって――いたら恰好が付くのだが、若干遠目から見てもスーツはよれていることがわかってしまい、どこかだらしない。博人自身、自分の格好のだらしなさに自覚はあるものの半ば諦めていた。というのも今の時刻は朝を丁度超え、人によってはお昼ご飯を食べている時間に博人は帰路についているのだ。加えて今日で25連勤目、家に帰るのは実に3日ぶりである。所謂社畜と呼ばれる部類なのだ。会社自体がブラックなんてことはないが、30歳になった博人はそれなりに上の役職につき部下を持つ。通常の業務と教育に加え、頼まれたらノーといえないザ日本人の性格を持つ博人は更にプラスアルファの業務を抱え込んでおり大忙しだった。


グーギュルルル


 不意に道端に漂う甘い匂いに誘発され、獣の唸り声のような音が博人のお腹から聞こえてくる。思い返せば朝から何も口にしていないことに気が付いた。腹に潜む獣を落ち着かせるかのように2度お腹をポンポンと叩いた。しかし、微かに香る美味しそうな甘い匂いに獣が落ち着くはずもなく数度抗議する声が腹から聞こえたので、仕方なく立ち止まってくるりと匂いの方向へと視線を向けた。


「【あみりんご】アップルパイ専門店?こんなところにあったか?」


 匂いの正体は【あみりんご】という名のアップルパイ専門店であった。今まで嗅いだことのない匂いと店に困惑し博人は周辺を見渡した。すると真後ろの一本道に大きなデパートらしき看板を見つけ、仕事の疲れからかいつもの帰路とは異なる道を歩いていたことに気が付いた。余分な体力を使ってしまったことに後悔していると、またしても腹から抗議の声が鳴る。


「よいしょ、あれ?お客さんですか?あっ!やばい11時過ぎてる!ごめんなさい今開店しますね!」


 疲労により頭の回転が遅くなっておりその場に立ち竦んでいたところに、匂いのする店から女性が出てきて声を掛けられる。

その女性は180センチメートルある博人の胸元位の大きさで小柄であった。わちゃわちゃと忙しなく動く姿や、コテン?と首を傾げながら問いかける仕草に、ヒマワリが咲いたような眩しい笑顔を向ける彼女を見て小動物みたいで可愛らしいなと感じた。


「お待たせしました!【あみりんご】開店です!」

「あっ、はい」


 確かに匂いに釣られたものの、まだ入るか決めてないお店だったのだが、その女性の笑顔に釣られつい足を踏み入れてしまった。

 瞬間、ぶわっと香る強烈な甘い匂いに疲れ果てていた身体が起き上がる。その強烈な匂いは我慢しなければ今にも涎が垂れてしまいそうな程脳内を揺さぶった。その原因であるアップルパイはショーケースに綺麗に整列している。外側から見えるパイ生地は光沢を帯び、店内の暖かな明かりに当てられて光り輝いていた。整列している姿も相まって、博人の目にはアップルパイがセレブ街にあるジュエリーショップに飾られた宝石のように見えた。

 宝石に見えたのはほんの一瞬、改めてアップルパイをまじまじ見つめると、パッとイメージに浮かぶようなファミリーサイズの大きなアップルパイから、猫やウサギなど動物の型を模したアップルパイなど見ていて楽しくなるほど多くの種類が立ち並んでいた。


「流石専門店だな」

「ありがとうございます!味も勿論保証しますよ!」


 思わずポロっと零してしまった発言を目ざとく拾った彼女は博人の発言に被せるように畳みかける。無視するのもなんだか悪いなと思い、おすすめを聞くとシンプルなアップルパイが一押しであるとのことだったので一つ購入した。

そのアップルパイは携帯電話位の大きさで、形も長方形とおひとり様用として丁度いいなと感じる品であった。例に漏れずそのアップルパイの外側の生地は輝いており、美味しそうという感想よりも綺麗だという言葉が先に浮かぶ。


「おすすめはシンプルな物なのですね」

「えぇ!味には自信がありますから!たくさん種類もありますので気に入ったらまた買いに来てください!」


 専門店だけあって味にはほんとに自信があるらしい。ここまで自信満々におすすめされると期待値が高まってしまうが、匂いでわかるようにきっとおいしいのだろう。

 店を出て再び帰路へと戻ると、思い出したかのようにお腹の獣が目を覚ます。しかしそれは仕方ない。自分もとても楽しみなのだから。最近仕事三昧で楽しみといった楽しみが無かった、仕事が終わればその重い足取りで家へと帰る。そこにポジティブな感情はなかったと記憶している。普段であればマイナスな事を考えようものならそのままマイナス感情に流されてしまっていたが今日は一味違う。手に持ったまだ温かさを感じる紙袋に思いを寄せルンルン気分で歩みを進めたのだった。

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