しあわせの食堂

鬼ごろ氏

人生

「終わった……」


 我が晴れの国、岡山は俺だけ差別してくれるような太陽光が白い肌に容赦なく紫外線を浴びせる昼の十二時。 わざわざ外に赴いたのには理由がある。


 内田百閒文学賞。 岡山にゆかりのある文学作品を全国から募集したこの賞は金一封が7桁を超える。 


 賭けだった。


 今までなんの努力もしてこなかった俺は人との関わりを血縁ですませ必要事項さえも未来の自分に丸投げだ。 おかげで家族に見放され、かろうじて貯めていたお年玉をひたすらに切り崩す生活となった、持つべきは横繋がりの親戚である。


 もう俺には後戻りができなかった。 進学も就活もアルバイトの面接も全て水泡に帰す、父親に生まれて初めて心にもない罵倒を浴びせられ初めて社会不適合者のレッテルを受け入れた。 


 そんな俺に残されたのは一攫千金といった計画性もクソもあったもんじゃない神頼みだ。 こんな田舎の賞に応募する人間なんてせいぜい四、五人だろうとたかを括って挑んだ1回目、それが現実に殴りつけられた日だ。 一生忘れられないだろう。


 死ぬほど悔しくなった。 これでも学生の頃は数え切れないほどのライトノベルを読み漁ったのだから最優秀賞に手が届かないわけないと匿名サイトや投稿サイトで蹴落とされた作品を投稿してやった。


 それはもう……顔から火を剔抉するほどの羞恥であった。


 急いで消したが遅く、瞬く間に勘違い野郎にしてネットで遊ばれた。 よく燃えるし丈夫で数年先の未来でこの電子機器を超える優れた一品が普及する頃には存在も一部のネット老害の片隅に収まるだろうと頬を濡らした。


 いつも食べてるパンが飲み込めず、筆と紙を見ると肺が痛くなる病に陥り俺はただ静かに人間の最下層へと落ちていった。


 それでもなお生きていられるのは芋虫根性が抜けていなかったからだ。 知ってるか? 芋虫は前進しかできないんだぜ、そういうことで俺は長年愛したソシャゲを捨て図書室を彼女にした。 普段なんとも思っていなかった地元のあらゆる活動や伝統行事、果ては有名人の出生にまで舐め回すように食らいついた。 


 小説の書き方も改行とかセーブ・ザ・キャットの法則とか、活字にも椎茸みたいな嫌悪感を抱きながらも読み進めた。 


 そしてようやく、リベンジを迎えたのである。


(百万あったら二年は生きていけるな)


 近所の半額シールのついたランチパックをカゴにぶち込みながらまた、去年のように最優秀賞を取った後のことばかり気にしてしまう。


 懺悔のようにトマトジュースと一日分のビタミンも数本カゴに入れて会計を済ませた。 またこいつかよみたいな顔でレジを通す態度の悪い店員を勝手に高卒に見立てて少しでも自分の方が底辺の中でも努力家なのだと心の中で復唱し今日も心身の補強を行う。 一言で崩れるけどな、こんなメンタル。


「腹減ったあ」


 家に帰ったら何をしようか、貯金はかろうじてあと半年程度生きていくには問題ない額が 


 最悪、生活保護でいいかなんて思ったり。


 どうせ俺は社会に求められていないし期待されている同世代の税金で生活したってなんら問題ないだろ。


(自転車買おうかな、毎回歩いて帰るの腕が痛え)


「うわっ」


「っすみません」


(ながらスマホすんなよ)


 前を向いて歩かなかった自分を棚にあげ、カバンから崩れてこぼれた紙きれを必死に集めるサラリーマンらしき男を上から見さげて「あれ、これ帰っていいやつか?」なんて思いながら両手のふさがった俺は手伝うそぶりも見せずとりあえず呆けていた。 さっさと終わんないかな、俺はあんたらと違って自由な時間をいかに有意義に使わねばならないのに。


「いや本当にすみませんでした」


「別に……」


「あれ、沢村さわむら? 沢村じゃん。 クッソ久しぶりじゃねえか! 嘘だろお前いつ帰ってきてたんだよ」


 最悪だ。 どうやら知り合いらしい。 俺はすでに同級生の名前なんてほとんど覚えていないのだが話からしてそうっぽい。 厄日だな、知らないやつなら無視を決め込んで帰ろう……災厄だ。 髪型をワックスでガチガチに固めていたからようやく気づいたがこいつは中高と同じ学校に通っていた陽キャだ。 ただでさえ細い自分の目をさらに細めて怪訝にしながら早く帰りたいアピールをしてみたがなんかひたってるこいつには効果がなかった。


「平日なのに休みか? 工場とかで働いてんのか? それとも有給? お前こっちに帰ってきても卒業と同時にグループ抜けたから連絡取れなかったよなー あ! ライン交換しようぜ」


 よく喋るやつだ。


「……持ってないよ、それに俺はずっと岡山ここから出てねえよ」


「嘘つけよ、じゃあなんで成人式来なかったんだよ」


「インフル」


 嘘をついた。


「マジか」


 お前も信じるなよ。 てか流行ってなかっただろその時期、ほんと嫌味なやつだ。 普通、県外にいたのかと聞いて相手がずっと地元にいたといえば気まずくなるだろ? 何スルーしてんだ。 こっちは賞味期限ギリギリのパンを腐る前に帰って冷凍庫にぶちこむ大事な用事があるんだよ、と直接いうとあまりにもこいつと対極をなす生活を露呈する羽目になるから、惨めになるのを避けて言葉はできるだけ控える。


「じゃあラインだけでも交換しようぜ」


「あー今持ってないからマジで無理、お前仕事あるんだろさっさと行けよ」


 昔からこいつだけは誰にでも声をかけていたな、ほんとに面倒で仕方がない。

 その着こなされたシワ一つないスーツを見せつけられるのはうんざりだ。 太陽より有害だ。 第一お前、昔はそんなんじゃなかっただろ、制服にしても派手に動き回るスポーツ系でガサツで……だからいつもシワだらけで……ほんとになんなんだこいつ、大人になったら変わりましたアピールか? 俺はちゃんと歯車として生きているぞと? 


「じゃあこれ、電話してくれたらすぐワンキルしてくれていいから!」


 名刺を渡された。 裏には手書きで電話番号が書かれており家に帰ったらすぐゴミ箱に捨てられるよにレシートの入った右ポケットに突っ込んだ。


「じゃあな」


「あっおい!」


 そこでまだこいつが紙きれを落としていることに気づいたので仕方なく、本当に仕方なく呼び止める。 もしこのまま去ってしまわれると本当にWi-Fiでしか連絡の取れない俺からこいつに会う約束とラインの追加をする羽目になったしまうから。 わざわざ重い荷物を全部左手で掴み直して拾ってやった。


「ディズニーチケット?」


「悪い、助かったよ! マジサンキューな」


「女かよ」


「おう、まあ嫁さんだな!」


「は?」


 頭が真っ白になった。


「土曜日で結婚一周年なんだよ、お前インスタしてないだろ? だから知らんくても仕方ねえか、同じ高校の真央ちゃん! 学部違うからわかんねえか」


「知ってるよ」


 俺の初恋だ


「でも確か大学通ってたろ」


「まあそこは……な?」


 時間がないからとあいつは走って消えていった。


「……んだよそれ」



 癇癪を起こしてしまいそうだった。 下を向いて歩くのに慣れていたのに、しわくちゃなジジイを連想させるような汚ねえ顔になってたと今では思う。 鏡で確認するのも躊躇わられるほどの悪態をついた。


 ■■■


 玄関を開けてからは全力のフルスイングで買い物袋を壁に叩きつけた。


「おいうるせえぞっ!」


「うるせえ!!」


 急ぎ玄関の鍵とチェーンロックを済ませ、背中を向けるように体育座りをする。

 アスファルトでできた床が尻を冷やした。 結局俺は巣に帰っても下を向いていた。 あるのは静寂と扉を外から怒鳴り散らしながら叩きつける飲んだくれのキチガイだけだった。 


「俺にっ構ってくれるのはお前だけっかよ」


「何言ってんだてめえさっさと開けろっ!!」


 それから間もなくサイレンの音が響くも俺は深い眠りについた。 


 迎えてくれたのは激痛と寒波であった


「痛ってえ」


 変な姿勢で睡眠をとってしまいぎこちない四足歩行の生き物のように時間をかけて体をならし立ち上がる。 古い建物な為か内側のポストから差し込む冷気は十分に俺の体を絶命に導いていたようだ。 厄介なおっさんの怒声も消え「そういえば警察は」なんて覗き窓に目を通してみるが誰もいない。  目から下にかけての皮膚に痛みを感じクソガキみたいにえづきながら疲れて就寝とはまさに幼児である。 自身の体力のなさと醜さを主張するようで嫌だ。


 まあいい、話を戻すがサイレンの音は別方向へ向かっており警戒したおっさんも勝手に消えたか諦めたんだろうなとワンルームの部屋へ戻った。


 ただでさえやかましい音をさせて温風を吐き出すエアコンを起動させたらまた厄介ごとになりかねないので諦めた。 空気洗浄機能目的で買ったファンヒーターがあったのでそっちを使おう。 


「腹減ったなあ」


 そこで嫌なことを思い出してしまった。 おっさんでもあいつでもなく、パン。


 そう、食料。


「あーあーあーもう……最っっっっ悪だな」


 床に捨てられたから一袋、救出を試みるが時すでに遅し。 内容物はひしゃげて中身を破裂させた袋から吐き出していた、まるで吐瀉物だ。 食べる気もしない。 他にも救出可能な生存食をかき分けるがカーテンの隙間から流れ込んだ斜陽にやられたか腐臭のような臭いと他の発酵物と混ざり合って胃袋を直接殴りつけられたような感覚に陥り咄嗟に息を全て吐き出した。 添え物に容器から液体が滲んでいる。 どんだけ当たりどころの悪い投げ方をしたんだ俺は


 睡魔も消え失せ冷静さを取り戻すと匂いが部屋中に充満していたことに気づき窓を開ける。


「……カップラーメンでいいわもう」


 換気が済むまでの時間を無駄にしたくなかった。 嫌でもあんなことやこんなことを思い出しそうだったから。


 また歩いてスーパーまで行くのも面倒なので手前のコンビニで済ませよう。 あそこならお湯入れて戻る頃には食えるだろ。


 にしても今日は厄日だ。 なんで知り合いに会わなきゃ行けないんだか、田舎なんてなんもいいことねえんだからさっさと都会にフェードアウトしちまえばいいのに


 こんなにも何もないとこr


「あったわ」


 コンビニまでの一本道、交通道路が原因で駐車可能スペースに限りのあるそこに、店はあった。 いつできたんだろうか、やけに綺麗な塗装がされているため最近建て直しとかでもしたのだろうか。 周りの店がどれも古くからある建物で他の店と比べると外装が今風というか都会といった感じで場違いではないかとも思ったがそうでもなく、結構落とし込めてる感はある、知らんけど。


 この店舗の隣では精肉店があり昔からよく通っていたがこんな店があるのにも気づけないあたり、最近顔を出していなかったなと実感。 昔は50円だったコロッケがいつの間にやら60円になってたっけ。 男のくせに日傘さして買いに来てたからよく変な目で見られてた。 性格の悪そうな店員のおっさんは健在だろうか、どうでもいいが。


 にしても……いい匂いだな。


 先ほどまで激臭に対峙して痛みとしてはこれはまさに鼻腔を弄ばれるような悦がある。 もう満足。 これでお腹いっぱいになりそう。


 だが体は思考とは裏腹に慟哭が如く泣き叫ぶ。 カップ麺で勘弁してくれ、少なくとも理性はまだ耐えていられる。 本能は右足を少し入り口へ進み出してやばい。 


 落ち着け! 今ここで飯なんて食ったらカップ麺が食べられない! いや違うな、これだとまるでカップ麺中毒者だ。 日に決められた数食わないと死ぬとか思ってるやべえ奴。 宗教よかそういう類の、俺はそんな異常者じゃない。 


 ただ、ここで一食500円越えはきつい。 実際はどれだけぼったくられるか知らんが食べた後で「原価ガー」とか言っちゃいそうな自分がいて怖い、俺は飯を作ってくれた親にすら牙を剥くカスだからわかる。 多分絶対に言う断言する。


 ちょっと何言ってるかわかんない辺り、それくらい今の俺は判断力が鈍っているのだ。 だってお腹空いてるんだもん、にしても独り言がひどい。 わかっちゃいるし心の中で会議してるだけなんだからいいんじゃないかと言う話だがアニメや漫画みたいな複数の自分自身と会議なんてものはしない。


 脳内だって俺はぼっちだぜと、死にたくなったきた。


 でもどうせ死ぬなら美味いもん食いたいよなあ……


「あの」


「ヒャい」


 死神に三途の渡り賃をせがまれたのかと錯覚して心臓が飛び出るかその衝撃で死ぬところだった。 もし生きているのに死神とコンタクトを取れたらそろそろ病院にGOだ。


「お客さんですか?」


「あーええっと、そうですはい。 メニューとか置いてたら決めてから入ろうかなあって! ははっ」


「メニューは店内にあるのでどうぞお入りください」


「あ、はい! 失礼しますいやー綺麗ですね店内」


「先週開店したばかりですから」


 そういえばポストの投函物を丸めて捨ててる時に先週の日付でニューオープンとか書いたチラシがあったなと、店員の発言で点と点が俺の中で線になった、度もそれだけ。


 そっか、ここだったんだなと。 地元を舞台にした小説書句ために色々調べて板がいやー知らなかった。 まあ別にどうでもいいが


「決まりましたらお声掛けください」


「あ、どうも」


 こう見えて取り繕った態度は得意なんで全然会話できてるはずと暗示をかけてメニュー表を開く。 一番安いやつをつまんで帰ろうかと考えていたのだがいかんせんメニューが多い。 しかも全部うまそうだ。 


 丼 定食 麺類 和洋中。 見たところ案内をしてくれた女性と俺しか店内におらず、覗こうと思えば立ち上がることで容易にできそうなカウンターに座らされたがその向こうで何かを切っている音だけが響いていた。 でも作業音はやはり一人分っぽい? どうやって営業してるんだろうか、ランチ時にはかなり人がきそうなものだが。 もしかしてそこまで潤っていない?


 未亡人一人での営業……ではないな、あきらかに若いしそれこそ二十代後半言ってたらびっくりするくらいにはまだ幼さの抜けてない顔立ちだ。


 でもすごい綺麗。


 猫背なのが少し気になるが長い髪もちゃんとまとめられており作業も早い。

 もし仮に一人で賄えているのなら天才肌なのだろうか。


 しかし不覚にもまじまじと見ていたのが気づかれてしまい「決まりましたか?」

 と言われ ああ、メニューね、と現実世界に舞い戻る。


「あーっと……店員さんのおすすめお願いできますか」


「おすすめですか」


 めっちゃ怪訝な顔になった。 目をとんでもなく細めて睨みつけてくる。 なんのためにメニュー表を渡したと? そうですよねすみません。 


 実家でも何食べたいか聞いて「なんでもいい」と答えた親父だけ豆腐とからしが出されていたことを不意に思い出す。 地雷を踏んでしまったのだろうかついには探偵のように顎に手をやるようにして腕を組み始めた。


「朝とお昼は何を食べましたか」


「あーなにも」


「わかりました」


 そういうと綺麗な店員さんはキッチンへと姿を消した。 どうやら許されたらしい。 もしこれで豆腐とからしが出たら泣く。 藤原竜也の演じるカイジくらいの勢いで拗らせた気狂いとして豆腐をディスる。 カイジは別に拗らせてないけど。


 辺りを見渡すも田舎の飲食店特有の週刊誌陳列や天井に設置されたテレビもなくただただ静寂を楽しむ羽目になった。 店員さんは「お待ちの間に」とコップ一杯の牛乳をいただいた。 


 もう今日はいっそのこと小説を完成させた記念で無礼講と行こうじゃないか。

 どうせ今日ぶちまけた二週間分の食糧は腐って無駄金にしたんだから今更諭吉が2枚くらい飛んだところでどうってことないぞと言うことで


「どうぞ」


 料理が出来上がった、この表現は作った側ではない俺が言うのも違うか。


 お盆にはほうれん草のおひたしに汁物でミネストローネ、長芋とキノコの……バター炒め? 珍しい。 メインを飾るのは餡掛けの絡む蓮根の挟み揚げだ。 海藻のサラダもついてきた。 きのこ嫌いだけど空腹のスパイスか彼女の腕前か異様に美味そうだ。


「いただきま」


「一食ダイエットですか?」


 両の手を合わせたところで聞かれそんなふうにみえるかな、なんて思ったが注文時になにも食べてないと答えたためそう捉えられたのだろう、明らかに俺の体は骨と肉だけで形成されてるような者なので減量なんてしない。 これ以上は手羽先の持ち手みたいになっちまう。


「ああ、いえ。 そう言うわけじゃなくて。 たまに抜いちゃうんですよね、ご飯」


「そうですか」


 ……気まずっ 会話はそこで終わったのにずっと面と向かって見られているので何にもないよと言ってしまいたいが美人さんなので逆にこっちが言い返されそうだ。 言いそびれた食事時の挨拶を済ませると女性はまた、口を開いた。


「長芋は胃腸の粘膜を保護するムチンを豆は胃に優しいので。 それとサラダは最初に食べてください」


「あ、はい。 ありがとうございます」


 一礼を済ませるとキッチンに顔色変えず消えてしまう。 にしてもまあ、驚いた。 学生時代は3食抜いて翌日の朝にがっつりカツ丼なんて食べて体を壊したことがあるから分かるが胃袋が空っぽの状態でいきなり優しくないものをぶちこむと胃液が追いつかず激痛や胸焼けに近い症状が現れることもある。 優しいものをチョイスしてくれたのね、素直に感謝。


 さっそく一口。


「うまい」


 新鮮て感じだ、久しぶりに食ったから感想がこんなことしか出てこない。 まあ食レポするわけでもないし、でも小説家志望なら他者にも伝わるくらいの語彙力は必要だよなうん。


 まずサラダなんだがめちゃくちゃに美味い。 口の中でシャキシャキと水菜やレタスが音を立てて脳まで響く心地よさ。 ドレッシングはそこまで主張してこないので「野菜てこんなはっきりと味があったんだな」とお前何年生きてきたんだと自分で自分を疑うような発言が出てしまう。 今までサラダなんてたっぷりドレッシングをかけていたから新鮮だ、野菜だけに。


 次は胃腸に良いと言われたソテーだったかな? こちらをいただこう。

 半月切りの長芋が綺麗に皿に盛られておりふりかけられた青のりが彩りをよくしてくれている。 これを一口で頬張る


「──あれ?」


 涙腺が崩壊した。 


「なっ、やっべ」


 急ぎ裾で拭くが止まることを知らず目を瞑って目が天井に向くように頭を上げた。 


「スゥーーー」


 一旦深呼吸……しかし、やはりというか落ち着き、油断するとまた、血を絞り込んだ液体が流れ始めた。


 いつぶりだっただろうか、こんなに……温かい食事を口にしたのは


 飲み込んだ後でよく噛まずに流し込んだことを後悔しながら長芋のソテーを一枚二枚と急いで口に放り込み咀嚼を済ませた後ご飯をかきこんだ。 お椀越しに伝わる熱が人の温もりのように感じてしまい余計に自分が情けなくなる。


 料理は美味い、でも料理が美味いから泣いてるわけじゃない。



 箸休めのように置かれたほうれん草のお浸しをご飯に乗せて大きく一口。

 鰹節の香りと醤油が日本人なら誰もが味わってきたはずなのに今日まで忘れていた分の記憶のツケがよみがえる。 日本に住んでてもう何年も口にしていなかったその味にこれまでの異常な食生活を猛省しながら米粒をまとめてかきこむ。


 最後にすっかり残してしまっていたミネストローネは猫舌の俺でもちょうどいいくらいの熱さで涙で汚れないよう止まるのを待ってから一口、口内を一瞬でトマトが支配した。


 汁物の熱がそのまま俺の体へ入り込み体温へと変わって行くのがわかる。 とても……とても優しい味だった。


 俺は馬鹿だから人の優しさなど気づかず育った。 だからこんな感想しか出てこない、小説家なのに。


 気がつくとそこには空の食器と力尽きるように椅子にもたれかかる俺。


 今日生まれて初めて優しさを知ったような心地よさに脱力を覚え、うまく身動きが取れなかった。 


 それでも立てかけられた時計の針が左上を指していたので迷惑をかけないようお暇することにした。


「あの、ありがとうございます。 ほんとに美味しかったです」


 そこにはもうヘラヘラと愛想笑いを浮かべる馬鹿はいなかった。 店員さんは相変わらず表情が汲み取りにくいがレシートとお釣りを渡してくれた時に小声で「よかったです」そう言ってくれた。


 もしかしたら俺は想像以上に危ない状態だったのかもしれない。

 恥ずかしい話、ずっと会計までの間は仕込みのためにキッチンの奥にいたので泣きながら飯をかきこんでいたことに気付いていないかもしれないし反面、俺がそう思っているだけで実際は聞こえるような大きな声でえづきながら食べていたのが聞こえていたのかもしれない。 もうここには迷惑はかけられないな、きっと寝て起きたら昨日の俺は顔を赤面させながら狭いワンルームで転がりまわる羽目になるのだから。


「失礼します」


 もうまともに顔を見ることもできないのでと最後にちゃんと別れの挨拶を済ませた。


お越しください」


「────」


 その言葉には一礼で済ませ、去った。


 その日の夜、いい歳こいた大人が泣き喚きながら夜道を歩いた。 フラれたのか異常者なのか、きっと田舎中で噂になるだろう。 警察がきたら自首しないとな「私がやりました」なんて


 また来よう。 男は熱が冷める前に夜道を走り抜けた。

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