第40話 馬場香織・八日目
今日はナミがやって来たので、落ち着いてパソコンに向き合うことが出来た。しかし、代わりに斎藤が全く姿を見せなかった。どうしてなのかとそわそわしていると
「ああ、先生はここに残っているもう一人の子に掛かり切りなの。ちょっと体調を崩しちゃったそうよ」
ナミがそう説明してくれたが、ちょっと寂しく思ってしまった。
今はもう一人の子が斎藤を独占している。それだけで、心が何だか重たくなってしまう。
「ねえ、その子も退院するの?」
嫉妬混じりに訊ねると、ナミが優しく微笑んだ。
「ええ。体調が良くなったのはあなたともう一人、ジュンだもの」
「えっ、ジュンなの?」
てっきりもう死んでしまったのかと思っていたので驚いたが、考えてみれば、大人のナミも生き残っているのだ。彼が死んでしまったと決めつけたのは悪かった。
「あっ、知ってるのね。じゃあ、お勉強が順調に進んだら、そのうち会わせてあげるね。ジュンも退院に向けて色々と勉強しているから。二人でやれるようにしてもらいましょう」
「う、うん」
ナミがそんなことを決めていいのと思ったが、斎藤から色々と任されているようなので、そういう決定もできるのだろう。退院して生きていくというのは、何かを任されることもあるということか。
「なんだか大変だな、退院って」
思わず香織がしみじみと呟くと、ナミは笑顔でそうねと同意してくれた。やはりナミも色々と苦労したのだろうか。
「それはもちろん。私ってここが出来る前から病気で、ずっと病院にいたの。だから知らないことばっかり。全部一から覚えなきゃ駄目で、世の中の大人ってこんなに大変なのって驚いたわ」
「本当に?」
「そう。全く知らないっていうのは同じなのよ。だから安心して」
「うん」
記憶があっても困ることがあるのか。それは香織を少し勇気づけてくれた。そして、ナミが出来たのだから自分も頑張らないと、と張り切ってしまう。
「やる気が出たみたいね」
「うん」
「それに、そうそう。昔の記憶を無理やり覚える必要はないのよ」
「えっ」
ナミはそう言うとにこっと微笑む。
「だって、あなたはあなただもの。前がどうだったって気にする必要ないんじゃないかな。斎藤先生は知りたいだろうと思って入れたんだと思うけど、辛いんだったら読む必要はないわ」
「ああ、うん」
ナミは昨日のことを斎藤から聞いているのか。しかし、自分の無くなってしまった記憶がそこに書かれているのだ。やはり読まずに済ますというのは気持ちが悪い。
「解った。じゃあ、これだけプリントアウトしておいてあげる。それで、退院してゆっくりしてから読むっていうのはどう? そうすれば、他の勉強に集中できるでしょ」
「そ、そんなことできるの」
「もちろん。じゃあ、それでいいわね」
「うん」
ナミがいると、何でもとんとん拍子に進む。香織はやっぱり心強いなとほっとしていた。そして、また色々なことを勉強していくことになる。
「外では、一人暮らしになるんだ」
しかし、読み進めていくうちに心配事がまた出てきた。どうやら香織の家族はもういないそうで、退院後は病院が用意してくれたアパートで一人暮らしになるという。
「大丈夫よ。すぐに慣れるわ。料理や掃除とか、最初は戸惑うかもしれないけれど大丈夫よ。それに、ここにいたってほとんど一人で過ごしていたでしょ。それの延長よ」
「そうね。部屋の中は一人だったか」
それほど気張るものではないかと、香織は頷いた。ただ、家電というものに触れた記憶がないので、それだけが心配だ。
「家電ってどうやって動くのかしら。そこからして解らないのよね」
香織はこれが不安だなあとナミに訊ねてみると、ナミは談話室にあったストーブの前に香織を導いた。
「電気はここから供給されているのよ。コンセントはこれよ。ここに、こうやって差し込むの」
ナミは一度ストーブのコンセントを抜き、そしてもう一度刺して見せた。とても簡単で香織は驚いてしまう。
「たったこれだけ」
「そう。後はスイッチを入れればオッケーよ。ほら」
ナミがスイッチを入れると、温かい風がストーブから出てくる。なんとも不思議だった。
「うわあ。世の中、不思議なことばかりだわ」
「そうね。そして、とっても広いわよ」
「まあ。楽しみ」
「そう、楽しいことが一杯あるわ」
ナミは香織の頭を撫でながら、にっこりと微笑んでいた。
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