第35話 馬場香織・七日目

 今日はナミが来れなくなったというので、一人でパソコンと向き合うことになった。

 退院するためには、ここに入っている必要な資料を読む必要があるというので、香織はさぼることなく読み進めていた。

「病院の中しか知らないから、外で生活するのってこんなに大変だとは思わなかったなあ」

 事細かに書かれている、社会で生活していくための知恵や知識に、香織は目が回りそうだった。しかも、事故のせいで記憶がないせいので、どれもこれも香織には目新しいことばかりで困ってしまう。

「将来の夢、か」

 そして、最も困るのがこれだった。

 病院を出て生きていくということは、自分で何でもやらなければならないということだ。その中にはお金を稼ぐことも入っている。しかし、まず医者や看護師といった病院関係以外に具体的な職業すら思い浮かばない香織には、何をすればいいのか解らなかった。

「ううん。将来にやりたいことを決めて、それに合わせて働くところを紹介してくれるって書いてあるけど、どうしよう」

 香織は頬に手を当てて考えたが、やはり何も思い浮かばなかった。そもそも、つい数日前までは死を覚悟していたのだ。急に何をやりたいかと訊かれても困る。

「まあいいや。他のところを読んでからで」

 社会に出てからの色々な情報の他にも、このパソコンには事故に遭う前の馬場香織の情報も入っている。これを読んで思い出すことがあれば、ひょっとしたらやりたいことも見つかるかもしれない。

「っつ」

 そう思ったのに、なぜか馬場香織についてのファイルを開こうとすると、動悸がしてクリックできなかった。

 さっきもそうだ。だから、生活に必要なことを読んでいた。しかし、これ以上の部分を読み進めようと思うと、やはり自分を知らないままには出来ない。

 なのに、なぜかそれを拒んでしまう自分がいるのだ。

 理由は解らない。でも、これを見てしまったら自分が自分ではなくなるような、そんな気がしてしまうのだ。今まで生きてきたことを否定されるような、実際は違う自分がいることを見せつけられるような、そんな気がしてしまう。

「大丈夫よ。これは自分が生きてきたことなんだから」

 そう言い聞かせるものの、やはりクリックできなかった。仕方なく、さらに他のファイル、この病院で受けた手術の履歴をクリックする。

「えっ」

 だが、こちらこそ見てはいけなかったのだと、見た瞬間に悟っていた。そこには香織が受けたことさえ覚えていない手術の履歴が羅列されている。

「ど、どういうことなの」

 記憶がないのは事故のせいのはず。だったら、これは事故に遭った直後に受けたものだろうか。しかし、こんなにあらゆる場所を手術する必要なんてあるのか。いやいや、それ以前に自分は病気だったのだろう。そうずっと思っていたではないか。

「ま、待って。私って一体」

 混乱していたからか、それまで見ることが出来ずにいたファイルを、香織はすぐにクリックしていた。そしてそこには、自分とは全く違う、元気な少女の写真があった。学校の制服を着ているから、これは中学校か高校の時の写真だろうか。

「これが、私」

 ますます混乱してしまう。こんなに元気だった子が、私だというのか。

 一体何をどう考えればいいのか。

 今まで退院できるとうきうきしていた気持ちは、一変して不安一色になっていた。

「大丈夫かい?」

「っつ」

 そんな時、肩をそっと掴まれて驚いたが、斎藤だと気づくとほっとした。しかし、訳の分からない事実を前に頭が混乱していて、何をどう言葉にすればいいのか解らない。

「少し休んだ方がいいね。ちょっと待って」

 斎藤はすぐに香織が見ていたパソコンをシャットダウンしてしまうと、そのパソコンを持って出て行ってしまった。

「わ、私」

 そんな斎藤を呆然と見送りながら、混乱している自分を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。これはよく、気持ちが悪くなった時もやっている。この病院で、自分が学んだことの一つだ。

 大丈夫。昔がどうであれ、どれだけ手術を受けていたって、自分は自分だ。ここにいる自分こそが馬場香織なのだ。

 でも、だとすればどうして、転院するまで自分の名前はカオリだったのだろう。

 元気だった自分は事故で記憶を失くし、ずっとこの病院にいた。

 では、あの元気な姿の自分と今の自分は同じなのだろうか。

 頭の中で疑問がぐるぐると渦巻いてしまう。と、そこに斎藤が戻ってきた。

「気分を落ち着けるためのお薬と、これ、ココア。飲んで」

「あ、ありがとうございます」

 香織は素直にまず薬を飲み、それから温かいココアに口を付けた。するとふっと心が軽くなるのを感じた。

「一気に詰め込み過ぎるのはよくないよ」

 斎藤はそう言って香織の背中を擦ってくれる。

「はい。でも、私、知らないことだらけで」

 自分のことも、外のことも、何一つ覚えていない。それがとても不安で仕方がない。香織は知らずココアの入ったカップをぎゅっと握り締めていた。

「記憶を失くした人は、誰だってそういうことを経験するんだ。でも、そのうち今の自分と前の自分を繋げて考えられるようになるよ」

「そ、そういうものですか」

「ああ。記憶喪失というのは、様々な原因で起こるものだからね。珍しいことじゃないんだ」

「はい」

 自分の状態が特別ではなくよくあることだと言われると、香織の気持ちもようやく普段の状態くらいには落ち着いた。しかし、退院できるとうきうきしていた気持ちは戻って来ない。

「少しの間、病室に戻ろうか」

「はい」

 再びパソコンに向き合うには時間が掛かる。香織は素直に頷くと、斎藤と一緒に病室に戻った。そしてすぐにベッドに潜り込んでしまう。

「私は、本当に馬場香織なのかしら」

 そんな疑問が口を突いて出たが、すぐに深い眠りに落ちていた。

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