第32話 小松潤・六日目その二

「あんたって、凄い先生ってことか」

「いいや」

「否定するか」

「ああ。俺の研究が成功したのは土屋先生のおかげだ。ナミを救うことが出来たのも、土屋先生のおかげだ。彼女とは昔から持ちつ持たれつの関係なんだよ。俺がここに関わるようになったのも、土屋先生がきっかけかな」

「ふうん」

 年齢は十ほど離れているはずなのに、斎藤は土屋に頭が上がらないということか。研究者の世界がどうなっているのか知らないが、不思議な関係に思えた。

「君の身体にも俺の作った血液が入っているんだよ」

 解ったような解っていないような顔をしている潤に向けて、斎藤は試すようにそう言った。それに、潤は僅かに顔を顰めたが

「まあ、そうだろうね」

 とだけ答える。

 一度死んで蘇ったこの身体は、ついこの間まで、ここが総てを隠蔽したまま閉鎖されるまで、好き勝手に実験に使われていたのだ。当然、斎藤の研究だって行われていただろうと、そう考えるのは自然なことだ。

 それに今、斎藤は手術で血液が必要だということを真っ先に挙げた。ということは、ここでの手術では常に斎藤が作った血液が用いられていたのだろう。そうすぐに思いつく話だった。

「君には真相を総て知ってもらいたい。他に質問はあるかい」

 理解力があると見て取った斎藤は、時間が許す限り潤の質問に答えることにした。カオリとの対応を変えているのは、ジュンがすでにこの研究所に対して疑問を持っていたからだが、話が解るとなれば、どんどん知識を入れてやるのがいい。

「そうだな。iPS細胞で血液を作るってどうやるんだ?」

 何か質問と言われてもまだ勉強し始めの潤は、とりあえず斎藤の研究について訊ねた。

「血液を作る場合は造血幹細胞を作り出すことから始まるんだよ」

「造血幹細胞」

「ああ。造血幹細胞は血球系の細胞に分化可能な細胞のことだ。そこから赤血球や白血球といった必要なものを増殖させて人間に必要な血液へと変えていくんだよ」

 意外と手間暇のかかる分野だと斎藤は付け加える。血液と簡単に言っているが、その構成成分は様々だ。さらに一定の数値を保たなければ健康な血液とは言えない。地道な作業の繰り返しである。

「そうか。血液検査をやった時にあれこれ出てくるもんな」

「そう。血液には身体のあらゆる情報が乗っかっているからね。試験管の中でそういう情報を再現するのはとても大変なんだ」

「ふうん」

 そもそも血液が試験管で作ることが可能ということが、一般的な感覚から外れている気がする潤だ。とはいえ、潤にはその一般というものも解っていないから、あくまで感覚だ。

「臓器や脳を作り上げるにしても、最初にiPS細胞を刺激して作り始めるまでは簡単だ。しかし、それが人間に使えるようになるまでにするのが難しい。それだけ、人間の身体は複雑な構造をしているということだな」

「まあ、そうだろうな。iPS細胞って、細胞って言っているからには、めちゃくちゃ小さいわけだろ」

「そうだね。顕微鏡でなければ見えない」

「それが、脳や臓器や血液になるのかあ。考えれば考えるほど不思議だな」

「ああ。だからこそ、それを最初に作り上げた山中伸弥教授はノーベル賞を受賞したんだ」

「へえ。それってもう昔の話なのか」

「そうだな。二〇一二年の話だから、もうずいぶんと前に感じるな。十年一昔という言葉があるくらいだし」

「なるほど。で、その研究を基にして出来上がったのがここってわけ」

「非合法だし、秘匿されているがね」

「ああ。人道的ではなかったってことか」

「そうだ」

 ここまでぽんぽんと会話が噛み合うことに、斎藤は一種の感動を覚えていた。ジュンという検体が成功に近いことは解っていたが、ここまでとは思わなかった。これならば、世間がこの研究所を知ることになり、生き残った者たちがいることが明らかになっても、彼らが不当に差別されることはないだろう。

「なあ」

「ん?」

 自分の思考に没頭していた斎藤は、潤の不機嫌な声でようやく現実に引き戻された。

「あんたは結局何がしたいんだ?」

 潤は考え込んでいる斎藤のことがよく解らず、そう問い掛けていた。

 ここで血液の研究をしていたというのならば、その非合法で非人道的なことにも手を染めていたことになる。しかし今、ここであったことを明らかにしようとしている。それは矛盾だ。

「何がしたい、ね。土屋先生がやり残したことをやり遂げるだけさ」

「えっ」

「じゃあ、また様子を見に来るよ」

 斎藤はそこでそそくさと出て行った。

 その様子が何だか引っ掛かる。そうだ、土屋が妹のことを話題にした時と同じだ。

「土屋の妹。まさか、ナミって奴か」

 ひょっとしてと思うと、居ても立ってもいられなかった。ジュンは斎藤が残したカルテを掴むと、何がどうなっているのか、必死にその中から答えを探し始めたのだった。

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