第6話 玖遠
時は少し遡り、
体中が痛い。あちこちに傷があり、出血している。
(なんで、こんなにけがしてるの? それにここは……。私は、一体なにをして――?)
自分が知らないことが多すぎて、玖遠は混乱する。
ざわりと、空気が揺らめいた気がした。この青白い空間には、自分しかいないはずなのに。
気配を感じて視線を上げると、そこには自分とまったく同じ姿の人物がいた。違うところといえば、髪と尻尾の色が紫黒色なところだけ。玖遠は、それが先ほどまで自分の中にいたものだと直感した。
「この状況は、貴女が招いたものね?」
確認するように問いかける。
「どうして私を……?」
玖遠がたずねる。ただ、手鏡がきれいだったから手にしただけなのに、どうしてこうなったのかと。
『……お前が純粋だったから』
自分が受肉するにふさわしいと思ったからだと、彼女が告げる。先ほどまでなんの感情もなかったその表情には、口角が不自然なほど上がった不敵な笑みが浮かんでいる。
彼女の笑みに恐怖を感じた。だが、逃げられないこともわかっていた。どうあがいても、自分と彼女は離れられないのだから。
ふと背後から呼ばれた気がして、玖遠は振り返った。そこには、弟の
「采牙!? どうしてここに?」
玖遠が驚きの声をあげる。
ここにいるはずがないのだ。この空間に入り口なんてものは、見当たらないのだから。
(あれは、本物の采牙じゃない。采牙じゃ、ない……)
玖遠は、必死にそう自分に言い聞かせる。
彼女の前にいる采牙は、間違いなく幻覚だ。この青白い蝶のドーム――蒼矢の術が見せているものである。
「姉さん」
と、優しく言って微笑む采牙の幻影。
彼の姿に、玖遠の心はぐらりと揺れる。本物ではないけれど、抱きしめてぬくもりを感じたい。ほんの少しだけでもすがってしまいたくなる。
そんな玖遠の心のすき間に入り込むように、呪いの思念体は音もなく彼女の背後に近づいた。
『……あいつはお前を嫌っている』
玖遠の耳元で呪いがささやく。
「――っ!? 嘘よ、そんなの!」
振り払うように振り向く玖遠。だが、そこには誰もいなくて、あざ笑うような笑い声が響く。
『嘘ではない。ほら、今もお前を見下している……』
ねっとりと絡みつく言葉に、玖遠は思わず耳をふさぐ。だが、その声は、頭に直接響いてくる。
助けを求めるように采牙に視線を向けるが、彼は微笑んでいるだけだった。
『お前は、采牙に嫌われている。憎まれている。妬まれている。疎まれている』
楽しそうに言葉を紡ぐ呪いの声は、次第に大きくなっていく。
違う! そんなはずはないと否定をくり返しても、呪いの声は止むことがない。
初めはそんなまやかしには屈しないと思っていた玖遠だったが、呪いの言葉を浴びれば浴びるほど心にひびが入る。やがて、それは大きな亀裂になって。
「采牙……助けて」
涙を浮かべながら、玖遠は弟の幻影に助けを求めた。しかし、采牙は冷めた目で彼女を見つめる。相変わらず微笑みは崩さない。
「采牙……!」
救いを求めて手を伸ばすも、目の前の弟はそれに応じることはなかった。代わりに、いつの間にか作り出した刀を玖遠に突きつけた。
「采、牙? なんでそんなもの……。嘘だよね?」
突然の殺意に、玖遠の思考は追いつかない。
采牙は、彼女の問いに答えることなく、ただ静かに冷たい殺意を突きつけたままだ。
そんな状況に、呪いの思念体は笑い出した。本当に楽しそうに、うれしそうに。玖遠の自我が完全に崩壊すれば、彼女の肉体が完全に自分のものになると確信しているのだ。
「うるさい、うるさい、うるさいっ! 采牙は……私の弟は、こんなことするはずない!」
だから、目の前にいる人物は采牙ではないと、呪いの声をかき消すように声高に叫ぶ。それは、玖遠自身に言い聞かせているようにも見えた。
だが、目の前の人物は弟と同じ笑顔で、同じ声で自分を呼ぶ。玖遠は気が狂いそうだった。いや、すでに気が狂っているのかもしれない。自分に言い聞かせ続けなければ、彼を本物の采牙だと認識してしまうのだから。
「采牙……お姉ちゃんのこと、嫌いじゃないよね?」
すがるようにたずねる玖遠。その目には、あふれそうなほどの涙が浮かんでいる。彼女の瞳にわずかに宿っている光は、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
「うん。俺、姉さんこと好きだよ」
微笑んで、そう采牙は告げる。
彼の言葉に、玖遠は心底救われたような表情を浮かべた。だから、次に続く言葉の意味が本当にわからなかった。
「だから、死んでよ」
優しい微笑みを崩すことなく、そう言い放ったのだ。
「……え……?」
その一言で、玖遠の思考までも停止してしまった。
イマ、ナンテイッタノ……?
信じられなかった。いや、信じたくなかった、理解したくなかっただけかもしれない。弟と同じ顔で、同じ声でそんなことを言うなんて。
たとえ彼が偽物だったとしても、玖遠の心を引き裂くには充分だった。
遠くで呪いの嘲笑が聞こえる。だが、うるさいと声をあげることもできない。
「……さよなら、姉さん」
冷たいまなざしでそう告げると、采牙は刀を振り上げた。
(私……このまま死ぬの……?)
振り上げられる凶器を見つめながら、ぼんやりと考える。
采牙に、本当に憎まれて敵意を向けられるならしかたないとも思う。けれど、彼は自分を好きだと言ったのだ。
(……嫌だ、死にたくない!)
意味のわからない理由で死にたくなんかないと、玖遠は強く思った。その瞬間、今まで重かった身体が軽くなった気がした。
無慈悲な刃が振り下ろされる。だが、玖遠はとっさに妖気で鎖を作り出し、刀に巻きつける。
「――っ!?」
これには、采牙も驚きを隠せなかった。呪いにいたっては、耳障りだった嘲笑をやめている。
一瞬、采牙はあざけりを含んだ冷笑を浮かべると、鎖を引きちぎろうと刀に力を込めた。
玖遠も必死に抵抗する。金属同士が擦れあう嫌な音が響く。
どれくらいそうしていただろう。ふいに、采牙が刀を離した。
「きゃあっ!」
悲鳴をあげて、玖遠はバランスを崩し尻もちをついた。その拍子に、先ほどまで采牙が持っていた刀が玖遠の手元に飛んでくる。
玖遠がその刀の柄をなんとかつかむと、采牙が新たな刀を作り出して襲いかかる。だが、刃が彼女を捉えることはなかった。
襲いかかる弟に、固く目を閉じた玖遠が思わず刀を突き出したのだ。
生々しい感触に、玖遠はおそるおそる目を開ける。自分が持つ刀の刃が、彼の身体を深々と貫いていた。
声にならない悲鳴をあげると、玖遠は刀の柄を離した。手が小刻みに震えている。
ゆっくりと視線を上げると、苦悶に表情を歪ませる采牙と目があった。心臓が跳ね、罪悪感に胸が締めつけられる。うまく呼吸ができない。
表情を歪ませていた采牙が、ふと優しい微笑みを浮かべる。なにか言いたげに口を開いたが、言葉を紡ぐことなく霧散消滅した。
突然消えてしまった弟と彼を手にかけてしまったという事実が、玖遠の心に重圧を与える。
「あ……ああ……あああああああああああ!」
その重圧と絶望に耐えかねて、玖遠は泣き崩れた。
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