第27話 エピローグ 空の旅
『アルト姉、行っちゃうの……?』
悲しそうにうるうるとうるんだ眼差しで見上げながら服の裾を掴むラクラの姿を思い返し、女はふぅと憂鬱そうに溜息を吐いた。
全裸で少女ふたりを抱えるという異様な姿で村へと戻った女はもちろん遠巻きにされ、後から絶対正義が正教会の名のもとに身分を保証してなお恐怖や拒否感の対象だった。服を頂戴できただけ奇跡である。
そんな中でラクラの両親だけは女へと温かい言葉をくれて、事情は分からないまでも身を案じてくれた。そしてラクラは別れを惜しんで涙さえ流し、その姿は女の胸を強く打ったものだ。
女はずいぶんと長い間彼女たちと過ごしていたような気がしていた。
それほどまでにあの村での生活は胸に残っている。
なにげない平穏な日々という、彼女がこれまでの人生でおよそ初めて体験したあのひと時は、これからも特別な思い出となるだろう。
―――そんな寂寥をため息に乗せ。
都合三回目となる回想もそろそろやりすぎだろうと、女は見下ろしていた雲海から視線を転じる。
「列車に駅馬車に飛行獣車―――ここしばらくで随分たくさんの初体験があるのを喜ぶべきか憂うべきか悩ましいところだな」
そんな言葉は独り言として処理され、女はやれやれと退屈そうに肩をすくめた。
なにせ先ほどからオノは窓から眼下に広がる雲海を眺めるのに夢中で、空間の半分以上を独占してただただ佇む絶対正義に至っては純然たる無視である。
過去を回想するくらいしかやることがないが、あまりやりすぎても思い出の特別感が薄れそうで気が進まない。
だから女は結局また窓から空を見下ろした。
―――正教会の所有する飛行獣車に、女とオノは乗っている。
教会の破壊や神への冒涜的発言によって連行されているわけではない。
行き先は東方―――女とオノの目的地でもある共和国領、その沿岸都市アクアス。
もともと飛行獣車などという大層なものを引っ張り出してきたのは女のためだけではなく、絶対正義もまた共和国領に用があるのだという。もののついでということでそれに同乗しているというわけだ。
せっかくなら南方の森林帝国に寄ってくれと厚かましくも放った要求は当たり前のように拒否されたものの、共和国領から森林帝国までの足を用立ててはくれるらしい。
もしかすると殴りすぎて脳がうまく再生できなかったのではないかと女は疑っている。そんなことを口にすれば問答無用で叩き落されそうなので大人しく喜んでおいたが。
「……そういえば絶対正義よ。なぜわざわざ共和国領へ行くのだ。自称大司教というぐらいなのにずいぶんと遠出だが、海水浴でもするのか」
長らくの沈黙のうちにいくつもの葛藤を経てようやく諦めのついた女が、それでもなおついつい憎まれ口を混ぜながら絶対正義に話しかける。
彼はちらりと視線を返し、ぎち、と牙を鳴らした後に口を開いた。
「匂うのだ。彼の地には―――悪がある」
「冗談だろう」
まさかこんな同時期に英傑がふたりも生まれてたまるかと女が声を上げれば、絶対正義は緩やかに首を振って視線を細める。
「貴様とは違う。此度のそれは邪なる悪よ」
「悪が邪でないことなどあるものかよ」
「―――噂が、あるのだ」
絶対正義の視線が窓の外を見やる。
雲の隙間に、青く煌めく海が見え始めていた。
「死者が蘇り人を襲うという噂よ。現実にいくつかの村がすでに害を被っている」
「それはまた、なんとも奇怪な話だな」
被害があるという点については女としてもあまりいい気分ではないが、それはそれとして、よりにもよって吸血鬼がそんな噂を口にするのだから滑稽でさえある。
例えば
そんなものは、その是非はともかく、世界中で時折発生する事件のひとつに過ぎない。
しかし絶対正義はなおも視線を鋭くしたままだった。
「単なる『奇怪』に非ず。匂うのだ。大いなる邪悪の悪臭が」
「ふむ」
しょせん通過点とはいえ、今から赴こうという国に対してそんなに不穏なことを言わないでほしいと女は思う。
厄介ごとには首を突っ込みたくないのに、ここのところは突っ込むまでもなく厄介ごとが飛んできたり跳んできたりとひっきりない。
「まあ、貴様のその軍用犬並みの鼻があればそう手間取ることもないだろう。勝手に処理してくれ」
女はそう言って絶対正義から視線を外す。
なにせ彼は、遥か彼方から英傑の誕生を感知して追走してきたほどなのだ。
もしかしたら教会もそれを見込んで絶対正義をよこしたということなのかもしれないと女は思った。それが彼にとっての悪であるのなら言わずともやる気を出してくれるのだからこれ以上のうってつけはない。
いずれにせよ自分には関係のないことだと女は気にしないことにして、今度はオノにちょっかいをかけてはウザがられるのだった。
「……竜の加護持つ者は災いの渦中に誘われる定め―――
絶対正義の不穏なつぶやきは、窓の外で吹きすさぶ風の音にかき消された。
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