南北朝

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑧南北朝

 というわけで、南北朝なんぼくちょう時代です。


 しんかん、そしてずいとうという二つの統一期の隙間に横たわる、四百年に渡る長い乱世を三部作で語った人がいました。


 まだ残っていた漢代の遺産を食い潰していた第一部「三国さんごく西晋せいしん

 残っていた秩序も崩壊し、暴力が支配する無法な世界で、新たな秩序を手探りで探していた第二部「五胡十六国ごこじゅうろっこく

 そして混沌の中から次の時代へと向かう新秩序が徐々に固まり始めていた第三部「南北朝」


 次の統一へと向かう最終章となるわけですが、まだまだ二百年近く残っている時点で色々とお察しですな。簡単にはいきません。




 一時は華北かほくを統一した苻堅ふけんの秦(前秦ぜんしん)ですが、華南かなんで守りを固めていた東晋とうしんに歴史的な敗北を喫して大分裂を起こしました。

 そうして分裂した華北が、後燕こうえん慕容垂ぼようすい後秦こうしん姚萇ようちょう後涼こうりょう呂光りょこうという三人の有力者を中心に、周辺の小国という勢力図に変わった事は前項で話した通りです。

 そんな三者から、取るに足らない小国として扱われていた周辺国の中から、まさか次の覇者が出るとは誰も予想していなかったでしょう。


 それは、現在の内モンゴルにあたる砂漠地帯を領土に、「だい」という国を建てた鮮卑せんぴ族の拓跋珪たくばつけいです。燕の慕容垂と同じ鮮卑族ですが、姓が違う事からも分かる様に別の部族(氏族)です。

 初めこそ弱小でしたが、匈奴きょうど系部族である独孤どっこ部を味方につけて勢力を増強しました。ちなみにこの独孤という一族は、後に隋・唐の双方の建国者を支える事になるという、まさにキングメーカーの一族です。


 さて、この拓跋珪ですが、北方の砂漠地帯にいながらも、いずれ南下して中原を取る気が満々だったのか、徹底した漢化政策を行い、昔ながらの遊牧民族の部族社会からの脱却を図りました。

 その過程で国号を「」と定めます。戦国七雄の魏や、三国時代の魏(曹魏)、虐殺者・冉閔ぜんびんが一瞬だけ建てた魏(冉魏)などと見分ける為、後世の歴史の上では「北魏ほくぎ」と呼ばれます。

 ちなみに同時代でも、華北の有象無象の中に翟遼てきりょうという人物が建てた魏(翟魏)もありました。


 急速に漢人文化を取り入れる一方で、後継者争いを防ぐ為に「皇太子に選ばれたら生母を殺さなければならない」という、漢人の儒教社会からしたらとんでもない大罪と言えるを皇位につく者の掟と定めました。


 またこの拓跋珪は暴君的な側面があり「部下の着てる服が豪華なので調子に乗ってると思った」とか、「呼吸が荒い」「言葉遣いが悪い」「歩き方がおかしい」など、些細な理由で親族も含めた家臣たちを殺害していました。


 色々と狂っていますし、後年に彼は自分の息子に殺されるという最期を遂げるのですが、そうした粛清によって、反乱分子の離脱や、自身の死後の分裂を防いだ一面もあります。


 中央アジアからモンゴル高原を通って流れて来る、柔然じゅうぜん高車こうしゃといった別の騎馬民族との戦いを繰り広げながら拓跋珪が力を蓄えている間に、華北にいた三人の有力者、慕容垂、姚萇、呂光は全員が没し、後継者争いでその領土が更に大分裂しました。


 地図だけ観れば、気が付けば北魏が独り勝ちです。

 その期を逃さず拓跋珪は南下を開始した……、というわけです。




 一方で華南ですが、淝水ひすいの戦いで苻堅の大軍を打ち破った救国の英雄・謝安しゃあんが亡くなると、東晋は一気に滅亡への道を辿ります。

 第九代・司馬曜しばよう孝武帝こうぶてい)は政治を省みず遊んでばかりのまま没し、その長男の司馬徳宗しばとくそう安帝あんてい)は重度の知的障害を持っていた為、その期間は皇族である会稽王かいけいおう司馬道子しばどうしが政権を握ってやりたい放題。


 領地内では、そんな乱れた治世に怒りが爆発し、道教教団である五斗米道の孫恩そんおんが大反乱を起こします。

 さらにその混乱に乗じて、かつての鼎立時代に簒奪を企てた桓温かんおんの息子・桓玄かんげんが挙兵し、都に攻め込みます。

 桓玄は司馬道子を殺害して、皇帝・司馬徳宗を廃すると、帝位について「」を建国しました。


 しかしそんな桓玄の暴挙に対し、晋室復興の大義を掲げて、少人数で決起した者がいます。


 その名は劉裕りゅうゆう


 無名の家から出た叩き上げの軍人ですが、劉姓からも分かる様に漢の皇族の血を引いていると言われていました。

 彼の軍人としての能力ですが、「自分の部隊が全滅した時、ひとりだけ生き残り、自分独りで敵軍を壊滅させた」などのが残っています。この辺は眉唾ですが、少なくとも劉裕が軍事的に強かった事は間違いありません。

 少ない兵力で何倍もの楚軍に連戦連勝しました。


 そんな彼の元には、旗揚げから諸葛長民しょかつちょうみんという将もいました。

 劉姓と諸葛姓で「没落した皇室の再興」を大義に掲げて少数で決起とか、を思い出して熱くなりますね!


 そうして一気に桓玄を倒し、楚を秒で滅ぼした劉裕は、ついでに五斗米道の反乱も大掃除しました。

 その後に例の知的障害を持っている司馬徳宗を帝位に戻した後、すぐにし、代わりに司馬徳文しばとくぶん恭帝きょうてい)を擁立すると、直後に禅譲を受けました。(もはや簒奪と何が違うのか……)


 皇帝となった劉裕は「そう」(漢じゃないのか……)を国号にして華南をその手に収めます。

 ちなみに春秋時代の宋や、後の時代の統一王朝の宋(北宋ほくそう南宋なんそう)と区別する為に、この劉裕の宋は歴史の上では「劉宋りゅうそう南朝宋なんちょうそう)」と呼ばれます。


 やり方はどうあれ、挙兵時にを思い出した人は「劉姓と諸葛姓のコンビで、司馬一族の王朝を倒した!」と謎の感動があるかと思いますが、皇帝となった後の劉裕は建国に功のあった家臣を次々に粛清していき、その中には挙兵時から付き従っていた諸葛長民もいました。


 軍の要職には劉氏のみを就け、別姓なら古い仲間であろうと全く信用しないという感じです。

 を思い出していた人は白目になりますが、もっと前の時代のを思い出して、やはり血筋だなと……。


 「力こそ正義!」と言わんばかりに皇帝に成り上がり、ここに名門貴族が支配していた東晋から続く南朝が、叩き上げの軍人による軍事政権へとカラーが変わっていく事になったのです。


 華南を制した劉裕は、その眼をギロリと北へと向けるわけです。




 こうして、魏(北魏)の拓跋珪、宋(劉宋)の劉裕。そんな二人の「狂犬」によって大分裂していた華北は次々に飲まれ、その両者がぶつかる事によって、血で血を洗う「南北朝」が始まったのです。




 この南北朝、どうして三国時代や五胡十六国時代よりも長く睨み合っていたかと言えば、良くも悪くも国土が安定して住み分けがなされてしまい、双方ともに天下としての意識、統一指向が薄くなっていたとも言えます。

 戦いがあっても国境での小競り合いくらいで、北朝と南朝ではむしろ内部での政権争いが続き、利用できそうな時に利用する「隣国」という意識になっていたと言えますね。




 さて、天下の勢力図が実際に二国に絞られる頃には、建国した二人は没して代替わりしていました。しかしどちらの国も、良くも悪くも初代の気風をそのまま受け継いでいます。


「表向きは漢化したけど、その中身は蛮族のままな鮮卑族の北朝」

「儒教秩序が弱まり、半分蛮族みたいな軍人が仕切る漢人の南朝」


 この中身を維持したまま、南北それぞれで血みどろの歴史が紡がれたわけですね。




 北魏では拓跋珪の始めた漢化政策が継続しており、漢人である崔宏さいこうを重用して漢人文化の浸透を図っていました。拓跋珪が亡くなった後も、そんな崔宏の息子である崔浩さいこうが宰相にまで登っていました。

 後に「北朝の統治制度は、ほとんど崔氏親子で作り上げた」とまで言われるほどの大活躍をしました。


 しかし国史編纂を任されていた彼はあまりにも儒教的な中華思想が強く、うっかり「野蛮だった鮮卑は、漢人文化を取り入れ、この国ではすっかり文明人に生まれ変わりました」みたいな書き方をしてしまい、皇族を始め鮮卑武人たちが激怒。

 同じ頃に南朝(劉宋)で劉裕が劉氏以外の者を締め上げていた事もあって、そうした漢人の官僚や貴族が北魏に亡命。それによって政治を担う漢人の数が増えており、不満を溜めていた鮮卑人たちが一気に爆発したという見方も出来ます。

 こうして崔浩を始め大勢の漢人官僚が殺戮されるという事件が起こりました。(国史事件)


 この事件によって北魏とその先祖に関わる史料の多くが残っていないという、後世の研究家にとっては悲しい状況になってしまいました。


 ちなみに同じ頃、崔浩の進言によって仏教弾圧も起こっていたのですが、この崔浩の失脚(というか処断)によって弾圧も徐々に収まり、華北の仏教文化は発展したので、その辺は明暗が分かれています。




 一方で南の劉宋では、初代劉裕の遺訓によって軍部から名門貴族を締め出しましたが、政治中枢は未だに貴族たちが押さえており、特に淝水の戦いで活躍した謝安の子孫である陽夏ようか謝氏など、未だに強い影響力を持っていました。


 途中で第三代・劉義隆りゅうぎりゅう文帝ぶんてい)のように、軍部と貴族をまとめられる名君も出ました(元嘉げんかの治)が、それ以外は基本的に暴君・暗君のオンパレードなので、軍部と門閥貴族の間で外戚政治の取り合いとなったまま、いつしか子が親を殺し、弟が兄を殺すという凄惨な状況が繰り返され、漢人社会の南朝から儒教秩序が廃れていきました。


 ただ一方で「六朝りくちょう文化」という文化面での発展もあり、陶淵明とうえんめい謝霊運しゃれいうんなど、多くの文学者や詩人は、この時代の貴族から出ています。


 さて、貴族と対立する軍部の中でも、北魏との戦争で功績を挙げた蕭道成しょうどうせいという叩き上げの軍人が、皇族同士の反乱の隙間に入り込んで力を上げる事になります。

 あまりにも力を持ちすぎた蕭道成を抹殺しようとした第七代皇帝・劉昱りゅういく後廃帝こうはいてい)は、逆に蕭道成に返り討ちにされ、蕭道成によって擁立された第八代・劉準りゅうじゅん順帝じゅんてい)は、秒で蕭道成に禅譲を迫られて劉宋は滅びます。

 ようするに劉宋は、初代・劉裕が東晋を滅ぼした時と、ほぼ同じ経緯で滅びたわけです。


 そうして蕭道成は「せい」を国号にして南朝の新たな皇帝に即位します。


 劉裕とほとんど同じ経緯で皇帝に即位したにも関わらず、蕭道成は子孫たちに「劉宋の皇族みたいな間違いはするんじゃないぞ」と遺言して世を去ります。(見事なフラグ……)


 第二代・蕭賾しょうさく(武帝)は、貴族たちに対抗する為に「恩倖おんこう」と呼ばれる無名の者を文官として重用する制度を始め、これは大商人が中心でした。現代風に言えば、大企業のトップや資本家を政治の中枢に招いた感じです。

 しかしこれによって一部の商人たちが徴税権を操れるようになり、その結果として国内の民衆はバンバン吸い上げられ一部に富が集中。国家の経済はむしろ弱体化します。

 さらに軍部、貴族に対して、恩倖(商人勢力)という第三勢力まで生んでしまいました。


 明らかなやらかしですが、それでもこの蕭賾は「南朝斉ではトップの名君」と呼ばれている事からも、この後の世代の絶望が伝わるかと思います。


 第五代・蕭鸞しょうらん明帝めいてい)は、自分で命じて従弟や兄弟を片っ端から殺害しておきながら、その葬儀の席で号泣しながら焼香をするサイコっぷり。その息子の第六代・蕭宝巻しょうほうかん東昏侯とうこんこう)は、父帝の葬儀の間、ずっと大笑いし続けるなど、もう、何なのコイツら……。


 なお、その蕭宝巻(史書の記述が全て本当なら、神話時代の傑王けつおういん紂王ちゅうおうを超える、世界史トップクラスの残虐非道な暴君)がやりたい放題やった結果、皇族の中でも分家筋にあたる蕭衍しょうえんが挙兵してこれを討ちとり、第七代・蕭宝融しょうほうゆう和帝わてい)を擁立します。


 その後、蕭衍は間もなく皇帝・蕭宝融に禅譲を迫り、斉は滅亡しました。(またこのパターン……。南はダメだ……)


 とにかくこうして蕭衍が南朝の皇帝に座り、国号を「りょう」としました。この蕭衍(武帝ぶてい)の在位期間は半世紀にも渡り、屈指の名君として、ようやく南朝が安定しました。




 さて、南朝が宋、斉、梁と三度も国号が変わっている間、北は安定して魏のままでした。(おぉ!?)


 しかし初代の拓跋珪と同じく、歴代の皇帝はなかなかの蛮族バーバリアンムーヴをかまし続けます。弱い皇帝の時は(漢化の弊害か)宦官や外戚が権力を振るう漢人の王朝と同じパターン。かと言って強い皇帝の時は、家臣どころか妻や子供を平然と殺す暴君ばっかり。(北もダメかもわからんね……)


 この時代は南北とも日常的に人が死ぬんですが、強いて違いを挙げるとするなら、南朝は表向きは笑顔の紳士を装いつつも、マフィア映画的な暗殺劇と抗争が繰り広げられます。

 北朝はもっと直接的で直情的な、いわば西部劇や海賊映画みたいな事を平然と宮中でやる奴ばっかりな感じです。


 宗愛そうあいという宦官が、始皇帝時代の趙高ちょうこうに匹敵するレベルで北魏の国政を乱しますが、これは北魏の将軍たちの決起により「五刑を全て施される」とボカして記述され、恐らくミンチになりました。


 その後は外戚勢力と言える馮太后ふうたいごうが権力を握ってやりたい放題するのですが、この馮太后は政治手腕もかなりやり手で、税制改革や戸籍制度を整えた後、国史事件以前の崔氏親子以上の速度で漢化政策を推し進め、北魏の国力を立て直した中興の祖になりました。


 ちなみにこの馮太后が北魏の政治を仕切っていた頃に、ちょうど南朝では劉宋が滅びて蕭道成による斉が建国されています。かつて劉宋が建国された際と同様、身の危険を感じた南朝の貴族が北朝へ亡命する事も増えていた為、こうした漢化政策の爆発的な推進にもなりました。

 同じ時期に商人勢力を重用して国内の富を吸い上げてしまった南朝とは、こうして国力の逆転が起こるわけですね。


 ちなみにこの漢化政策の一環として、皇族の姓を拓跋からげんに改姓し、配下たちにも漢風姓名への改名を薦め、更に首都を洛陽に移したり、服装も漢人風の物に変えるように徹底させるほどでした。




 しかしそうした漢化政策の煽りを受けたのが「ちん」の勢力です。鎮とは、いわば北方砂漠地帯(漠北ばくほく)の防衛拠点の事であり、北魏がまだ漠北を領土にしていた頃は、何十もの鎮が置かれ、そこの責任者である軍人たちは重用されてました。

 しかし急激な漢化政策で軍人が軽んじられるようになり、鎮の数も減少。さらに洛陽に遷都したという事は、北魏の国土からすると南の彼方です。こうなると漠北の鎮は辺境となり、そこにいる軍人たちは出世街道から完全に外れる事になるわけです。

 しかも鎮のトップとして、都から偉ぶった文官が派遣され、賄賂を取るばっかりという状態になっていました。


 ここで何が起こるか、言わずとも分かりますね。漠北の鎮が一斉に蜂起する「六鎮りくちんの乱」が起こりました。


 この六鎮の乱が起こった時、都はまだ幼い皇帝を次々に挿げ替えて権力を維持していた霊太后れいたいごうが仕切っていた事も反乱の理由のひとつです。

 この六鎮の乱を平定したのは爾朱榮じしゅえいという将軍ですが、実は内心としては六鎮の連中と同じ思いでした。そのまま配下を率いて洛陽に乗り込み、霊太后を討って河に投げ込み、ついでに朝廷の官僚を二千人ほど虐殺します。(河陰かいんの変)




 そこからはとにかく混乱に次ぐ混乱なので、詳しくは関連人物でググっていただくとして……。

 要するに爾朱榮がやりたい放題したり、北魏の皇族が反発したりして相互に殺し合い、皇帝が立っては殺され、南朝である梁の蕭衍も軍を派遣したりして余計に混乱させ、気が付いたら爾朱榮も死んでいました。

 その後、爾朱榮の元配下が同時に皇帝擁立して相互に主導権争いをします。それまでも誰が皇帝か分からない混乱状態でしたが、同時に皇帝が……。


 それを勝ち抜いたのが、ともに爾朱榮の配下だった二人の軍人です。


 皇帝・元善見げんぜんけん孝静帝こうせいてい)を擁立して中原を平定した高歓こうかん

 皇帝・元宝炬げんほうきょ文帝ぶんてい)を擁立して関中かんちゅうに籠った宇文泰うぶんたい


 ちなみに両国とも「ウチこそ魏の正統」を掲げて、北魏の後継を名乗っていた感じなのですが、歴史上では、高歓の方を東魏、宇文泰の方を西魏と呼び、北魏は上記の混乱のどっか(諸説あり)で滅んだという認識ですね。実際にこの両国では皇帝の権力も権威もほぼありません。


 さてその頃、南朝では梁を建てた初代皇帝・蕭衍が老齢ながらまだ生きており、三国が睨み合いの形となりました。




 この三国状態をぶっ壊す事になるのが、北の高歓や宇文泰と同じく、爾朱榮の配下で猛将と言われた侯景こうけいです。


 将軍としてはかなりの戦上手で、ついていく部下も多いカリスマ性がありました。彼は兄貴分として慕っていた高歓と共に東魏の将軍となっていましたが、高歓の息子である高澄こうちょうが、建国の元勲を父の存命中から次々に失脚させていく動きをしていました。(この動きの理由に関しては諸説あります)

 侯景の有していた領地が、ちょうど西魏や南朝梁との国境に近かった事もあり、彼は敵国と内通する事になりました。


 侯景が最初に頼ったのは西魏の宇文泰ですが、領土を半分以上割譲しろと言われて訣別。しかし南朝梁の蕭衍は割譲を要求せずに主力レベルの援軍を出してくれる破格っぷり。

 しかし梁の援軍を得た侯景ですが、東魏にいた兵法の天才・慕容紹宗ぼようしょうそうの前に敗北し、侯景はそのまま梁へと逃げ延びます。


 敗北を喫した梁の蕭衍は、東魏の高澄と和議を結ぼうとします。

 この時点で高歓が没し、侯景を始め元勲をさんざん苛めていた高澄が権力を握っていたのです。

 これに困ったのが侯景です。ここで高澄と和議を結ばれたら、自分の身柄が東魏に送られるのではないか、ってなわけですな。


 実は梁の皇族は盤石ではなく、半世紀以上も玉座に居座る老帝・蕭衍を疎ましく思っている皇族もちらほらいたので、侯景は彼らを味方につけて一斉に決起、梁の都を襲撃します。(侯景の乱)


 しかしここで思わぬ苦戦となった侯景は、都での略奪や破壊を行います。そうして彼は遂に蕭衍を倒すと、更に反対勢力を次々に(もう開き直って)その領土もろとも焦土に変えていきます。


 そしてそんな侯景が名乗った称号は「宇宙大将軍うちゅうだいしょうぐん」です。そのネーミングには、梁の民も、旧知である東魏の高澄も目が点です。(知らんけど)


 そんな侯景は、傀儡の皇帝を二人ほど挿げ替えた後、禅譲を迫ります。そして国号を「漢」とし(何でや!?)皇帝を僭称。

 しかし彼は、梁の残党によってわずか数カ月で滅び去る事になります。その遺体は四肢をバラバラにされて晒されました。


 とにかくこの宇宙大将軍・侯景によって、南朝の都や各地の都市は破壊され、南朝三代かけても解決できなかった、軍部、貴族、商人の対立は、全てが灰になるという結末をもって一瞬で解決しました。

 この後も、南朝では国が乱立しますが、実質的に南朝の国力はここで壊滅しており、天下の趨勢は、北朝で皇帝すらも凌駕する権力を持つ高澄と宇文泰の勝負へと絞られます。


 南朝を一瞬でバラバラに壊滅させ、自らも一瞬で四散(物理)した宇宙大将軍が、その後の歴史に大きな影響を与えたわけですな。




 その南朝の方は、梁の将軍であった陳霸先ちんはせんが、皇族の蕭方智しょうほうち敬帝けいてい)からという恒例パターンでちんを建国します。この時代では陳が南朝の最大勢力ですが、もはや南朝最盛期ほどの国力はありません。


 梁の皇族である蕭詧しょうさつは、生き残りの為に西魏の後ろ盾を得て、梁の皇室を存続させて陳と対立します。西梁(南朝後梁)とも呼ばれますが、この西梁の存在が、後に南北統一の礎となるとは、誰も思っていなかったでしょう。




 さて一方で北朝である西魏と東魏。双方の擁立した北魏皇族の権威はほぼなくなっており、次の世代になると、さも当然のように両国とも禅譲という話になります。


 東魏の君主となった高洋こうようは禅譲を受けて「斉(北斉ほくせい)」を建国。

 西魏の君主となった宇文覚うぶんかくも、北斉に数年遅れて禅譲を受け「しゅう北周ほくしゅう)」を建国しました。


 北周は、君主である宇文覚がまだ十六歳の少年であった事から、従兄である宇文護うぶんごが実権を握ってやりたい放題しました。


 一方で北斉は、大将軍の斛律光こくりつこうや、皇族である高長恭こうちょうきょう蘭陵王らんりょうおう)などの名将を抱えて軍事的優位を保ちました。




 しかし、北斉は国内での政治闘争が激烈で国力を衰退させ、遂には外敵を防いでいた斛律光や高長恭を、政争によって殺してしまうのです。

 こうして軍事的な優位性も失った結果、北周はもちろん南朝の陳にさえ国土を奪われてしまう始末となりました。


 一方の北周では、宇文護の専横によって君主・宇文覚が暗殺されてしまったのですが、その息子の宇文邕うぶんよう(武帝)が逆に宇文護を排除し、自ら親政を開始しました。

 この時点で北斉は、既に主力であった斛律大将軍や蘭陵王を自らの手で葬っており、好機と見た宇文邕は北斉を一気に攻め滅ぼす事になるわけです。


 こうして北朝を統一した北周でしたが、それから間もなく武帝・宇文邕は崩御します。

 その息子である第四代・宇文贇うぶんいん宣帝せんてい)は、苛烈な暴君で、もうやりたい放題。一気に民心を失いました。

 そんな中で多くの臣民に信頼されていたのが外戚である楊堅ようけん隋国公ずいこくこう)です。


 この楊堅こそが、後漢が滅びてから四百年に渡る乱世を終わらせた、ずいの初代皇帝となるわけですが、これは次の枠「隋・唐」でまとめる事にしましょう。






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