南北朝
【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑧南北朝
というわけで、
まだ残っていた漢代の遺産を食い潰していた第一部「
残っていた秩序も崩壊し、暴力が支配する無法な世界で、新たな秩序を手探りで探していた第二部「
そして混沌の中から次の時代へと向かう新秩序が徐々に固まり始めていた第三部「南北朝」
次の統一へと向かう最終章となるわけですが、まだまだ二百年近く残っている時点で色々とお察しですな。簡単にはいきません。
一時は
そうして分裂した華北が、
そんな三者から、取るに足らない小国として扱われていた周辺国の中から、まさか次の覇者が出るとは誰も予想していなかったでしょう。
それは、現在の内モンゴルにあたる砂漠地帯を領土に、「
初めこそ弱小でしたが、
さて、この拓跋珪ですが、北方の砂漠地帯にいながらも、いずれ南下して中原を取る気が満々だったのか、徹底した漢化政策を行い、昔ながらの遊牧民族の部族社会からの脱却を図りました。
その過程で国号を「
ちなみに同時代でも、華北の有象無象の中に
急速に漢人文化を取り入れる一方で、後継者争いを防ぐ為に「皇太子に選ばれたら生母を殺さなければならない」という、漢人の儒教社会からしたらとんでもない大罪と言える母殺しを皇位につく者の掟と定めました。
またこの拓跋珪は暴君的な側面があり「部下の着てる服が豪華なので調子に乗ってると思った」とか、「呼吸が荒い」「言葉遣いが悪い」「歩き方がおかしい」など、些細な理由で親族も含めた家臣たちを殺害していました。
色々と狂っていますし、後年に彼は自分の息子に殺されるという最期を遂げるのですが、そうした粛清によって、反乱分子の離脱や、自身の死後の分裂を防いだ一面もあります。
中央アジアからモンゴル高原を通って流れて来る、
地図だけ観れば、気が付けば北魏が独り勝ちです。
その期を逃さず拓跋珪は南下を開始した……、というわけです。
一方で華南ですが、
第九代・
領地内では、そんな乱れた治世に怒りが爆発し、道教教団である五斗米道の
さらにその混乱に乗じて、かつての鼎立時代に簒奪を企てた
桓玄は司馬道子を殺害して、皇帝・司馬徳宗を廃すると、帝位について「
しかしそんな桓玄の暴挙に対し、晋室復興の大義を掲げて、少人数で決起した者がいます。
その名は
無名の家から出た叩き上げの軍人ですが、劉姓からも分かる様に漢の皇族の血を引いていると言われていました。
彼の軍人としての能力ですが、「自分の部隊が全滅した時、ひとりだけ生き残り、自分独りで敵軍を壊滅させた」などの伝説が残っています。この辺は眉唾ですが、少なくとも劉裕が軍事的に強かった事は間違いありません。
少ない兵力で何倍もの楚軍に連戦連勝しました。
そんな彼の元には、旗揚げから
劉姓と諸葛姓で「没落した皇室の再興」を大義に掲げて少数で決起とか、何かを思い出して熱くなりますね!
そうして一気に桓玄を倒し、楚を秒で滅ぼした劉裕は、ついでに五斗米道の反乱も大掃除しました。
その後に例の知的障害を持っている司馬徳宗を帝位に戻した後、すぐに始末し、代わりに
皇帝となった劉裕は「
ちなみに春秋時代の宋や、後の時代の統一王朝の宋(
やり方はどうあれ、挙兵時に何かを思い出した人は「劉姓と諸葛姓のコンビで、司馬一族の王朝を倒した!」と謎の感動があるかと思いますが、皇帝となった後の劉裕は建国に功のあった家臣を次々に粛清していき、その中には挙兵時から付き従っていた諸葛長民もいました。
軍の要職には劉氏のみを就け、別姓なら古い仲間であろうと全く信用しないという感じです。
何かを思い出していた人は白目になりますが、もっと前の時代の誰かを思い出して、やはり血筋だなと……。
「力こそ正義!」と言わんばかりに皇帝に成り上がり、ここに名門貴族が支配していた東晋から続く南朝が、叩き上げの軍人による軍事政権へとカラーが変わっていく事になったのです。
華南を制した劉裕は、その眼をギロリと北へと向けるわけです。
こうして、魏(北魏)の拓跋珪、宋(劉宋)の劉裕。そんな二人の「狂犬」によって大分裂していた華北は次々に飲まれ、その両者がぶつかる事によって、血で血を洗う「南北朝」が始まったのです。
この南北朝、どうして三国時代や五胡十六国時代よりも長く睨み合っていたかと言えば、良くも悪くも国土が安定して住み分けがなされてしまい、双方ともに天下としての意識、統一指向が薄くなっていたとも言えます。
戦いがあっても国境での小競り合いくらいで、北朝と南朝ではむしろ内部での政権争いが続き、利用できそうな時に利用する「隣国」という意識になっていたと言えますね。
さて、天下の勢力図が実際に二国に絞られる頃には、建国した二人は没して代替わりしていました。しかしどちらの国も、良くも悪くも初代の気風をそのまま受け継いでいます。
「表向きは漢化したけど、その中身は蛮族のままな鮮卑族の北朝」
「儒教秩序が弱まり、半分蛮族みたいな軍人が仕切る漢人の南朝」
この中身を維持したまま、南北それぞれで血みどろの歴史が紡がれたわけですね。
北魏では拓跋珪の始めた漢化政策が継続しており、漢人である
後に「北朝の統治制度は、ほとんど崔氏親子で作り上げた」とまで言われるほどの大活躍をしました。
しかし国史編纂を任されていた彼はあまりにも儒教的な中華思想が強く、うっかり「野蛮だった鮮卑は、漢人文化を取り入れ、この国ではすっかり文明人に生まれ変わりました」みたいな書き方をしてしまい、皇族を始め鮮卑武人たちが激怒。
同じ頃に南朝(劉宋)で劉裕が劉氏以外の者を締め上げていた事もあって、そうした漢人の官僚や貴族が北魏に亡命。それによって政治を担う漢人の数が増えており、不満を溜めていた鮮卑人たちが一気に爆発したという見方も出来ます。
こうして崔浩を始め大勢の漢人官僚が殺戮されるという事件が起こりました。(国史事件)
この事件によって北魏とその先祖に関わる史料の多くが残っていないという、後世の研究家にとっては悲しい状況になってしまいました。
ちなみに同じ頃、崔浩の進言によって仏教弾圧も起こっていたのですが、この崔浩の失脚(というか処断)によって弾圧も徐々に収まり、華北の仏教文化は発展したので、その辺は明暗が分かれています。
一方で南の劉宋では、初代劉裕の遺訓によって軍部から名門貴族を締め出しましたが、政治中枢は未だに貴族たちが押さえており、特に淝水の戦いで活躍した謝安の子孫である
途中で第三代・
ただ一方で「
さて、貴族と対立する軍部の中でも、北魏との戦争で功績を挙げた
あまりにも力を持ちすぎた蕭道成を抹殺しようとした第七代皇帝・
ようするに劉宋は、初代・劉裕が東晋を滅ぼした時と、ほぼ同じ経緯で滅びたわけです。
そうして蕭道成は「
劉裕とほとんど同じ経緯で皇帝に即位したにも関わらず、蕭道成は子孫たちに「劉宋の皇族みたいな間違いはするんじゃないぞ」と遺言して世を去ります。(見事なフラグ……)
第二代・
しかしこれによって一部の商人たちが徴税権を操れるようになり、その結果として国内の民衆はバンバン吸い上げられ一部に富が集中。国家の経済はむしろ弱体化します。
さらに軍部、貴族に対して、恩倖(商人勢力)という第三勢力まで生んでしまいました。
明らかなやらかしですが、それでもこの蕭賾は「南朝斉ではトップの名君」と呼ばれている事からも、この後の世代の絶望が伝わるかと思います。
第五代・
なお、その蕭宝巻(史書の記述が全て本当なら、神話時代の
その後、蕭衍は間もなく皇帝・蕭宝融に禅譲を迫り、斉は滅亡しました。(またこのパターン……。南はダメだ……)
とにかくこうして蕭衍が南朝の皇帝に座り、国号を「
さて、南朝が宋、斉、梁と三度も国号が変わっている間、北は安定して魏のままでした。(おぉ!?)
しかし初代の拓跋珪と同じく、歴代の皇帝はなかなかの
この時代は南北とも日常的に人が死ぬんですが、強いて違いを挙げるとするなら、南朝は表向きは笑顔の紳士を装いつつも、マフィア映画的な暗殺劇と抗争が繰り広げられます。
北朝はもっと直接的で直情的な、いわば西部劇や海賊映画みたいな事を平然と宮中でやる奴ばっかりな感じです。
その後は外戚勢力と言える
ちなみにこの馮太后が北魏の政治を仕切っていた頃に、ちょうど南朝では劉宋が滅びて蕭道成による斉が建国されています。かつて劉宋が建国された際と同様、身の危険を感じた南朝の貴族が北朝へ亡命する事も増えていた為、こうした漢化政策の爆発的な推進にもなりました。
同じ時期に商人勢力を重用して国内の富を吸い上げてしまった南朝とは、こうして国力の逆転が起こるわけですね。
ちなみにこの漢化政策の一環として、皇族の姓を拓跋から
しかしそうした漢化政策の煽りを受けたのが「
しかし急激な漢化政策で軍人が軽んじられるようになり、鎮の数も減少。さらに洛陽に遷都したという事は、北魏の国土からすると南の彼方です。こうなると漠北の鎮は辺境となり、そこにいる軍人たちは出世街道から完全に外れる事になるわけです。
しかも鎮のトップとして、都から偉ぶった文官が派遣され、賄賂を取るばっかりという状態になっていました。
ここで何が起こるか、言わずとも分かりますね。漠北の鎮が一斉に蜂起する「
この六鎮の乱が起こった時、都はまだ幼い皇帝を次々に挿げ替えて権力を維持していた
この六鎮の乱を平定したのは
そこからはとにかく混乱に次ぐ混乱なので、詳しくは関連人物でググっていただくとして……。
要するに爾朱榮がやりたい放題したり、北魏の皇族が反発したりして相互に殺し合い、皇帝が立っては殺され、南朝である梁の蕭衍も軍を派遣したりして余計に混乱させ、気が付いたら爾朱榮も死んでいました。
その後、爾朱榮の元配下が同時に皇帝擁立して相互に主導権争いをします。それまでも誰が皇帝か分からない混乱状態でしたが、同時に皇帝が……。
それを勝ち抜いたのが、ともに爾朱榮の配下だった二人の軍人です。
皇帝・
皇帝・
ちなみに両国とも「ウチこそ魏の正統」を掲げて、北魏の後継を名乗っていた感じなのですが、歴史上では、高歓の方を東魏、宇文泰の方を西魏と呼び、北魏は上記の混乱のどっか(諸説あり)で滅んだという認識ですね。実際にこの両国では皇帝の権力も権威もほぼありません。
さてその頃、南朝では梁を建てた初代皇帝・蕭衍が老齢ながらまだ生きており、三国が睨み合いの形となりました。
この三国状態をぶっ壊す事になるのが、北の高歓や宇文泰と同じく、爾朱榮の配下で猛将と言われた
将軍としてはかなりの戦上手で、ついていく部下も多いカリスマ性がありました。彼は兄貴分として慕っていた高歓と共に東魏の将軍となっていましたが、高歓の息子である
侯景の有していた領地が、ちょうど西魏や南朝梁との国境に近かった事もあり、彼は敵国と内通する事になりました。
侯景が最初に頼ったのは西魏の宇文泰ですが、領土を半分以上割譲しろと言われて訣別。しかし南朝梁の蕭衍は割譲を要求せずに主力レベルの援軍を出してくれる破格っぷり。
しかし梁の援軍を得た侯景ですが、東魏にいた兵法の天才・
敗北を喫した梁の蕭衍は、東魏の高澄と和議を結ぼうとします。
この時点で高歓が没し、侯景を始め元勲をさんざん苛めていた高澄が権力を握っていたのです。
これに困ったのが侯景です。ここで高澄と和議を結ばれたら、自分の身柄が東魏に送られるのではないか、ってなわけですな。
実は梁の皇族は盤石ではなく、半世紀以上も玉座に居座る老帝・蕭衍を疎ましく思っている皇族もちらほらいたので、侯景は彼らを味方につけて一斉に決起、梁の都を襲撃します。(侯景の乱)
しかしここで思わぬ苦戦となった侯景は、都での略奪や破壊を行います。そうして彼は遂に蕭衍を倒すと、更に反対勢力を次々に(もう開き直って)その領土もろとも焦土に変えていきます。
そしてそんな侯景が名乗った称号は「
そんな侯景は、傀儡の皇帝を二人ほど挿げ替えた後、禅譲を迫ります。そして国号を「漢」とし(何でや!?)皇帝を僭称。
しかし彼は、梁の残党によってわずか数カ月で滅び去る事になります。その遺体は四肢をバラバラにされて晒されました。
とにかくこの宇宙大将軍・侯景によって、南朝の都や各地の都市は破壊され、南朝三代かけても解決できなかった、軍部、貴族、商人の対立は、全てが灰になるという結末をもって一瞬で解決しました。
この後も、南朝では国が乱立しますが、実質的に南朝の国力はここで壊滅しており、天下の趨勢は、北朝で皇帝すらも凌駕する権力を持つ高澄と宇文泰の勝負へと絞られます。
南朝を一瞬でバラバラに壊滅させ、自らも一瞬で四散(物理)した宇宙大将軍が、その後の歴史に大きな影響を与えたわけですな。
その南朝の方は、梁の将軍であった
梁の皇族である
さて一方で北朝である西魏と東魏。双方の擁立した北魏皇族の権威はほぼなくなっており、次の世代になると、さも当然のように両国とも禅譲という話になります。
東魏の君主となった
西魏の君主となった
北周は、君主である宇文覚がまだ十六歳の少年であった事から、従兄である
一方で北斉は、大将軍の
しかし、北斉は国内での政治闘争が激烈で国力を衰退させ、遂には外敵を防いでいた斛律光や高長恭を、政争によって殺してしまうのです。
こうして軍事的な優位性も失った結果、北周はもちろん南朝の陳にさえ国土を奪われてしまう始末となりました。
一方の北周では、宇文護の専横によって君主・宇文覚が暗殺されてしまったのですが、その息子の
この時点で北斉は、既に主力であった斛律大将軍や蘭陵王を自らの手で葬っており、好機と見た宇文邕は北斉を一気に攻め滅ぼす事になるわけです。
こうして北朝を統一した北周でしたが、それから間もなく武帝・宇文邕は崩御します。
その息子である第四代・
そんな中で多くの臣民に信頼されていたのが外戚である
この楊堅こそが、後漢が滅びてから四百年に渡る乱世を終わらせた、
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