五代十国、宋、元

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑩五代十国、宋、元

 さて、五代十国に入る前に、今まで出してなかった別な民族を先に紹介しましょう。


 それは契丹きったん族(キタイ)です。


 こちらも北方騎馬民族、つまり胡族です。

 前漢時代に大勢力を築いた冒頓ぼくとつが率いる匈奴きょうどによって滅ぼされた東胡とうこの子孫のひとつとされます。その意味では三国時代に登場した烏桓うがん族や、五胡十六国、北朝、隋、唐と中華を席巻した鮮卑せんぴ族と同一の先祖を持つ事になるわけですが、登場はだいぶ遅れます。


 初めて契丹が史書に記録されたのが、五胡十六国の終わりごろ、後に北魏ほくぎを建国するだい王・拓跋珪たくばつけいと戦った事が記されていますね。


 その存在感を強めるのは唐の時代に入ってからです。


 もともと独立心が強いのか、唐に対して武周ぶしゅう時代や盛唐せいとう時代に、たびたび反乱も起こしています。

 盛唐時代に唐の将軍として契丹を鎮圧したのが、あの安禄山あんろくざんだった事もあり、安禄山が唐に反逆した安史の乱では逆に唐について北から攻め込んだりもしました。(唐よりも安禄山個人が憎いって、相当な事をしたんだろうな……)


 その安史の乱で唐の国力がガタガタになったのは前項の通りですが、その時期以降に周辺異民族への抑えが弱まり、西域の領土を回鶻かいこつ(ウイグル)や吐蕃とばん(チベット)に占領されたわけです。

 同じ時期に契丹もまた独立に向けて動いていました。


 それまでは一定任期の指導者を部族合議で選出する選挙制が取られていましたが、中華帝国に倣って王族が世襲する形へと変わったのです。

 その最初の王が、耶律やりつ阿保機あぼきです。


 ちょうど唐が黄巣こうそうの乱で乱れて来た事で、契丹は漢人の領土にも侵攻を開始。捕らえた漢人や、自分の意思で亡命してきた漢人を北へと移住させています。


 この流れの中で耶律阿保機が行った事は画期的な政策で、自分たちはあくまでも従来通りに移動式天幕で遊牧を続けつつ、政庁と役人を置いた城郭都市を作ってそこに漢人を定住させ農耕をさせるという、移動型遊牧民と、定住型農耕民の二元支配を行ったわけです。


 北魏から隋唐にかけての鮮卑のように、定住型文化への切り替え(浸透)を行わなかったわけですね。

 この方式は、後に中華に進出する蒙古もうこでも踏襲される事になりました。




 さて、話を唐の方に戻しましょう。


 黄巣の乱は、塩の密売人たちが起こした反乱でした。首都・長安ちょうあんを陥落させた時の首謀者が黄巣という名前だった事から、そう呼ばれています。


 この時は、黄巣軍が強かったというより、唐にやる気が無かったからとも言えました。

 何しろ皇帝である第二十一代・李儇りけん僖宗きそう)と宦官は真っ先に長安を脱出して蜀へと逃亡してしまい、城を守るはずの守備兵や近衛兵も一緒になって逃げてしまい、黄巣軍と正面から戦った部隊は、病人、老人、身寄りのない子供などが武器を持たされて無理矢理前線に送り出された……、という始末だったそうです。


 長安を陥落させたはいいものの、黄巣軍に政治能力は皆無で、その統治はメタメタだったそうです。

 しかし蜀へ逃げた皇帝一行は、単独で長安を取り返す事は出来ませんでした。


 そこで皇帝が援軍として呼んだのが、突厥とっけつ系部族である沙陀さだ族の首領で、独眼龍どくがんりゅうの異名を持つ李克用りこくよう。彼は黒づくめで揃えた精鋭騎馬部隊「鴉軍あぐん」を率いる猛将でした。

 そしてもうひとり、黄巣軍から唐に寝返った朱温しゅおんという男です。

 この二人の活躍によって、長安を取り戻し、黄巣の乱は鎮圧される事となりました。

 しかしこの二人、互いに相手を良く思っておらず、いつしか殺し合いにまで発展。不倶戴天の敵となってしまうのでした。




 そんな中で朝廷に取り入ったのは朱温の方でした。彼は朝廷から忠義を讃えられた事で朱全忠しゅぜんちゅうと改名します。

 李克用とその私兵である鴉軍は、戦争になれば非常に強力でしたが、政治や謀略には疎く、唐朝を味方にした朱全忠に政治的に出遅れてしまったわけです。


 しかし、もし正面から戦う事になってしまえば、李克用の方が圧倒的に強いです。その焦燥感から朱全忠はより多くの領土、より強い権力を求めるようになるわけです。

 一方で李克用も、朱全忠を何とか引きずり降ろしてやると闘志を燃やしていました。


 この二人の争いがエスカレートした結果、唐王朝はいつしか朱全忠の傀儡となってしまい、各地に配置された節度使せつどしたちが次々と独立してしまう事で五代十国の乱世が始まるのです。


 この流れは、後漢末に董卓とうたくが朝廷を牛耳った事で朝廷の権威が失われ、各地の州牧しゅうぼく州刺史しゅうししによる群雄割拠になっていった時とほとんど同じです。


 この五代十国という名称は、中央政権(国号)が五回変わり、その間に各地で独立国がおよそ十国に別れていたという意味です。


 まずは中央政権である五代の方を追っていきましょう。


 あ、ちなみに当時の日本では、聖徳太子しょうとくたいし遣隋使けんずいし以来、遣唐使けんとうしが派遣され続けていましたが、ちょうどこのくらいの時期になって菅原道真すがわらのみちざねが「もう遣唐使やめましょ……」と天皇に上奏しました。

 どう考えても「そりゃまぁ、そうだろう」としか言えませぬ。




 さて、李克用率いる沙陀族は、かつて北魏が立った晋陽しんよう周辺を本拠としていました。しかし戦場では李克用に勝てない朱全忠も、謀略や戦略といった面では勝っており、黄河流域や大運河など水運が利用できる土地を全て押さえ、李克用を北方に封じ込めました。


 その過程で朱全忠は、宦官を皆殺しにし、都も長安から洛陽に遷都させ、皇帝のすげ替えを行い、門閥貴族層であった高級官僚も皆殺しにして黄河に沈め……と、やりたい放題していたら、気づけば禅譲(のち殺処分)までやってました。

 ここに唐王朝は滅び、朱全忠を皇帝とした新たな王朝が生まれ、国号は「りょう」(後梁こうりょう)となりました。

 この朱全忠によって唐が滅ぼされた事で、各地の節度使たちが次々に自立して国を名乗り始め、十国の併存という勢力図になるわけですね。




 そんな中、晋陽で劣勢に追い込まれていた李克用が同盟を結ぶ事にした相手こそ、その頃に北の草原で王となった耶律阿保機だったのです。(雲中うんちゅうの会盟)


 この同盟では、李克用の沙陀族と、耶律阿保機の契丹族とで、後梁の朱全忠(ついでに両者の領土の間にいた幽州節度使の劉仁恭りゅうじんきょう)を潰すと約束しました。


 しかし耶律阿保機は、その翌年に朱全忠からの使者を受け、李克用を華麗に裏切ってしまいます。耶律阿保機からすれば、朱全忠と結んで李克用と劉仁恭を飲み込んだ方が有利と考えたからでしょう。


 そんな状況の中で、独眼龍と呼ばれた李克用は病没しますが、その死の間際に後継者である李存勗りそんきょくに、三本の矢を手渡します。


「一本で幽州の劉仁恭。一本で契丹の耶律阿保機。そしてもう一本で朱全忠を倒せ。これが果たされれば、父は悔いを残さず眠れる」


 そんな三本の矢を父から受け継いだ李存勗は、それまでどんな実力か家臣からまるで知られていませんでした。ただ歌舞音曲が好きなだけの御曹司と思われていたのです。

 ところがいざ戦場に出れば、父すらも超える軍事の才能を発揮し、寡兵で連戦連勝しました。


 そして李存勗は順調に幽州の劉仁恭を滅ぼし(父の墓前で本人の心臓に矢を刺して殺す律儀さ)、その地に仕えていた、後の名宰相・馮道ふうどうを自陣営に引き入れています。


 李存勗はその勢いのまま契丹へと攻め込みますが、耶律阿保機が率いる契丹族は強かった。

 それまで連戦連勝していた李存勗が率いる沙陀族の軍も一進一退の大激戦。決着がつく事なく痛み分けのまま、双方ともに兵を引き上げました。




 そんな李存勗の活躍を見た朱全忠は、思わず「息子を持つなら、あんな子がいいな。ウチには犬か豚しかおらん」と呟いたと言われています。それが原因かどうか、犬や豚と言われた息子によって、朱全忠は殺されてしまいました。


 宿敵である朱全忠を自身の手で滅ぼせなかった李存勗ですが、その頃の後梁は、統治政策も後継者選びも失敗したまま朱全忠が死に、領土がガタガタになっていました。

 そこを李存勗が全てを飲み込んで後梁を(ついでに勢いあまって前蜀ぜんしょくも)滅ぼしました。


 李存勗は唐の復興を大義に掲げ、国号を「唐」(後唐こうとう)としました。


 しかし李存勗は、その能力値ステータスが戦場に全振りしており、統治能力も人心掌握能力も皆無でした。その偏りから、後世に「良くも悪くも覇王・項羽こううの再来」と呼ばれたりします。

 項羽がそうであったように、家臣が次々に彼を裏切り、遂には彼を守るべき禁軍きんぐん(近衛隊)によって殺害されてしまうのです。




 その後、新たな皇帝に擁立されたのが、李克用の仮子かし(実子と同じ権利を持つ養子)であり、李存勗の義理の兄とも言える李嗣源りしげんでした。

 家臣たちは李嗣源に新王朝を建てるように言いましたが、彼は李克用や李存勗への義理を大事にし、あくまで後唐の二代皇帝となります。


 ちなみに契丹族の耶律阿保機ですが、李存勗との痛み分けの後、西の突厥、東の渤海ぼっかいを攻め落とし、契丹の勢力を盤石に立て直していました。

 しかし、満を持して「いざ南下!」……という時になって、(奇しくも李存勗と同じ年に)耶律阿保機の寿命が尽きました。

 この後、彼の息子たちの間で後継者争いが勃発し、しばらく契丹が南下できなかった事が、後唐の李嗣源にとってラッキーでした。




 さて、その後唐の李嗣源は、北の契丹が内紛していた事や、宰相である馮道の助言もあり、非常に安定した統治で後唐を立て直しますが、皇帝になった時点で六十歳という高齢であった事がたたって、後継者選びに失敗したまま世を去りました。


 李嗣源の三男・李従厚りじゅうこうが後を継ぎますが、すぐに李嗣源の仮子であった李従珂りじゅうかによって殺害されました。

 後唐の第四代皇帝となった李従珂は、父である李嗣源の娘婿であった石敬瑭せきけいとうの勢力を恐れ、それを廃そうとしました。それを諫めた宰相の馮道は左遷されました。




 そんな石敬瑭は、自分の勢力だけでは対抗しきれないとして、思い切った行動に出ます。北方の契丹族を呼び込んだのです。


 契丹の王位は、耶律阿保機の次男である耶律やりつ堯骨ぎょうこつが、母である月里朶ゆりだの後ろ盾もあって内紛を制し、部族をまとめ上げていました。


 耶律堯骨が率いる契丹の援軍によって李従珂を打ち破った石敬瑭は新たな皇帝となって、国号を「晋」(後晋こうしん)としました。

 石敬瑭は乱れた国を立て直す為に、馮道を呼び戻して宰相に据え、内政に力を注ぎます。


 しかしその成立過程も相まって、耶律堯骨に頭の上がらない石敬瑭が皇帝となった後晋は、実質的に契丹の属国状態となります。


 何よりも援軍の見返りとして、華北の北端にある「燕雲えんうん十六州」(幽州)を契丹に割譲した事が大きな遺恨になりました。

 この土地は、北方の山脈や万里の長城の内側に位置し、北族が河北や中原に進出する足掛かりとなる地政学的に重要な場所でした。

 この後も契丹をはじめ、女真じょしん蒙古もうこが南下する際の足掛かりとして利用され続け、漢民族が支配権を取り返したのは明代になってからなのです。

 現代の中国ではこの点をもって、石敬瑭は漢奸かんかん(漢民族の裏切り者、売国奴)として扱われてますが、この人ってそもそも沙陀族だし、しかも西域出身(ソグド人の血筋)らしいから、全く漢人じゃな(略




 とにかくそうした土下座外交に呆れた家臣たちは、次々に離反したり反乱を起こしたり。そしてその都度に契丹の耶律堯骨から叱責され続けた石敬瑭は、さすがに心労でポックリ逝きました。


 そうして家臣たちに担がれた後晋の後継者は、石敬瑭の甥・石重貴せきじゅうきでしたが、周りの空気的に契丹に対して強硬姿勢を取るしかなく、それに対して耶律堯骨は当然ながら激怒。

 燕雲十六州を足掛かりに、猛スピードで南下してくる契丹軍によって後晋は一瞬で滅ぼされました。




 首都を陥落させ、破壊や略奪を行う契丹軍の前に立ち塞がったのは、宰相の馮道。「民を救えるのは、これより皇帝になるあなただけ」と持ち上げられ、気を良くした耶律堯骨は馮道を続けて宰相に任じ、この時点で契丹は「りょう」を国号とし、耶律堯骨は中華皇帝の位を名乗る事になります。


 しかし契丹の兵たちは、もともと略奪専用部隊を用意するなど、奪いつくす方針で動いていた為、いきなり耶律堯骨からやめろと言われても各地で略奪は止まらず、民心を完全に敵に回してしまいます。

 また本国ではそもそも南下に反対していた皇太后である月里朶が、中華皇帝を名乗った息子の行状に駄々をこねた事で、建国から三カ月で統治を諦め、耶律堯骨と契丹は北へと帰って行きました。


 そして耶律堯骨は北へ帰る途中、ポックリ逝きました。こうして契丹は再び後継者問題で荒れる事になり、その間は華北はフリーになります。




 次に中央政権を得たのが、石敬瑭の土下座外交に強硬に反対していた劉知遠りゅうちえんです。彼は兵力がありながら、契丹の南下と首都陥落を傍観しており、契丹が帰って行った後、空白となった中央をかっさらいました。

 そして国号を「漢」(後漢こうかん)として新王朝を建て、やっぱり馮道を宰相に任じます。そしてポックリ逝きました。




 こんな状態で権力の座を継いだ息子の劉承祐りゅうしょうゆうは、あまりにも皇帝の権威が無さ過ぎる事に不安を感じ、有能な家臣たちを次々と粛清して回りますが、これが完全にヤブ蛇でした。

 自身の家族を皆殺しにされてブチ切れた軍人の郭威かくいが挙兵して返り討ちにし、劉承祐は乱戦の中で死にました。


 ここで郭威、劉承祐の従弟である劉贇りゅういんを皇帝に立てようとしますが「やっぱやめた」とばかりに劉贇を始末し、自らが皇帝となって国号を「周」(後周こうしゅう)とします。


 ちなみに利用されて殺害された劉贇の父(劉知遠の弟)・劉崇りゅうすうは、「郭威絶対許さないマン」と化すと、プライドを捨てて契丹に頭を下げ、遼の属国「北漢ほくかん」として劉知遠の建てた後漢王朝を存続させました。




 そんな感じで皇帝となった郭威ですが、例によって馮道を宰相に任じると内政に力を注ぎ、荒廃した国土を立て直しました。


 こうして馮道と二人三脚で民生を立て直した郭威が崩御すると、その後を継いだのは柴栄さいえいです。

 ここで姓が変わったのは決して簒奪というわけではなく、もともと郭威は劉承祐に家族を皆殺しにされていたので、甥(妻の兄の子)にあたる柴栄が円満に後周を継いだわけですな。


 この柴栄、内政に力を注いだ内向きの郭威と違い、天下統一への指向が強い君主でした。

 彼は軍規違反には厳罰で臨んで綱紀粛正をしたり、脱税目的の出家で経済を乱していた当時の仏教を弾圧するなど、その統治姿勢を見た後世の日本人から「五代十国の織田信長」と呼ばれています。


 そんな彼も、やっぱり内政に関しては馮道を頼りました。

 ちなみに馮道先生は結果として「五朝八姓十一君」に仕えた宰相として、後世の儒家からは「忠義心が皆無」とボロクソに言われますが、「あくまで天下万民の生活安定を優先し、上に立つ君主は誰でもいい」という、民を優先する姿勢を評価する人も多いです。




 さて、そうして天下統一へと向かう柴栄ですが、彼の下にいた二人の人物が大きく活躍します。


 馮道を始め「外征には気が早い」とする臣下たちが大半の中、「打って出るべし」と天下の大計を語って柴栄に重用される事となった王朴おうぼく


 王朴は後世の人から「周の武王に太公望たいこうぼうがいたように、劉邦りゅうほう張良ちょうりょうがいたように、劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょうがいたように、苻堅ふけん王猛おうもうがいたように、柴栄には王朴がいた!」と語られたと言えば、彼の果たした役割の大きさが分かるかと思います。


 そしてもうひとりは、柴栄の親衛隊長であり、戦では切り込み隊長としても戦った猛将・趙匡胤ちょうきょういん

 親衛隊長に選ばれるだけあって武術の達人であり、勇猛果敢な軍人でもある一方、主君である柴栄への忠義は厚く、部下からも慕われる親分肌でした。酒が好きでよく酔いつぶれるのも愛嬌です。


 そんな配下を率いて天下統一に乗り出した柴栄は、北から攻めて来る遼と北漢の軍を蹴散らして南下を押さえ、華南最大勢力であった南唐の要地を削り取り、また後蜀からもその領土を削り取りました。


 勢いは完全に柴栄の後周にあり!


 ……という所で、王朴が心臓発作で亡くなってしまい、そのショックで柴栄も寝込んでしまって間もなく崩御しました。




 柴栄亡き後、後周皇帝の座は、わずか七歳の柴宗訓さいそうくんへと継がれました。


 勢いがあったとはいえ、敵はまだ全然周囲にいる状態。その状態で柴栄も王朴も世を去って、幼子が皇帝の座に就いたわけです。

 敵国も好機とみて、全方位から攻めてくる事は目に見えています。


 そこで家臣たちは相談し、いつものように深酒をして爆睡していた親衛隊長・趙匡胤に黄袍おうほう(皇帝の着用する黄色い衣服)を着せると、二日酔いの頭で目が覚めた趙匡胤に「皇帝になってくれなきゃ、ここで我ら全員死にます!」と迫りました。(陳橋ちんきょうの変)


 こうして渋々ながら皇帝・柴宗訓に禅譲を迫ると、趙匡胤は新たな皇帝となって国号を「そう」としました。


 ちなみに南北朝以来、禅譲した後の先帝は処刑されるのが当たり前となっていましたが、趙匡胤は当然ながら尊敬する柴栄の子を殺すなんてとんでもないとし、退位した柴宗訓は勿論、柴栄の一族は宋の庇護の下で平穏な生涯を過ごしたそうです。




 さて、そんな趙匡胤の宋が天下を統一するのですが、ここで五代が争っている間に起こった周辺国(十国+α)をサラっと見てみましょう。




前蜀ぜんしょく

 黄巣の乱に際して蜀に逃げていた宦官に取り入った無頼漢の王建おうけんが権力を握り、朱全忠が唐を滅ぼした際に独立。

 国内を秘密警察が監視する恐怖政治をしますが、李存勗が後梁を攻めた時に勢い余って攻めてきた事にビビり、そのまま降伏しました。


 唐の近衛兵に属する一兵卒にしか過ぎなかった李茂貞りもていが黄巣の乱に乗じて漢中かんちゅうを手にします。

 立地的に朱全忠の後梁と王建の前蜀に挟まれ細々と生きていましたが、後梁攻めの李存勗に、勢い余って踏み潰されて滅亡しました。

 あまりに存在感が無さ過ぎるので、十国にカウントされませんでした。


後蜀こうしょく

 李存勗によって蜀が制圧された後、その配下であった孟知祥もうちしょうが統治を任されますが、後唐が李嗣源に継がれると、双方の仲が悪くなり孟知祥が蜀で独立を宣言しました。

 天然の要害である山脈に囲まれた蜀地方は、ほとんど攻められる事がなく文化面では発展しますが、逆に軍事力が衰え、統一指向の柴栄や趙匡胤の前に容易く敗れて併合されました。


 唐末の混乱で群盗から成り上がった楊行密ようこうみつが、揚州一帯を占拠し、唐に節度使として認めさせた国です。

 ただ建国者の楊行密が早死にし、その息子たちが立て続けに皇位リレーをした後、家臣・徐知誥じょちこくに禅譲して終わりました。


南唐なんとう

 呉の家臣だった徐知誥が禅譲を受け、その領土をそのまま継承した国です。

 国号は最初の一瞬だけ「せい」でしたが、先祖が李姓を名乗っていたと強弁した徐知誥が李昪りべんに改名し、唐の後継を称して「唐」を名乗りました。

 周辺国を次々に攻め取って華南最大勢力となりますが、柴栄に要衝を取られた後に弱体化。趙匡胤の宋に滅ぼされます。


呉越ごえつ

 唐末に無頼漢から成り上がって揚州の海沿い(現在の上海シャンハイあたり)を占拠し、節度使に認められた銭鏐せんりゅうが唐王朝の滅亡を期に建国しました。

 揚州制圧を狙う呉や南唐に幾度も攻められますが、中央である五代王朝と常時同盟を結ぶ事で対抗して生き残り、趙匡胤の宋によって南唐が滅ぼされると、宋に領土を明け渡して降伏しました。


びん

 節度使である王潮おうちょうと、その弟である王審知おうしんちが、唐の滅亡と共に独立した国で、呉の南側にある海岸線に沿った狭い領土(現在の福建省あたり)の小国です。

 国力の差はさすがに覆らず、南唐によって滅ぼされました。

 当時は全くの未開発だった福建を開拓した王兄弟は、現地では今でも厚く信仰されています。


 建国者の馬殷ばいんは、木工から兵士になった人物で、唐が滅びた後、朱全忠によって楚王に封じられました。

 基本的には荊州の交易ルートを利用し、特に茶の生産流通によって経済的に潤いました。

 その後も歴代の五代王朝に臣従しつつ、中央側も楚を南唐への抑えとして使う事で国土を維持しましたが、子沢山がたたって後継者争いで乱れ、その隙に南唐によって滅ぼされました。

 その後、楚の配下武将であった周行逢しゅうこうほうが残党を率いて南唐から領土を取り戻しますが、宋の南下を受けて降伏しました。


荊南けいなん

 五代王朝、楚、蜀に挟まれた小国です。

 中央と楚が良好だった事と、交易ルートの中央にあった事で、全方位土下座外交で生き延びました。

 統一に邁進する宋が南下して楚を攻めるに際して「道を開けろ」と言ってきたので即答で承諾。関を開けて国内に宋軍を通すと「ついでにお前も降伏しろ」と言われて即答で承諾。こうして宋に併合されました。


南漢なんかん

 建国者の劉隠りゅういん劉厳りゅうげんの兄弟が漢皇室の末裔を自称し、唐が滅びると「漢」を国号に独立しました。

 国土である南の海岸沿いにある交州は、当時としても辺境であり、中央から左遷された文官の子孫も多かった為、乱世の国としては珍しく、軍人よりも文官が強い国です。

 ただ「宦官にならなきゃ役人になれない」はやりすぎ……。

 そんな宦官だらけの国なので、当然ながら攻め込まれても抵抗などできるはずもなく、宋が攻めて来ると一瞬で併呑されました。


北漢ほくかん

 五代の解説でも書いた「郭威絶対許さないマン」こと劉崇が建てた北の端っこにある国です。

 後周に対抗するために遼の属国となり、孫の代に至るまで三十年ほど戦い続けました。十国では宋に対抗する最後の敵となりましたが、遂に宋軍に敗れ、この北漢の滅亡によって宋の天下統一が成りました。




 そんなこんなで天下統一を果たした宋ですが、太祖たいそ・趙匡胤は統一を見る事はありませんでした。最後に残った敵である北漢との決戦を前にして亡くなっています。

 元々の大酒飲みであった趙匡胤ですから、脳溢血などによる急死というのが定説です。

 統一を果たせていなかった事も大きいですが、趙匡胤は最後まで「闇落ち」しなかった皇帝として、後漢ごかん劉秀りゅうしゅう(光武帝)と並ぶ仁君と後世に言われています。




 さて、本来は趙匡胤の息子が継ぐべき所、弟である趙光義ちょうこうぎが継ぎ、第二代皇帝(太宗たいそう)に即位してから、趙匡胤の息子たちが自殺したり、不可解な死を遂げ、遂には誰もいなくなりました。

 そこで趙光義は自分の息子を皇太子にした辺りから、弟による趙匡胤暗殺説が出たわけです。

 しかし状況証拠だけなので、千載不決せんざいふけつ(千年経っても解決しない話)と当時から言われました。


 いずれにしても宋の天下統一は、この二代目である趙光義が果たしたわけです。ちなみに燕雲十六州を取り返す為に遼にも戦争を仕掛けましたが、こちらは敗北を喫しています。


 そしてこの趙光義の代で、科挙かきょ(官吏登用試験)が本格的に始まります。

 科挙自体は隋唐の頃からあったのですが、当時はまだ政治中枢の高級官僚は魏晋南北朝以来の門閥貴族が占めていて、科挙で登用された官僚はほとんど下級役人止まりだったのです。

 しかし後梁の朱全忠が中央の高級官僚(すなわち貴族層)を皆殺しにしていた事で、門閥貴族がほとんど没落し、科挙による官僚が順当に政治に関われるようになったのは、実際にはこの宋代からです。


 この科挙制度は中華民国が建国されるまで千年に渡って続いており、その意味では朱全忠の大虐殺は、歴史的に見れば皮肉にも大きな功でした。




 その後、五代十国の教訓から、各地の節度使の力を削ぎながら、科挙で登用した文官を主体とした文治主義に移行していきます。


 首都も隋の建設した大運河の脇にあった事で発展した開封かいほうに置き、経済的な発展を目指しました。

 この頃になると洛陽や長安は既に発展の頭打ちとなった時代遅れの古都となっていたわけです。


 しかしこの開封は、中原の開けた平地にあり、経済的な発展や物流には持って来いなのですが、いざ戦争となると自然地形による防御がほとんどないという欠点がありました。

 この首都選択と、節度使の軍事力を削った文治主義への転換が、後々になって効いてくる事になります。




 趙光義の息子である第三代・趙恒ちょうこう真宗しんそう)の代になると、北方から契丹族の遼が再び南下してきました。

 宋の兵力に不安が残って抗いきれないと見た趙恒は、遼の第六代・耶律文殊奴やりつもんじゅどに財宝を送って和議を請い、宋が遼に毎年貢物を送る事で決着しました。(澶淵せんえんの盟)


 こうした宋の弱腰姿勢を見て、西域でもきょう族の流れを汲む党項とうこう族(タングート)が独立して「」(西夏せいか)を建国したりしました。

 現在の雲南うんなんからタイの辺りを領土にしていた「大理だいり」なども力を付けており、軍事力削減を選択した宋に早くも陰りが見え始めます。


 宋の権威が衰えている事に危機感を覚えた趙恒は、豪華な宮殿を新造したり、泰山で封禅ほうぜんの儀を執り行ったりしましたが、こうした行動が逆に国費を浪費してしまう結果になりました。




 第四代・趙禎ちょうてい仁宗じんそう)の代になると、戦闘状態にあった西夏と講和を結び(慶暦けいれきの和約)、その後は奇跡的に数十年の平和な時代を迎えた事で、この間に文化的な発展を遂げます。

 木版印刷技術の発展で書物が大幅に普及し、水墨画なども隆盛を極め、また商人が自由に市を開く事が出来た為、首都の開封などでは夜になっても明かりが灯って活気に溢れた時代となりました。


 この趙禎の治世は「慶暦の治」と呼ばれ、後世に「宋が最も豊かだった時代」と呼ばれました。




 そうして宋の第八代・趙佶ちょうきつ徽宗きそう)の時代を迎えます。


 その頃、北方の遼の支配下にあった女真族が、完顔わんやん阿骨打あぐだという族長の下に独立して「きん」を建国し、遼との戦いを繰り広げていました。


 皇帝・趙佶は澶淵の盟から供物を送っている遼との決着を着ける為、金の完顔阿骨打に使者を送ると、共に遼を倒そうと約定を交わします。(海上かいじょうの盟)


 しかし、その頃の宋では政治闘争が苛烈で、汚職が横行し、各地で反乱が相次いでいました。奇しくも海上の盟の直後に「方臘ほうろうの乱」という大規模反乱も起こり、遼への出兵に完全に出遅れてしまいました。


 ちなみに小説『水滸伝すいこでん』は、この徽宗皇帝の時代が舞台であり、その作中で梁山泊りょうざんぱくに集まった百八人の英雄たちの最後の戦いが、この方臘の乱です。


 とにかく宋軍が内乱に追われている最中に、金と遼の戦いが始まったわけです。完顔阿骨打に率いられた金は次々に遼軍を破っていき、遼の首都である燕京えんけい(現在の北京)の目前まで迫ります。

 しかし完顔阿骨打は、独りで勝ってしまっては宋のメンツが立たぬとして、宋軍の到着を待ちました。


 遅れて到着した宋軍が、ノリノリで燕京を攻めますが、立て籠もっていた遼軍によって返り討ちにされて壊滅。

 仕方なく完顔阿骨打の金軍が遼にトドメを刺しました。


 これによって契丹族は西方に追いやられ、契丹勢力は事実上の崩壊となりました。




 遼との戦争で、ほとんど役に立たなかった宋ですが、金の完顔阿骨打は当初の盟約を守って燕京周辺の土地は宋へと割譲しました。

 五代以来の悲願であった燕雲十六州の一部返還に、宋はお祭りムードです。しかし彼ら宋は、あくまで燕雲十六州の全てを取り返したいと考え、律儀に約束を守った完顔阿骨打に対し、背信行為とも言える牽制を繰り返しました。

 極めつけは、金の完顔阿骨打が天寿を全うして崩御すると、宋が金に攻め込むという有様です。


 完顔阿骨打の弟であり、金の第二代・完顔わんやん呉乞買うきまい太宗たいそう)は、こうした宋の態度についにブチ切れて、宋へと一気に進軍し、宋の首都・開封に迫りました。


 これにビビった趙佶は、全力の土下座と、賠償金を払う約束をして、一旦は金軍に帰ってもらいました。

 しかし趙佶は約束の賠償金を払う様子はなく、それどころか遼の残党と通じて金を挟撃しようと画策している事が金にバレてしまいます。


 さすがに完顔呉乞買も今度は容赦する事なく、再侵攻すると開封を陥落させて趙佶とその息子たちを捕らえて金の本土へ連れ帰ってしまいます。


 こうして華北一帯は女真族の金によって制圧されてしまいました。

 この一連の出来事を「靖康せいこうの変」と呼びます。




 靖康の変が起こった際、都に居なかった趙佶の九男・趙構ちょうこうが、江南の建康けんこう南京なんきん)で皇帝に即位し、宋王朝を再建しました。

 皇族の血統は続いており、同じ宋王朝を名乗っていますが、歴史上では、開封を首都とし金によって滅ぼされた方を北宋ほくそう、建康を首都として再建した方を南宋なんそうと呼んで分けます。




 金に江南に押しやられた南宋ですが、南宋はここから百五十年にも渡って戦い続けます。

 どうも漢人って統一してる時は慢心するんですが、華南に押しやられた途端に闘志に目覚めて粘り強くなりますね……。


 特に前半期は、金に対抗する軍人の勢力が強く、岳飛がくひ韓世忠かんせいちゅうと言った武人たちが大いに活躍し、金軍を立て続けに破りました。

 現代の中国人に「自国の歴史上の英雄は誰か」と訊けば、出てくる名前の第一位は、ほぼこの岳飛です。




 しかし南宋の宰相・秦檜しんかいは、金との和平交渉に臨むに当たり、徹底抗戦を主張する彼ら軍人たちを疎ましく思い、中でも最も名声のあった救国の英雄・岳飛を謀反の冤罪で陥れ殺害してしまいます。


 岳飛の友人でもあった韓世忠から「謀反の証拠はあったのか!?」と訊かれた秦檜は「あった、かもしれぬ」と曖昧な返事でお茶を濁し、後日に韓世忠からも軍権を剥奪してしまいました。


 こうして金に対する軍人たちを次々に失脚させた秦檜は、金に対して毎年の貢物を送るという屈辱的な和議(紹興しょうこうの和議)を結ぶと、政敵を次々と陥れて専横を極めた後に天寿を全うしました。


 この秦檜は、岳飛とは対照的に、漢奸(売国奴)の筆頭として後世に名が残されています。


 その後も南宋は、金に土下座外交をする和平派と、金に北伐を仕掛けていく主戦派のシーソーゲームを繰り返しながら、金と南宋のにらみ合いが百年ほど続きました。

 そうしている間に、西方の砂漠にとんでもない敵が育っていたのです。




 西方の騎馬民族・蒙古族を統一したテムジンという男が部族の王となって「チンギス・ハーン」を名乗り、契丹族の残党や、党項族の国である西夏を飲み込み、中華にまで勢力圏を拡大していました。

 この時点で蒙古の西側はペルシャやイスラム圏にまで達しており、このあとヨーロッパにまで攻め込もうとしている状態です。




 ここで南宋は蒙古と盟約を交わして金を挟撃。蒙古によって金の首都となっていた開封が陥落します。


 そこで南宋は旧都回復を目論んで盟約を破り、開封や洛陽に攻め込みました。しかしこれは蒙古によって返り討ちにされた挙句、逆にこれによって南宋と蒙古の全面戦争が始まってしまう事になります。(端平入洛たんぺいじゅらく


 ここからおよそ四十年、襄陽じょうよう樊城はんじょうといった荊州での一進一退の戦いが繰り広げられた後、遂に南宋は荊州すらも失います。


 そうなるともはや戦う力は残っておらず、蒙古によって残党が飲み込まれ、遂に中華全土は蒙古によって支配されました。


 互いに憎み合った宋、遼、金、西夏といった国々は、全てまとめて蒙古によって飲まれたわけです。




 南宋を滅ぼした頃、蒙古族のハーンは、チンギスの孫であるフビライになっていました。

 広くユーラシア大陸全土を治める最高権力者となっていた彼は中華支配を完了したと見るや、中華皇帝を名乗り、国号を「げん」と改めました。


 ちなみに彼が日本に対して攻め寄せた「元寇げんこう」は、この南宋が滅亡し、国号を改めた前後で行われています。散々に手紙を送ったのに鎌倉幕府がガン無視を決め込んでいた為ですね。


 その戦いの結果は、恐らくご存じの通り。


 ハーンになるまでの継承戦争を勝ち抜き、最大の強敵である南宋にトドメを刺した覇者なのですが、日本でフビライと言ったら、どうしても「台風で侵略失敗おじさん」の印象が強いですね。




 しかしフビライが元を建てた時点で、世界帝国としての蒙古モンゴルは、既に分裂の兆しが見えていました。

 そもそもチンギスの時代でユーラシア大陸に広がってしまった広大な領土は、この時代の時点で頂点がフビライとはいいつつ、既に分割統治の盟主といった扱いです。


 ロシア西部から東欧にかけては「キプチャク・ハーン国」、イスラム圏は「イル・ハーン国」、中央アジア南部は「チャガタイ・ハーン国」、中央アジア北部は「オゴタイ・ハーン国」、そして極東地域がフビライの「元」という状態です。




 そんな元も、フビライ死後から後継者争いに端を発する宮廷の政治闘争が全く止まず、縁故採用による官僚の腐敗が庶民を苦しめ、そんな中で蒙古人に支配される漢人は反撃の機会を伺い続ける事となりました。


 そうして白蓮びゃくれん教と呼ばれる宗教団体が起こした「紅巾こうきんの乱」を皮切りに、中華全土で反乱が続出。


 その乱の中から、次なる時代を開く男、朱元璋しゅげんしょうが現れる事となりました。


 そんなあたりで、次の枠へと移ります。






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