東晋、五胡十六国

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑦東晋、五胡十六国

 はい、来ちゃいました中国史上最大の混乱カオス時代枠。


 日本史における戦国時代(室町中期~安土桃山~江戸初期)くらい、メインストリームが迷子で、広範囲に視点が飛びます。


 説明する側もどこから説明したらいいか分からない混乱ですが、白紙状態の初心者さんからすると説明聴いても分からんってなるので、めちゃくちゃ長くなるけど、まぁ、休憩しながらのんびり読んでください……。




 そもそもの発端は後漢時代まで遡ります。匈奴が崩壊して北方や西方の騎馬民族が複数に分裂した事を覚えていますかね?

 そうした遊牧騎馬民族を「胡族こぞく」と総称します。

 五十六国の「胡」ってのは、コレの事です。

 知らなかった人も、何が起こるか何となくお察しですね?


 漢代では儒教じゅきょうが非常に尊ばれていました。上の者の徳と、下の者の忠孝を何よりも重んじる教えで、主従関係、親子・兄弟などの長幼ちょうようなど、徹底的な上下関係が定められ、下の者が上の者に逆らう事はあってはならないと縛られています。国家全体にこの思想が行きわたれば国が安定するのは確かです。

 しかし同時に中華と夷狄いてき(異民族)も明確な上下が定められているのです(華夷秩序かいちつじょ)。儒教国家において、差別を蔓延させてしまう闇の部分ですね。


 そうした周囲異民族へのヘイトを溜めながら、後漢末から三国時代に至る長い戦乱で、漢民族は人口が激減しているにも関わらず、兵力・労働力の需要は激増します。

 そうなると後漢末の群雄、その後の三国の国家も、人手不足を補う為に積極的に異民族を味方に引き入れます。ただし漢人側の将兵には華夷秩序が常識。野蛮な夷狄どもは文明人である漢人様に土下座して服従するのが当たり前という意識のままです。

 そんな漢人の下で働かされる異民族の気持ち、どんなもんか想像できますよね。


 小説『三國志演義』で、蜀に対して反乱を起こした南蛮なんばん王・孟獲もうかくが、何故あそこまで漢人に屈するのを嫌がったか。

 そしてしょく諸葛亮しょかつりょうが「対等の友人になりに来た」と言ったのが、何故孟獲を感動させた美談として描かれているのか。

 その辺も、そうした背景を知っていれば納得できると思います。


 しかし現実にそんな美談はほぼありません。華夷秩序の下で漢人の配下としてこき使われたまま、後漢末から三国時代に至る百年間を過ごしていたわけです。


 三国時代を終わらせ、一見すると統一による平和な時代が訪れたように見えたしんですが、その裏側で踏みつけられていた異民族問題は、何ひとつ解決していませんでした。というより漢人にとっては当たり前の事なので、解決すべき事とすら思ってなかったというのが正しいでしょう。




 さて、そんな異民族を踏みつけたまま、天下統一をした晋の司馬炎しばえん武帝ぶてい)は、各地に親類縁者である司馬氏の者たちを王として冊封しました。それぞれに統治権や軍権を持っていた、ほぼ分割統治と思っていいでしょう。

 しかし司馬炎は統一後に政治にもやる気を失い、後宮で女遊びをしてる間に崩御しました。


 その後に即位した第二代・司馬衷しばちゅう恵帝けいてい)ですが、まぁ主体性が無い皇帝で、彼が何か行動したような記述がほとんどないです。もはや曹操そうそうの時代の劉協りゅうきょう献帝けんてい)みたいな状態です。

 この状態で、毎度おなじみの外戚がいせき(皇后の親戚)やら、軍事力を持った各地の王がいるわけです。当然ながら天下は乱れます。「八王はちおうの乱」といいます。


 この八王の乱、めちゃくちゃ複雑な上に、これと言った英雄も不在で爽快感も何もないので、めっちゃかっ飛ばしますよ。あと短い間に「司馬」がいっぱい出るので混乱不可避。


「皇太后の外戚・楊駿ようしゅんがやりたい放題したので、司馬亮しばりょうがこれを殺害」

「司馬亮が目障りだったので、皇后・賈南風かなんぷうがこれを殺害」

「賈南風がやりたい放題したので、司馬倫しばりんがこれを殺害」

「司馬倫がやりたい放題したので、司馬冏しばけいがこれを殺害」

「司馬冏がやりたい放題したので、司馬乂しばがいがこれを殺害」

「司馬乂は特に悪い事してないけど、司馬穎しばえいがこれを殺害」

「司馬穎がやりたい放題したので、司馬越しばえつがこれを殺害……しそこねた!」


 とまぁ、こんな政局大混乱が十年ちょっとの間に起こりました……。

 おい「権力中枢を一族で固めれば盤石になる」とか言ったの誰だよ!? ってなりますが、現代でもお金持ちや権力者の相続争いとかはドロドロになりますからね、仕方ないね……。

 しかもこいつらみんな司馬懿しばいの子孫だしね、仕方ないね……。

 ちなみに皇帝陛下たる恵帝・司馬衷は、これを何もせず(おそらく泣きながらプルプル震えて)黙って見てました。




 さて、そんな八王の乱で生き汚く逃げ延びていた司馬穎の下に、南匈奴みなみきょうど単于ぜんう(大王)の血を引く劉淵りゅうえんがいました。劣勢となった司馬穎は、劉淵に胡族の兵を集結させるように命令して故郷に向かわせます。

 しかし漢人が今まで胡族にしてきた仕打ちに加えて、この十数年の晋朝中枢の為体ていたらくです。何が起こったか言うまでもありませんね。


 劉淵に率いられた南匈奴の反乱です。


 ちなみに劉淵が劉姓を名乗っているのは、父・劉豹りゅうひょうの代から「匈奴の王族は、前漢の時代から漢の皇族の娘を娶っているので、我らも劉邦りゅうほうの血を引いている」と主張してそう名乗り始めました。よって、劉淵は漢の復興を大義名分に掲げ、国号を「かん」として皇帝に即位します。

 前漢の劉邦、後漢の劉秀りゅうしゅう、蜀漢の劉備りゅうびの三人を「漢三祖かんさんそ」として祀った劉淵は皇帝を号します(光文帝こうぶんてい)。

 匈奴の建てた漢王朝なので、匈奴漢きょうどかんとも呼ばれます。


 元々老齢だった劉淵は即位から間もなく崩御しますが、第二代・劉和りゅうかは即位まもなく弟に殺されます。

 兄を殺して即位した第三代・劉聡りゅうそう昭武帝しょうぶてい)は、弱体化した晋へ一気に攻撃を仕掛け、洛陽らくよう長安ちょうあんを陥落させ、都にいた司馬一族を一掃しました。


 劉淵の挙兵から、この劉聡による洛陽・長安の攻略までを「永嘉えいかの乱」と呼びます。




 さて、晋朝の中枢が匈奴漢によって滅ぼされた時、八王の乱に参加していなかった王がいます。琅邪ろうや王・司馬睿しばえいです。彼は領地の名門・琅邪おう氏によって、永嘉の乱が起きた時に江南(三国時代のの領土)に移住しました。

 そして晋朝の中枢で皇族が皆殺しにされた報告を聞くと、琅邪王氏は現地の豪族(三国時代の孫呉配下の末裔たち)の協力を得て、司馬睿を皇帝にして晋を生き永らえさせました。

 後世の歴史では匈奴漢に滅ぼされた方を西晋せいしん、江南で再興した方を東晋とうしんと呼んで分けます。

 この東晋が、華南かなん(中華の南半分)で守りを固め、胡族に蹂躙される華北かほくを眺めつつ、漢民族の文化を維持するわけです。




 中華の中枢部を匈奴漢が抑えている中で、南部~南東部(呉楚ごそ)にこの東晋があり、北西部(りょう)、北東部(えん)、南西部(しょく)と、クロス配置で独自勢力があります。


 北西部の砂漠地帯には、西晋の涼州刺史だった漢人の張軌ちょうきが、西晋本国が滅びて東晋とも分断されていながらも「自分たちはあくまで晋朝の忠臣である」として戦い続けました。統治の関係上、途中で涼王を名乗りますが、それでも東晋とはずっと良好です。


 北東部には鮮卑せんぴ族の慕容廆ぼようかいが部族を率いて勢力を築いています。彼らは永嘉の乱が起きてからも漢人に反旗を翻さず、東晋と連携していました。

 ただし子や孫の代には、「燕」を建国して東晋と決別します。


 南西部では、てい族の李雄りゆうが、現地のえき州刺史を追い出して「せい」を建国します。ただしこれは現地の役人が好き放題していた関係上、「役人に搾取されて殺されるくらいなら、例え夷狄だろうと名君がいい」という民意の後押しも強かったのです。

 もともと山と緑に囲まれた蜀の地方は、中原の戦乱を尻目に安定した生活を送れる別天地となり、住む所を失った華北の民衆たちの受け入れ先として機能します。




 そんな周辺勢力の中、華北の真ん中を押さえた匈奴漢ですが、西晋を滅ぼした後は皇帝・劉聡が女色に溺れ、間もなく崩御。

 その外戚(またかよ……)である靳準きんじゅんが、第四代・劉粲りゅうさん隠帝いんてい)を始め、都である平陽へいようにいた劉淵の一族を皆殺しにし、自ら漢天王かんてんおうを名乗ります。


 しかし匈奴漢の下で軍を保持していた二人の将軍がまだいました。


 ひとりは劉聡の族弟にあたり、劉淵から「劉家千里の駒」と呼ばれていた劉曜りゅうよう

 もうひとりは、同じ匈奴系ながら独自文化を持っていた少数部族・けつ族の長である石勒せきろくです。

 軍才のある両者の軍に東西両サイドから攻撃されて、漢天王・靳準は一瞬で滅亡しました。


 しかし靳準を倒した後、劉淵の築いた漢王朝を復興させようとする劉曜と、匈奴漢が滅びた以上は独立しようとする石勒の間で亀裂が生じる事になります。


 河北を領有していた事から「趙王ちょうおう」を名乗った石勒ですが、劉曜は皇帝に即位すると国号を何故か石勒と重ねるように「ちょう」と定めます。

 趙の土地を領有しているのは石勒の方なので、そこを領有していないのに「趙」を名乗るというのは「趙の土地を奪う」という宣言に等しいわけで事実上の宣戦布告です。(あれ、「漢」の再興をする劉淵の意思は……?)


 この「両趙分裂りょうちょうぶんれつ」を見て、熱血な東晋の老将である祖逖そてきが北伐を開始し、位置的に劉曜軍と祖逖軍に挟まれた石勒は苦戦を強いられます。

 これによって東晋は中原一帯を取り返し、石勒は河北に追いやられますが、劉曜が酒に溺れてナメプしたり、祖逖が北伐の途中で病死したりした事で、石勒は何とか耐え抜きました。


 その後、洛陽を舞台にした「両趙洛陽決戦」によって、勝利した石勒は、そのまま劉曜を倒して、統一しました。


 歴史上、劉曜の方を「前趙ぜんちょう」、石勒の方を「後趙こうちょう」と呼びます。


 ちなみにこの辺の歴史を語る際に、文脈によって「靳準の乱を理由に匈奴漢と前趙を分ける」場合と「血筋を優先して匈奴漢と前趙を同じ国として語る」場合があるのでご注意をば。




 そんな華北の勝者である後趙は、石勒から甥の石虎せきこに引き継がれます。このセッコ……じゃなくて石虎、現代人からするとほど残虐です。

 現代の価値観で過去を評価するのはよろしくないので、当時の胡族、ひいては羯族の価値観というフィルターを通すべきなんですが、東晋の祖逖軍と正面から戦った有能な猛将であるにも関わらず、多くの同僚が「石虎は殺しておくべき」と石勒に進言するほどなので、リアルタイム蛮族フィルターを通しても、かなりやばかったと想像されます。


 詳細はググっていただくとして、まぁ、「うるせぇ!」「生意気だぞ!」「こりゃ楽しい!」と、喜怒哀楽を問わず何かするたびに千人万人の人死にが出るジャイアンとでも考えれば良いです。




 後趙の臣下も民衆も恐れつつの十数年、遂に暴君・石虎が崩御すると、後趙内部で後継者争いが勃発。その争いを勝ち抜いたのが石閔せきびんでした。

 石閔はもともと漢人であったのですが、彼の父である冉良ぜんりょうは石勒に従属。その勇猛さを買われて石虎の養子となり石瞻せきせんと改名していました。

 石閔は、石虎が多くの漢人から恨みを買っていた事を利用し、名前を父の姓である冉閔ぜんびんに戻すと、漢人の将兵を集めて石氏打倒を呼びかけて、後趙を滅ぼしてしまうわけです。


 しかし冉閔は英雄にはなりませんでした……。


 まるで「次は漢人オレのターン!」と言わんばかりに、羯族の抹殺を掲げて民族浄化を実行。そのあまりの混乱に、羯族だけでなく、現地にいた他の胡族や、外見が胡族に似ている漢人なども巻き込まれ、数十万人が一方的に虐殺されました。


 そんな冉閔は、国号を「」として皇帝に即位しますが、わずか二年で滅びる事になります。


 北方にいた鮮卑族が「燕」を国号にして独立して攻め込んできたのです。燕王・慕容儁ぼようしゅんと、その弟である名将・慕容恪ぼようかくは一気に冉魏ぜんぎを滅ぼして、皇帝である冉閔ぜんびんを処刑します。




 こうして燕の慕容儁が魏の冉閔を倒した頃、南方の東晋は、北府ほくふ軍と西府せいふ軍という軍閥に別れており、その内でも楚(荊州)を拠点とする西府軍を統括する桓温かんおんが、隣接する蜀を攻めていました。


 成の名君・李雄の統治下、戦乱の中の平和な別天地となっていた蜀でしたが、李雄が亡くなった後は後継者争いで国が乱れ、かつての別天地も荒れ果ててしまっていました。そんな中で李雄の従弟に当たる李寿りじゅが皇帝の座に就くと、劉邦とは何の縁もゆかりも無いけど、漢中を領有しているという理由で国号を「漢」に変えていました。

 この事で、この李雄の一族が蜀を治めたこの国を、歴史上では「成漢せいかん」と呼びます。


 しかし国力が衰えた成漢は、桓温が率いる東晋の攻撃に耐えきれず、そのまま滅ぼされてしまいました。これで東晋は、呉・楚・蜀という長江流域を全て押さえる事に成功したわけです。

 桓温はそのまま北伐を続けようとしますが、彼の力が増大する事を恐れた東晋の中央政府は、桓温が北伐の動きをする度にストップをかけてしまいました。




 さて蜀が東晋の手に渡った事で、久しく分断されていた忠義に熱い涼が、宗主国の東晋と地続きになったぞ! ……と思いきや、思いきや。


 後趙が冉閔に滅ぼされたタイミングで、西方は関中かんちゅうにいた氐族の部族が独立して「しん」を名乗っており、その皇帝である苻生ふせいが涼を滅ぼしてしまいました。


 こうして天下は、華南を完全に押さえた東晋、華北の東側を慕容儁の燕、華北の西側を苻生の秦、という三国鼎立の時代になりました。




 あー、また前の時代みたいに鼎立状態でダラダラ続けるのね……と思いきや、そんな状況を速攻で変えてしまった一人の天才がいました。彼は漢人ですが、東晋には仕えず氐族の建てた秦に仕えます。


 その名は王猛おうもう


 「シンのオーモー」だからと言って、どっかの腐れ簒奪儒者じゃないですよ?

 どっちかと言えば、韓信かんしん張良ちょうりょう蕭何しょうかという前漢の建国三傑を足した後に、蜀漢の諸葛亮もそこに加え、全く薄めないくらいのヤベー天才です。軍事から治国まで縦横無尽の活躍をする万能の天才です。


 東晋で力を付けていた桓温が、地位や財宝を積んで何度も引き抜こうとしましたが、王猛は頑なに秦を裏切りませんでした。

 その理由はと言うと、皇帝・苻生の息子であり皇太子であった苻堅ふけんの存在です。

 苻堅はとある理想に燃えていました。その理想のヒントは仏教にあります。




 インドで起こった仏教は漢代には既に中華へ渡来していましたが、当時は梵語ぼんご(サンスクリット語)で書かれた経典を読める人はほとんどおらず、むしろ仏教美術などの宝飾品が広まっていました。

 しかし仏典が徐々に翻訳されるにつれて、曹魏や西晋では仏教の布教が禁じられる事になります。その理由は儒教にありました。


 君主や親子、さらには中華と夷狄に至るまで、上下関係を明確に設定し、それを覆す事を厳しく律する事で世の安定を保つのが儒教の基本です。


 しかし仏教の教えに於いては、精神の修行によって悟りを開く事を目的とします。それは「この世の人間のほぼ全ては、未だに悟りを開いていない。つまり皇帝も庶民も、漢人も胡人も、等しく未熟な存在であり、全てが平等」という意味合いになります。


 これは儒教と明確に対立してしまい、儒教の教えを基本ルールとしている漢人社会においては、世を乱す邪教として禁止・弾圧される物なわけですね。

 しかし儒教の存在こそが差別や迫害を生む原因だとして、胡族の君主はその影響力を薄める為、多くの者が仏教を推進したというわけです。

 これによって以降の時代、仏教は儒教、道教と並ぶ、中華三大宗教に育っていく事になりました。




 秦の皇太子・苻堅は、そうした仏教を手厚く保護し、その上で「漢人も胡人も、全ての民族が差別もなく平等に平和に暮らせる社会を作りたい」という壮大な理想を掲げていたのです。

 万能の天才・王猛は、そんな若き皇太子の夢に心を打たれ、その覇業を助けると誓いました。




 苻堅が秦の帝位につくと、王猛は東征して燕を攻めます。この頃には、燕の君主は、冉閔を倒した慕容儁の息子である慕容暐ぼよういとなっていました。

 先帝である慕容儁の弟、つまり皇帝の叔父にあたる慕容恪と慕容垂ぼようすいは共に名将で、東晋の桓温の北伐を幾度となく防いでいました。

 しかし慕容恪は病に倒れ、慕容垂は政敵に暗殺されそうになり秦へと亡命してしまいます。

 両翼がもげたとも言える燕は、万能の天才・王猛が率い、更には自国の皇叔である慕容垂をもそこに加えた秦軍によって滅ぼされました。




 こうして南の長江流域を支配する東晋に対し、北の黄河流域は秦の物となり、天下は二分されます。


 なるほど、これ以降を南北朝……、と思ったでしょうが、そうはいきませんでした……。




 苻堅と共に二人三脚で歩んだ王猛は、戦争に政治にと働きすぎました。過労がたたって病死してしまいます。何でもできる天才が独りで抱え込むと、やっぱり過労死の末路が待っているのでしょうか。


 王猛は死の間際、あまりに優しすぎる主君・苻堅に対して、ふたつの事を遺言として残します。


「国内が安定していない今は、決して晋と戦争してはいけません」

「民族共和の理想は立派ですが、異民族を、特にきょう族と鮮卑族を信用しすぎちゃいけません」


 この遺言、お察しの通り、どちらも見事なフラグであり、苻堅は華麗なるフラグ回収をかます事になります。


 華北統一をして意気上がる秦の国内では、特に名将として誉れ高かった、かつての燕の皇族・慕容垂が天下統一を強く勧めており、苻堅も遂に南征を決意してしまいます。




 一方その頃、東晋で軍事の実権を握っていたのは謝安しゃあんという男です。


 鼎立時代に幾度も北伐を試みた桓温は、その影響力が強まる事を恐れた中央政権によって何度も邪魔されたわけですが、それが原因か、或いは中央の予想通りというか帝位を狙っていました。

 しかし桓温は皇族を虐殺する(北の蛮族のような)強引な簒奪ではなく、あくまでも(新の王莽以来の)儒教ルールに則った伝統的な禅譲を迫ろうとしました。漢人の桓温にとって夷狄と同一視されちゃ堪りませんからね。

 それが東晋にとって幸運であり、反対派の強硬な態度や工作で先延ばしにされている間に、桓温は寿命が尽きたというわけです。

 そんな桓温の簒奪を防いだ反対派の筆頭が謝安でした。


 北を統一した秦が百万と号する大軍で南下してくると知った謝安は、甥の謝玄しゃげんに軍を率いさせますが、およそ六万ほど。数の上では全く勝負になりません。


 しかし秦の君主・苻堅が投降兵を民族に関係なく許して自軍に加える人柄だと知った謝安は、多くの間者を進撃する敵に潜ませました。

 投降兵に見せかけた間者を怪しまれずに秦軍へと参入させる為、序盤はわざと敗走して見せる事で敵の慢心を誘います。


 こうして迎えた「淝水ひすいの戦い」では、苻堅も策を練ります。逃げる振りをして謝玄が率いる晋軍を誘い込み、反転して包囲殲滅しようとしたのです。

 しかしもっと大きな視点では、苻堅は既に謝安の手の内に誘い込まれていました。


 当初は逃げる振りだったはずが、潜ませた晋軍の間者によって「負けた!」「撤退だ!」と騒がれてしまったのです。もともと他民族の混成軍だった秦軍は、その人数の多さが仇となって総崩れとなり、そこに謝玄率いる統率された晋軍の追撃を受ける事となってしまいました。


 この戦いの結果として、「秦はもう終わり」、「カリスマ君主・苻堅もこれまで」と見限られ、せっかく統一した華北は民族バラバラの小国乱立へと大分裂してしまう事になるわけですね。




 苻堅と共に逃げた慕容垂は、そこでトドメを刺せたのですが、どうしてもトドメを刺す事が出来ず、黙って彼の元を立ち去り、故郷に戻りました。そんな慕容垂は、燕国を復興します。


 南征をあれだけ勧めておきながら、即座に故郷で燕国復興をした慕容垂を「奴は初めからこれが目的だったのだ!」と罵って、失意の苻堅を支えたのは姚萇ようちょうでした。苻堅もまた姚萇を頼るのですが、次第にその感情が歪んでいき、姚萇は苻堅を幽閉して禅譲を迫ります。

 しかし苻堅はそれを拒否した為、遂に姚萇は苻堅を殺害してしまい、秦国の帝位を奪う事となるのです。


 この慕容垂は鮮卑族、姚萇は羌族です。ここでもやはり王猛の予言は当たってしまいました。


 そして一方で、苻堅と同じ氐族である呂光りょこうは、同じ呂氏として「中国史において呂氏の猛将は、呂布と呂光」と、後世に『三國志』の呂布と並んで称されるほどの戦上手でした。

 彼は苻堅が南征に向かう前に、西域への領土拡大を命じられて西の砂漠で戦っていたのですが、気が付いたら本国が滅び、苻堅も死んでいるという悲劇的な状況に陥り、仕方なく西域で独立する事になりました。


 燕(後燕こうえん)の慕容垂、秦(後秦こうしん)の姚萇、涼(後涼こうりょう)の呂光が、苻堅死後の華北の有力者になります。しかし彼らの死後、その三地域とも後継者争いでさらに分裂し、元からいたアンチと併せて有象無象の大分裂状態になってしまったわけです。


 そんな取っ散らかった華北の大掃除をしたのは、次の時代「南北朝」の幕を開ける二人の奸雄……。北は拓跋珪たくばつけい、南は劉裕りゅうゆうが飲み込む事になります。


 というわけで、次へと移ります。






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