新、後漢
【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑤新、後漢
特に王鳳と王政君の甥・
次の第十三代・
哀帝と男色関係にあった事で出世した
その後、第十四代・
しかし元来病弱であった平帝は十四歳で崩御し(王莽による毒殺説もあります)、まだ二歳の赤子である
その後「王莽、皇帝となるべし」と書かれた石が古井戸から偶然発見されたり、漢の
漢王朝からの
つまり血を流す事なく王朝を交代させる禅譲というスタイルを史上初めて実行したのが、この王莽というわけです。
勿論、
天下国家の皇帝の座となれば、やはり王莽が最初です。
彼が封ぜられていた新都から名を取り、王朝の国号は「
そんな新の初代皇帝になった王莽ですが、その政治はメッタメタでした。西周時代を理想とした国を掲げるのですが、そんな西周の全盛期は、この時代から見ても千年以上前の昔話です。
夢物語の理想と、足元に広がる現実や実態がかけ離れていた時、普通は嫌々でも現実に対処しながら、少しでも夢に近づけようとするものですが、王莽のやらかしは「現実をガン無視して、理想の夢物語を強引に全て実行する」でした……。
「社会のルールも統治スタイルも、千年前と同じにするから。みんなも千年前と同じ暮らしをしようね。素晴らしいでしょ!」
どんなに理想が高かろうと、それはもはや皇帝の権力を乱用し世を乱す暴君と変わりません。
当然ながら、天下はすぐに乱れてしまい「やってられっか!」とばかりに各地で反乱が相次ぐ事になります。
そんな反乱軍の中でも、台頭が目覚ましかったのが二つの勢力です。
どちらも民衆反乱から始まったのですが、漢の高祖・劉邦の血を引く遠縁の子孫たちが、どちらの軍にも参加していました。
緑林軍には、民からも慕われ将軍としても有能な兄弟。豪快な親分肌の
赤眉軍の方にいるのは、もはや皇族の血を引いている事を本人たちも実感しておらず、牛馬の世話をさせられていた
どちらの軍も、幹部たちが扱いやすいという理由で、緑林軍は劉玄を皇帝(
特に緑林軍の勢いが凄まじかったのですが、これは劉縯・劉秀兄弟の活躍によるところが大きいです。(「
劉玄と緑林軍幹部はそんな劉兄弟の勢いを危険視し、兄の劉縯にイチャモンをつけて殺してしまいます。もし弟が文句を言ったら、それも殺そうと思ってた劉玄達。しかし兄を殺された劉秀はグッと我慢し兄の非礼を詫びる屈辱の土下座で、ここは生き延びました。
その後、緑林軍は一気に
とにかく王莽の建てた新が一代で滅び、更始帝・劉玄を皇帝として「漢」を再興しますが、敵はまだまだいます。
兄を殺された劉秀は、乱れている
ここで劉秀は劉玄から独立して自身も皇帝を号します(
建世帝・劉盆子を担いだ赤眉軍もまだおりますし、さらに王莽によって前漢皇太子の座を追われた当時二歳の赤子であった劉嬰も成人して
天下は劉邦の末裔である劉氏の皇帝たちが乱立して争う様相になったわけです。
長くなるのでかっ飛ばしますが、本家筋の存在を恐れた劉玄が安定を攻め滅ぼして劉嬰を殺害します。
しかし宮廷生活に染まってしまった劉玄は、攻め寄せる赤眉軍の勢いを止められずに討ち取られ、更始政権から劉盆子を皇帝とする赤眉政権へと移ります。
しかし間もなく光武帝の軍が赤眉政権を攻め滅ぼし、ここに改めて、光武帝を初代とする「
前漢の首都であった長安から、東の洛陽へと首都を移した事で「
この時点では各地で割拠した群雄がまだいましたが、光武帝は焦る事なく十数年かけて鎮圧していきます。
ちなみに赤眉政権の建世帝・劉盆子は、まだ幼い少年であった事と、本人の意思とは関係なく連れ回されていた事から、光武帝には「お前も大変だったな」と笑って許され、不自由なく暮らせるように
さて、この後漢初代皇帝の光武帝・劉秀ですが、前漢の劉邦とは色々と違いました。
劉邦は人材活用の天才として部下たちが活躍しましたが本人は低スペックです。みんなに慕われるカリスマ性だけでしたね。
しかし劉秀は、「
前漢の頃の「漢の高祖・劉邦」、「天才軍師・
しかも、ただ知勇兼備で強いだけでなく
「一人称が僕(漢文で普通に「僕」と書かれている)な、公式ボクっ子」
「挙兵の頃に馬を買うお金が無くて、牛に乗ってのんびり参陣した」
「独りでこっそり外に遊びに行った挙句、日が暮れた後に城門が閉じられ、皇帝が城外に閉め出される」
などの茶目っ気も多く、また行軍で食料が足りない時は部下と一緒に粥を分け合ったり、いつも笑顔で冗談を言って場を和ませるなど、人格面でも将兵や民から慕われました。
ついでに史書に明記される公式イケメンです。
しかも劉邦のように、統一した後に「闇落ち」する事もなく、崩御の瞬間まで部下と民を大事にしていました。
国家体制としては、新の時代に理想とした儒教を重んじながらも、より現実に即してバランスを重視した物となりました。
あまりの完璧超人ぶりに「捏造」を疑うアンチが後世に絶えないのですが、少なくとも史書にはそう明記されているので仕方ないですね。
光武帝・劉秀と、その息子で二代目の
しかしそれ以後の皇帝は、みな十代の若い内から即位する事が多く、どうしても外戚が力を握ってしまいます。
前漢における
この外戚と宦官の権力闘争が、後漢の終わりまでシーソーゲームのように続く事になります。
そして異民族問題がありました。
前漢の時代に大勢力を誇った
南匈奴は漢の領域内である長城の内側に住む事を許され、周辺地域の治安維持や傭兵稼業などで後漢朝廷に協力していく事になります。
しかし匈奴がいなくなった事で、北方では
そんな情勢の中で、後漢王朝が儒教を国教とした弊害からか、周辺異民族を
後漢の中期に、羌族が大反乱を起こして都にまで迫る勢いであった「
三十年以上も続いたそうした羌族の反乱は、最終的に後漢王朝によって鎮圧されますが、羌族は勿論の事、周辺異民族の漢人への恨みは募るばかり。
光武帝という名君によって建てられた後漢王朝も、この「外戚と宦官の主導権争い」と「周辺異民族へのヘイト」という二つの問題を抱え、後々の時代まで残る禍根になるわけです。
それから宗教の点でも、この辺りで
これを危険視した後漢朝廷は、道教を邪教扱いで弾圧しますが、五斗米道はその時々の有力者に取り入って庇護を受ける事で後世まで生き残りました。一方で太平道は逆に農民反乱と一体化して「
さて、黄巾の乱が収まった後、後漢朝廷では例によって外戚と宦官の殴り合いが始まります。第十二代・
そんな空白となった権力の座に座ったのが、即位して間もなかった少年皇帝、第十三代・
董卓はそれから間もなく、皇帝である劉弁を廃して、聡明な
臣下が勝手に皇帝を変えるという暴挙に、諸侯から次々と反董卓の声が上がる事になりました。
こうして反董卓の諸侯が次々と挙兵し、都である洛陽に攻め寄せるのですが、董卓はこれまた強引に西の長安へと遷都させて、皇帝や百官を始め住民に至るまで全員を長安へ移すと洛陽に火をかけて焼け野原にしてしまいます。
反董卓連合は董卓を討ち取る事が出来ず、むしろ後漢皇室の権威は一気に衰え、世は群雄割拠へと変わってしまう事になるのです。
さて長安で皇帝を擁立していた董卓ですが、
しかし董卓の死後、王允と呂布は仲違いを始めて呂布は長安を去り、さらに王允は旧董卓派の粛清を始めました。しかしこれは王允と仲が悪かったり、王允に異論を唱えたり、さらには董卓と同郷だという理由だけで次々と処刑される凄まじい物でした。
結果として王允はすぐに反乱を起こされ、わずか二カ月で董卓と同じ末路を辿ります。
そんな長安の権力を次に握ったのが、
しかし政治能力がまるで無かった李傕は、長安を荒廃させてしまい、役人や軍人が民から略奪する事は日常茶飯事。都の内外には死体が山のように転がり、多くの民が都から去りました。
これを憂いた朝廷の臣下たちは、皇帝である劉協を都から連れ出して逃亡。群雄たちが覇権争いを始めていた中原へと向かいます。
そんな献帝・劉協を保護したのが、群雄の一人である
というわけで、この曹操から次の枠「三国・西晋」へと移ります。
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