新、後漢

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑤新、後漢

 かんの第十一代・劉奭りゅうせき元帝げんてい)の時代。皇后・王政君おうせいくん外戚がいせき(皇后の親戚)だった王氏は力を付け、大将軍・王鳳おうほうらが大きな影響力を持ちました。


 特に王鳳と王政君の甥・王莽おうもうは敬虔な儒者として知られ、伯父・伯母の後ろ盾もあって飛ぶ鳥を落とす勢いで出世し、第十二代・劉驁りゅうごう成帝せいてい)の時代に新都侯しんとこうに封ぜられ、大司馬だいしば(軍務長官)の地位に至ります。


 次の第十三代・劉欣りゅうきん哀帝あいてい)の時代になると、王莽は大司馬を罷免されますが、儒者として信頼が厚かった為に復帰の嘆願が多く出されてました。

 哀帝と男色関係にあった事で出世した董賢とうけんが大司馬になっていたのですが、後ろ盾の哀帝が僅か二十五歳で崩御すると董賢も失脚し、王政君の働きかけで王莽が大司馬へとカムバックします。


 その後、第十四代・劉衎りゅうかん平帝へいてい)が僅か九歳で即位し、王莽がその後見人になります。

 しかし元来病弱であった平帝は十四歳で崩御し(王莽による毒殺説もあります)、まだ二歳の赤子である劉嬰りゅうえい孺子嬰じゅしえい)が後継者として選ばれますが、あまりにも幼かった事から即位は保留され、王莽はその摂政として「仮皇帝かこうてい」を名乗りました。


 その後「王莽、皇帝となるべし」と書かれた石が古井戸から発見されたり、漢の高祖こうそ劉邦りゅうほうが書き残した「劉氏の後に王氏が天子となる」という予言が発見されたりした事で、遂に王莽は皇帝の座に就く事になります。


 漢王朝からの禅譲ぜんじょう(帝位を譲る)を受け、王莽が新たな皇帝となるわけですが、実はこれ画期的でした。


 からいん、殷からしゅう、そして春秋戦国しゅんじゅうせんごくの乱世は言わずもがな、しん始皇帝しこうていも、西楚覇王せいそはおう項羽こううも、そして漢の劉邦も、全て戦争によって前の王朝を滅ぼしてきました。

 つまり血を流す事なく王朝を交代させる禅譲というスタイルを史上初めて実行したのが、この王莽というわけです。


 勿論、三皇五帝さんこうごてい時代は全員が先代から禅譲を受けた事になっていますが、それは全て神話のお話。モデルとなった者がいたにしても、石器時代の集落責任者の交代みたいなレベルの話でしょう。

 天下国家の皇帝の座となれば、やはり王莽が最初です。


 彼が封ぜられていた新都から名を取り、王朝の国号は「しん」となりました。




 そんな新の初代皇帝になった王莽ですが、その政治はメッタメタでした。西周時代を理想とした国を掲げるのですが、そんな西周の全盛期は、この時代から見ても千年以上前の昔話です。

 夢物語の理想と、足元に広がる現実や実態がかけ離れていた時、普通は嫌々でも現実に対処しながら、少しでも夢に近づけようとするものですが、王莽のやらかしは「現実をガン無視して、理想の夢物語を強引に全て実行する」でした……。


「社会のルールも統治スタイルも、千年前と同じにするから。みんなも千年前と同じ暮らしをしようね。素晴らしいでしょ!」


 どんなに理想が高かろうと、それはもはや皇帝の権力を乱用し世を乱す暴君と変わりません。




 当然ながら、天下はすぐに乱れてしまい「やってられっか!」とばかりに各地で反乱が相次ぐ事になります。


 そんな反乱軍の中でも、台頭が目覚ましかったのが二つの勢力です。

 緑林山りょくりんざんという土地に集まった事でそう呼ばれた「緑林りょくりん軍」と、味方の目印として全員が眉を赤く塗った事でそう呼ばれた「赤眉せきび軍」です。


 どちらも民衆反乱から始まったのですが、漢の高祖・劉邦の血を引く遠縁の子孫たちが、どちらの軍にも参加していました。


 緑林軍には、民からも慕われ将軍としても有能な兄弟。豪快な親分肌の劉縯りゅうえんと、対照的に冷静で人懐っこい劉秀りゅうしゅうの兄弟。そしてその親戚で二人よりも年長ですが、能力は凡庸で気位だけは高い劉玄りゅうげんの三人です。


 赤眉軍の方にいるのは、もはや皇族の血を引いている事を本人たちも実感しておらず、牛馬の世話をさせられていた劉恭りゅうきょう劉茂りゅうぼう劉盆子りゅうぼんしという幼い三兄弟です。


 どちらの軍も、幹部たちが扱いやすいという理由で、緑林軍は劉玄を皇帝(更始帝こうしてい)として、赤眉軍は十三歳の劉盆子を皇帝(建世帝けんせいてい)として、それぞれ皇帝に擁立した上で、新の王莽に対して反乱をしたわけです。


 特に緑林軍の勢いが凄まじかったのですが、これは劉縯・劉秀兄弟の活躍によるところが大きいです。(「昆陽こんようの戦い」でググろう)

 劉玄と緑林軍幹部はそんな劉兄弟の勢いを危険視し、兄の劉縯にイチャモンをつけて殺してしまいます。もし弟が文句を言ったら、それも殺そうと思ってた劉玄達。しかし兄を殺された劉秀はグッと我慢し兄の非礼を詫びる屈辱の土下座で、ここは生き延びました。


 その後、緑林軍は一気に洛陽らくよう長安ちょうあんを陥落させました。新の皇帝・王莽はこの混乱の中で民衆に殺害されたと言われています。

 とにかく王莽の建てた新が一代で滅び、更始帝・劉玄を皇帝として「漢」を再興しますが、敵はまだまだいます。


 兄を殺された劉秀は、乱れている河北かほくを平定すると言って更始政権から距離を取ると、信頼する部下たちと一緒に河北を平定していました。

 ここで劉秀は劉玄から独立して自身も皇帝を号します(光武帝こうぶてい)。

 建世帝・劉盆子を担いだ赤眉軍もまだおりますし、さらに王莽によって前漢皇太子の座を追われた当時二歳の赤子であった劉嬰も成人して安定あんていで皇帝に即位しました。

 天下は劉邦の末裔である劉氏の皇帝たちが乱立して争う様相になったわけです。


 長くなるのでかっ飛ばしますが、本家筋の存在を恐れた劉玄が安定を攻め滅ぼして劉嬰を殺害します。

 しかし宮廷生活に染まってしまった劉玄は、攻め寄せる赤眉軍の勢いを止められずに討ち取られ、更始政権から劉盆子を皇帝とする赤眉政権へと移ります。


 しかし間もなく光武帝の軍が赤眉政権を攻め滅ぼし、ここに改めて、光武帝を初代とする「後漢ごかん」王朝が始まりました。

 前漢の首都であった長安から、東の洛陽へと首都を移した事で「東漢とうかん」と呼ばれる事もあります。

 この時点では各地で割拠した群雄がまだいましたが、光武帝は焦る事なく十数年かけて鎮圧していきます。


 ちなみに赤眉政権の建世帝・劉盆子は、まだ幼い少年であった事と、本人の意思とは関係なく連れ回されていた事から、光武帝には「お前も大変だったな」と笑って許され、不自由なく暮らせるように滎陽侯けいようこうとして後漢の諸侯に封じられました。


 さて、この後漢初代皇帝の光武帝・劉秀ですが、前漢の劉邦とは色々と違いました。

 劉邦は人材活用の天才として部下たちが活躍しましたが本人は低スペックです。みんなに慕われるカリスマ性だけでしたね。


 しかし劉秀は、「雲台うんだい二十八将」と呼ばれる多くの優秀な将軍を率いましたが、武力の面でも知力の面でも、最強の将軍は誰よりも劉秀自身であり、彼が先頭に立ってみんなが後ろからついてくるという感じです。

 前漢の頃の「漢の高祖・劉邦」、「天才軍師・張良ちょうりょう」、「国士無双・韓信かんしん」の長所だけを集めて、それを一人で兼ねているような超高スペック皇帝なのです。


 しかも、ただ知勇兼備で強いだけでなく


「一人称が僕(漢文で普通に「僕」と書かれている)な、公式ボクっ子」

「挙兵の頃に馬を買うお金が無くて、牛に乗ってのんびり参陣した」

「独りでこっそり外に遊びに行った挙句、日が暮れた後に城門が閉じられ、皇帝が城外に閉め出される」


 などの茶目っ気も多く、また行軍で食料が足りない時は部下と一緒に粥を分け合ったり、いつも笑顔で冗談を言って場を和ませるなど、人格面でも将兵や民から慕われました。

 ついでに史書に明記される公式イケメンです。


 しかも劉邦のように、統一した後に「闇落ち」する事もなく、崩御の瞬間まで部下と民を大事にしていました。


 国家体制としては、新の時代に理想とした儒教を重んじながらも、より現実に即してバランスを重視した物となりました。


 あまりの完璧超人ぶりに「捏造」を疑うアンチが後世に絶えないのですが、少なくとも史書にはそう明記されているので仕方ないですね。




 光武帝・劉秀と、その息子で二代目の劉荘りゅうそう明帝めいてい)の時代は、政治中枢も天下の民も、非常に安定した時代でした。


 しかしそれ以後の皇帝は、みな十代の若い内から即位する事が多く、どうしても外戚が力を握ってしまいます。

 前漢における呂雉りょちや王莽の苦い記憶がある彼らは、とにかく外戚を抑え込もうとして宦官かんがん(後宮に仕える為に男性器を切り落とした男性)の力を強めてしまいます。

 この外戚と宦官の権力闘争が、後漢の終わりまでシーソーゲームのように続く事になります。


 そして異民族問題がありました。


 前漢の時代に大勢力を誇った匈奴きょうどが衰退し、未だに漢と戦おうとする北匈奴きたきょうどと、漢と平和的共存を望む南匈奴みなみきょうどに分裂して争っていました。後漢朝廷は当然ながら南匈奴の後ろ盾となって北匈奴を討ち滅ぼし、それ以後の中国史に北匈奴が戻って来る事はありません。

 南匈奴は漢の領域内である長城の内側に住む事を許され、周辺地域の治安維持や傭兵稼業などで後漢朝廷に協力していく事になります。


 しかし匈奴がいなくなった事で、北方では烏桓うがん族、鮮卑せんぴ族、そして西方ではきょう族やてい族といった、それまで匈奴の支配下にあった遊牧騎馬民族が次々に台頭してくる事になります。


 そんな情勢の中で、後漢王朝が儒教を国教とした弊害からか、周辺異民族を夷狄いてきとして下に見る極端な華夷秩序かいちつじょが浸透し、後世に至るまで異民族への差別・偏見が社会の闇として蔓延してしまうわけです。


 後漢の中期に、羌族が大反乱を起こして都にまで迫る勢いであった「永初えいしょの大乱」や「永和えいわの乱」なども、彼らを奴隷扱いして酷使した事が原因でした。

 三十年以上も続いたそうした羌族の反乱は、最終的に後漢王朝によって鎮圧されますが、羌族は勿論の事、周辺異民族の漢人への恨みは募るばかり。


 光武帝という名君によって建てられた後漢王朝も、この「外戚と宦官の主導権争い」と「周辺異民族へのヘイト」という二つの問題を抱え、後々の時代まで残る禍根になるわけです。




 それから宗教の点でも、この辺りで道教どうきょうが現れてきます。孔子こうしの教えを始祖とする儒教に対し、同じ春秋時代の老子ろうしの教えを主体とする宗教です。

 張陵ちょうりょうを教祖とする五斗米道ごとべいどうと、張角ちょうかくを教祖とする太平道たいへいどうが同じ時期に現れてきて多くの信者を集めます。


 これを危険視した後漢朝廷は、道教を邪教扱いで弾圧しますが、五斗米道はその時々の有力者に取り入って庇護を受ける事で後世まで生き残りました。一方で太平道は逆に農民反乱と一体化して「黄巾こうきんの乱」という反乱を起こし、後漢朝廷によって滅ぼされてしまいました。




 さて、黄巾の乱が収まった後、後漢朝廷では例によって外戚と宦官の殴り合いが始まります。第十二代・劉宏りゅうこう霊帝れいてい)の崩御から始まる争いで、有力な外戚であった大将軍・何進かしんが宦官勢力に殺され、間もなく宮城に乗り込んだ何進の部下たちによって宮廷の宦官が皆殺しにされる事件があります。

 そんな空白となった権力の座に座ったのが、即位して間もなかった少年皇帝、第十三代・劉弁りゅうべん少帝しょうてい)を保護して都入りした董卓とうたくでした。


 董卓はそれから間もなく、皇帝である劉弁を廃して、聡明な劉協りゅうきょう献帝けんてい)を第十四代皇帝として即位させます。

 臣下が勝手に皇帝を変えるという暴挙に、諸侯から次々と反董卓の声が上がる事になりました。


 こうして反董卓の諸侯が次々と挙兵し、都である洛陽に攻め寄せるのですが、董卓はこれまた強引に西の長安へと遷都させて、皇帝や百官を始め住民に至るまで全員を長安へ移すと洛陽に火をかけて焼け野原にしてしまいます。


 反董卓連合は董卓を討ち取る事が出来ず、むしろ後漢皇室の権威は一気に衰え、世は群雄割拠へと変わってしまう事になるのです。


 さて長安で皇帝を擁立していた董卓ですが、司徒しと(政治責任者)であった王允おういんと、腹心の猛将であった呂布りょふによって暗殺されてしまいます。


 しかし董卓の死後、王允と呂布は仲違いを始めて呂布は長安を去り、さらに王允は旧董卓派の粛清を始めました。しかしこれは王允と仲が悪かったり、王允に異論を唱えたり、さらには董卓と同郷だという理由だけで次々と処刑される凄まじい物でした。

 結果として王允はすぐに反乱を起こされ、わずか二カ月で董卓と同じ末路を辿ります。


 そんな長安の権力を次に握ったのが、李傕りかくです。

 しかし政治能力がまるで無かった李傕は、長安を荒廃させてしまい、役人や軍人が民から略奪する事は日常茶飯事。都の内外には死体が山のように転がり、多くの民が都から去りました。

 これを憂いた朝廷の臣下たちは、皇帝である劉協を都から連れ出して逃亡。群雄たちが覇権争いを始めていた中原へと向かいます。


 そんな献帝・劉協を保護したのが、群雄の一人である曹操そうそうでした。


 というわけで、この曹操から次の枠「三国・西晋」へと移ります。






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