第36話 新たな異世界と、身を裂くような痛み
オフィスの中央で椅子に座っていたケンは立ち上がった。
「<浮世>が改変?」
「螺旋」に手を差し入れているユイに怪訝な顔で近づいた。
「はい。<迷いの間>から<異常体>が脱出した時は彼自身によるジャンプでしたが、原因不明の<浮世>の改変のせいで、今度は<異常体>の意思と関係なくジャンプが起きているようです」ユイは「螺旋」の全体を眺めながら、呟くように言った。「配置まで……。ああ、これでは<運河>に歪みが……これは一体……?」
同じく「螺旋」に手を触れて確認していたケンは、持ち前の動じない性格をそのまま表情に表したような固い面持ちで言った。その顔には珍しく緊張の色が帯びていた。
「……こんなことが出来るのはヤツだけだ」
「”ヤツ”?」
「あの魔女――アンだ」
ケンは、いつものひょうきんな感じからは考えられないほど厳しい雰囲気を漂わせていた。
「位置を捕捉後、すぐに出るぞ」
今度こそ死んだ。あれだけ高い崖から振り落とされたんだ。死ぬ直前は視界の映像がスローモーションになると言うが、まさしく地面と岸壁はゆっくりと俺から遠のいて行った。俺はどこまでも落ち続けた。そして、深い深い峡谷の底で、全身を打って死んだはずだ。カレンを遠い世界に置き去りにした後悔とともに……。
だが、俺は目覚めた。
森。緑の屋根。
その先に透かし見える青。
なぜ俺はまだ生きている? なぜまだこうして地面を背にして目を開けていられる?
体中が熱を帯びたような痛み。
奇跡的に助かったのか?
次第に意識が確かになっていくにつれて、自分は地面に横になっているのではなく、太い木の枝を背にしていたのだと気づいた。木の肌の粗さと固さが背中に伝わってくる。落下した拍子にうまいこと木の枝に引っかかって、地面で身を打つことは避けられたということか。
繁茂した緑の天井がやけに高い。太いしたたかな枝は複雑に交差し、細い枝は無数に絡み合い、青空から届く日の光をモザイクにしている。
体の右半身に、視線を感じる。
ゆっくりと首をひねって視線を感じる方を見た時、俺はひどく驚いた。
一人の女がこちらを見ていた。しかも、思いもよらぬほど近い距離で、しゃがみながら俺の顔を覗き込んでいた。身を案じるような目で見つめる彼女の顔は、麗しかった。目尻や鼻筋に鋭さが漂っていたが、それは美しさの範囲におさまっていた。眉はむしろ感情の豊かさを滲ませていた。
これだけ近い距離にいたのにもかかわらずすぐ気づけなかったことにも驚いた。まるでこの女が周囲の自然と同化していたかのようだ。
おぼろげな焦点が正確に結ばれていくにつれて、彼女に対する驚きはますます高まっていった。
はじめは周りの濃い緑と木陰がそう見せているのかと思った。
しかし、よく見ると、彼女の肌は緑色だった。
俺はこの滑らかな肌の上の色を見たとき、目を見張りながら激しく動揺するとともに、急速に正常な思考を取り戻した。
女だ!
「リヴィ・カール」ではない、女だ!
それに……見たことのない肌の色!
ということは……っ!!
痛みに身を包まれているのも忘れて、俺は勢いよく体を起こした。周囲を見渡した。
一見、俺のいた世界にもあるような、何ということはない、自然豊かなジャングルの光景だった。しかし、首をめぐらしてよく観察して見ると、時を刻むにつれ違いが明らかになって行った。さっきまでいた世界とも違う。言葉にし難いが、何となく”雰囲気”も違う。辺りが透き通っているというか、緑色が澄んでいるというか。
太くたくましい枝が生き物の躍動のようにねじれながら、横へ、空へと伸びている。まるで先ほどまで縦横無尽に動いていた生き物を突然静止させたかのような活気を漂わせている。自分がいま乗っている枝は身を横にしていても余るほどの太さで、それを辿っていくと、比べ物にならないほどさらに巨大な幹が地面に根を下ろしていた。これほどの木は前の世界では見たことがないし、もちろん俺のいた世界でもほとんど目にしたことがない。もし見たことがあったとしてもご神木として祭られているようなもので、森とは独立した木ばかりだった。
木の根を見下ろした時に気づいたのだが、いま俺はどうやら尋常じゃなく高い標高のところにいるようだ。はるか下の方でも、この高さで見れる光景と同じく、枝同士が複雑に入り組み合い、それぞれに茂った葉はどこの枝のものか分からないほどになっている。さらにその下、幹と根の境目がある地面と思われる場所にも鮮やかな色の雑草が隙間のないほど生えており、ここから見るとふかふかとした緑の絨毯のように見える。高所が苦手な俺は、にわかに脚が痺れだした。あるいは、もしかしたら、その痺れは「自分はまた別の世界に来てしまったのだ」というひどい動揺から来るものでもあったかもしれない。
俺は膝をついて感情が流れ出るままに任せた。そうするしかなかった。すぐ隣に人がいることも気にしなかった。次から次へと起こる「世界の変化」という、自分がまるで蟻か何かの卑小な存在に思える、壮大な異常現象をいくつも潜り抜けてきて、俺の感情のキャパシティーはついに崩壊した。完全に一人の人間が抱えられる「圧力」の量を超えていた。よくよく考えてみれば、最初の方で器が決壊してもおかしくなかった。ここまで耐えられたこと自体がふしぎに思われた。なぜなら俺が相手にしているのは、最初から最後まで、常識のはるか先にあるものだったのだから。ここまで自分というものを保てたのも、隣にカレンがいたからだ。カレンを思う力が、もう一度カレンの手を握りたいという思いが、器の決壊をすんでのところで支えていたのだ。
だが、いまとなっては、カレンと俺との間には「世界の壁」があった。
目からは涙が流れ、口からは情けない声が出るばかりだ。
俺の体の中の隅から隅までが、身を裂くようなカレンへの申し訳なさでいっぱいだった。その自責の念は絶望の淵に頭の先まで浸かっていた。俺はカレンを、見知らぬ世界に置き去りにしてしまった。無数にある世界の中で、一人孤独に。鋭い刃物が頭の中をかき乱すような錯乱の中で、俺は絶望の核と会した。「俺はカレンに、死よりも残酷なことをしてしまったのだ……」
――前の世界ではまだカレンを助けるチャンスがあった。だが、今はもうない。
今度こそは本当に異世界に来てしまった。自分でもよく分からないが、今度こそは確信があった。肌に触れる空気の感じというか、とにかく、俺の感覚に与える「感じ」がそうだと告げていた。
何より、声を上げて泣き伏している俺を見つめるこの女の存在自体が、もっともそのことを如実に物語っていた。
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