第13話 ここはパラレルワールドだ
新緑を身に着けた木立の中を、三人は自転車で走り抜けていく。脇や首もとから柔らかな風が入り込み、先ほどのバスケットで滲んだ汗を乾かしてくれている。日は傾きかけ、木々の間から差し込む光も丸みを帯び、三人は良い気分だった。
左右に屹立して生えている木立が途切れているところに、ゆったりとしたカーブがある。そこを左に曲がった先には芝生と花畑が遠くまで続いている。ミノルはカーブを曲がると、今までモザイクのように淡く見えていた夕暮れの空がはっきりと目に入った。
空を焼き尽くそうとしている炎のような夕空。遠くでは赤が圧縮されて血のように濃いのに、どこか優しい感じ、懐かしい感じがした。その後に頭をよぎったのは”星の表象”。とげとげしくあたりに鋭角を広げている。なぜ最近見た八芒星のシンボルが夕暮れ色を背景に蘇ったのか分からなかった。数日前にこれを見て感じた既視感といい、自分と一体何の関係があるのか、その疑念はいよいよ腹の中で膨らんでいった。
空を見上げてミノルは驚愕していた。見知らぬ世界だった。
知らない部屋、知らないベッド、そして、立ち並ぶ見たことのない巨大なビル群と、東京スカイツリーに似ているがはるかに高く大きい塔……今見上げている空の色で、ここは自分が今まで生きていた世界ではないと確信した。もっとはっきりした青のはずだった。青色にエメラルドの緑色が混じった空なんて一度も見たことがない。違う地域、違う国にいるのではない、違う世界にいるのだ。
夢なのかと疑ってあらゆることをやってみた。ほっぺたをつねってみたり、思いっきり冷たい水で顔を洗ってみたり、自分に「これは夢だ」「覚めろ」と言い聞かせてみたり、深呼吸して目を瞑ってしばらくして目を開けてみたりしたが、”現実”は巨大な石のようにびくともしなかった。
そして何より気持ち悪いのが、自分の”中”だ。自分の意識の中に、もう一人いるような気がする。つまり、二人の自分が、同時にこの世界を認識しているような感覚なのだ。自分はいま目にしている新しい世界にこれだけ動揺しているのに、もう一人の自分はいたって冷静だ。むしろこの世界に慣れているような、何年もの間この世界で生きてきているかのような感じで、今朝もいつも通りの平凡な一日の始まりに過ぎないかのように、心は平静だった。そのギャップにひどく奇妙な感じを受けた。
先ほど洗面所で自分の顔を見た。まぎれもなく自分だった。昨日の朝に鏡を見たときと同じ顔だ。
その洗面所の位置や、寝室やキッチンの間取りなど、このマンションの全体から細部まで知り尽くしている一方、他人の部屋にいるかのような全く新鮮な気持ちで見ている自分がいる。それにこのベランダから見える街の景色。自分が知っている東京と比べると、”この東京”は、先に進んでいた。まるで自分の年齢はそのままの状態で時間だけが進んだかのようだ。自分は今いかにも未来といった都市の風景を見ていた。遠くに見えるが巨大すぎて近くにも見える巨大な塔。これを当たり前のように「ツリー・オブ・ライフ」だと認識している一方、ただ目を見張って「何なんだ。この『東京スカイツリー』をはるかに大きくさせた建物は」と驚いている自分もいる。
強く日差しが照りつけているベランダを出ようとしたとき、めまいがした。そばの柱に掴まった時、いつかの「黒い服の男」の姿が頭をよぎった。
黒ずくめの作業着。
金色の星と蛇のシンボル。
真っ赤な空。
無人の世界。
映像を巻き戻していくように逆の順番で記憶が頭を駆け抜ける。
背筋に冷たいものが走った。彼はいま自分がどこにいるかが分かった。
パラレルワールドにいるのだ。
ミノルは頭の中を整理しようとした。自分の中に二重の意識があるということは、この世界をよく知っている自分、つまりもともとこの世界に生きていた”並行世界の自分”の体の中に自分が入り込んだということなのか。だから全く身に覚えもないはずのこの世界の過去と現在についての知識が頭に入っているというわけなのか。先ほど「ツリー・オブ・ライフ」という塔の名称が瞬時に出てきた時、なぜ建てられたのか、この塔のおかげで街と人々の生活はどのように恩恵を受けているのか、このマンションへ引っ越して来て最初にベランダからこの塔を見上げた時に何を感じたのかが、共に即座に認識されたのは、そういうことだったのか。
なぜ自分はここに? 自分がこの「もう一つの世界」に来るに至った原因をたどるため、最期の記憶、つまりあの「赤い空」の時の記憶を頭の中で出来るだけ詳細に再現しようとした。
あの時……自分は「黒い服の男」に「元の世界に戻してあげる」と言われたはずだ……。そう、確かにあの赤く静かすぎる不気味な世界から帰るために、男に言われるとおりに目を瞑り、十秒数え、そしてだんだんと眠くなっていき、最後には意識が飛んだのだ。しかし、自分が今いるのは「元の世界」などではなく、”現在でありながら未来でもある”、考えうる限りでもっとも理想的な人生を送っているもう一つの自分が生きる世界だった。奇妙な興奮が湧き上がってきた。何と言ってもこの世界の自分はーー。
その時、ベッドの上の携帯が鳴った。手に取り、画面を見た。メッセージが来ている。
「今度ミノルの家で集まる日って何日だったっけ? 忘れちゃった」
ーーカレンがいるのだから。手を伸ばせば届く、その距離に。
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