ルキフェルの夢の終わり

美夜

第1話 はじまりの時、土地、世界

 はじめに、女の意思があった。

 これは世界と人間が再び生まれて、すぐ後に起きたこと。

 いつからそこにあるのか誰にも分からない、一本の大きな木のそばに、黒い髪を暖かな風になびかせた美しい女が立っていた。

 その女は、先ほどからその大樹をずっと見つめている。この木は周りに果てしなく広がっている他の木とは違うということを知っていた。そして全ての生の源であるということも。枝先にたっぷりと茂る葉は、春の陽射しに無限に青く光っていた。

 女は大樹の幹に触れた。

 その瞬間、世界と繋がった。

 そして、理解した。世界はどのように始まり、どのように終わるのかを。そして辿るべき運命とは何かも。

 すでにこの地上のどこかに生まれている自分と姿形が似た生き物は、いずれ世界の隅々まで増えて行き、この緑の地の覇権を握るだろう、と女は思った。ならば、この大樹の力を手に入れて、その上で彼らを我が胸に誘い込み、この木が”最後の時”を迎えるまで抱きしめてやろう。

『私はもう独りじゃない。これからは、二度と……』

 ゆっくりと目を瞑った。風が優しく吹き去った。女は大樹と一つになった。

 ――暗い地の下で、細かく無数に張り巡らされた根。

 いくつかの太い根から分かれた細い根が、さらなる暗い地中へと向かって限りなく伸びていく。

 しかし、その数えきれないほど分かれた根は、次第に一つに束ねられて行き、一本の太い幹となる。

 下へ向かって伸びていたものが、今度は日の光へと向かって伸びていく。

 幹は再び空で無数に分かれ、枝となる。

 同じことの繰り返しに見えるこの形にこそ、神秘があることに女は気づいた。

 四方八方に伸びるそれらの枝には、たっぷりと葉が生い茂り、時と共に豊かな緑を育てていく。その果てには、麗しい果実が実る――。

 目を開けた。大樹に宿っていた力は、いまや若く美しい女のものとなった。

 この生命の楽園で唯一、”全ての世界の形”を知る者となったのだ。

 身内に耳を傾けた。あらゆる生命の鼓動が聞こえる。確かにこの地は自分のものになったのだと知った。世界が時を刻む音が、聞こえ始めた。

 自分が作る、自分だけの、新しい世界。

 全ての世界は、生命は、別れから始まるからこそ、出会う。出会うからこそ、別れる。次の出会いのために繰り返すのだ。結ばれるそれぞれの縁に二つとして同じものはないということは、時が証明するだろう。

 いつか、どこかの地で出会う誰かを想像して、女は静かに微笑んだ。



 結木ミノルは俳優になる夢を見て今日もレッスンに励んでいた。傍で控えながら、いま目の前で演技している二人のレッスン生を眺めている。「とある女の子のことがずっと前から好きで打ち明けられずにいたがそこから何年も間が空いた後に告白するシーン」の台本を、講師に見てもらいながらレッスン生が一人ひとり演じている。彼は先ほど演じて「感情が感じられない」と一蹴され、悔しい思いをしながら床に座っている。

 ミノルは現在二十六歳で、ここにいる七人のレッスン生の中では一番年上だ。ここのメンバーは二十歳前後の男女が比較的多く、次いで二十四歳、そしてミノルだ。彼は夢を見るには少しばかり遅すぎた。それは彼自身わかっているのだが、これこそが二年前に人生で初めて見つけた本当にやりたいことだった。だから、それまで何年間も自分の将来像に悩んだ分、数ある道の中で選び抜いたこの道を信じてどれだけ困難でも突き進んで行こう、そう思っていた。

 しかし、そうは言っても俳優を目指しているにもかかわらず、いま彼が住んでいるところは東京や関東圏ですらない。彼が子供のころから生まれ育った九州の熊本だ。世間一般的には俳優などの芸事を目指す人間は上京することからスタートするはずだが、彼もそのつもりだったのだが、日々働いている田舎の安い賃金のアルバイトでは、上京の費用とレッスン代をセットで稼ぐことは厳しかった。だから、せめてこのふるさと熊本にいながら少しでも夢を前進させたいと思った結果、こうなったのだ。

 ミノルはその選択は間違っていなかったと思った。曲がりなりにも彼は演技レッスンを受けながら「夢が前に進んでいる感覚」を味わっていた。それに、こうした誰かが考えた物語の中の、自分ではない誰かの感情を言葉に乗せて喋っているときは、演じるということの楽しさを感じられていた。

「それじゃ最後、ミノル! もう一回いっとこうか」

 と講師の声でミノルは勢いよく立ち上がり、部屋の壁の半分が鏡張りされている明るい稽古場の中央に出た。そして、講師の合図が入る。

「よーいスタート!」

彼は相手役の女性へ向けて、すでに頭に入っているセリフを言った。今度はこのシーンの感情が出せるはずだ、彼はそう思った。

「お互い、この五年間でいろいろ変わったよね。

 大学卒業して働き始めて、住むところも変わって、新しい友達もできたりして」

 彼はそこで一旦言葉を切って間を作った。

「いろんな人に会って、いろんな経験したけど、それでもこの五年間、君の顔だけは忘れたことがなかった」

「……僕は、君が好きだった。いや……」

 彼は女性の目を見据えて言った。

「君が好きだ」


 街はクリスマス色に染まっていた。

 十九時半にレッスンが終わり、他の生徒たちとも別れ、ミノルは一人長い歩行者天国を歩いていた 。この大きな屋根付きの歩行者天国は、片側二車線の道路の真ん中に路面電車のある大きな通りまで伸びている。そこに至るまでにありとあらゆるジャンルの店がひしめいている巨大な商店街だ。東京や大阪の大都市と比べると圧倒的にさみしい品揃えだが、熊本に住んでいる人間はここ「下通(しもとおり)」が街の中心地なのだ。若者たちの夜遊びの拠点であり、クリスマスのようなイベント事になるとその度にそのイベントに合ったコスプレをした若い男女がスーツの中年男性たちに混じって歩いている。

 暖房がきいた空気が換気扇を通して寒空に解放される下通の入口に至るまで、いたるところにクリスマスの装飾が散りばめられていた。そのおかげでいつも以上に下通は光り輝いて盛り上がっているように見える。そして通りのあちこちに見える、互いのコートを擦り合わせるようにして歩いている男女のカップルがその雰囲気を確かなものにしている。

 ミノルにも彼女はいた。つい数か月前までは。それが今では一人寂しく周りのカップルの温かな触れ合いを見てほくそえんでいる側の人間だ。

 ここ何年もの間、クリスマスは必ず彼女と過ごしており、一人でその日を迎えるということはこれまで一度も経験がなかった。だから十二月に入ってからというもの、今年は寂しいクリスマスを過ごすということを意識し始め、だんだんとそれは強まり、強い違和感となっていま彼の心の中の大部分を覆っている。

 彼は通りを歩いていた。寒さから逃れようとするように駐車している自分の車を目指して、足早に歩いていた。するとだんだんと頭の中で、先ほどのセリフが蘇ってきた。

<いろんな人に会って、いろんな経験したけど、それでもこの五年間、君の顔だけは忘れたことがなかった。僕は、君が好きだった。いや、君が好きだ>

 稽古場では全くそんな風には思っていなかったが、今ではこの言葉がまるで彼の本心から出てきたかのように感じていた。このセリフは講師が書いてきた、ストーリーもセリフも全くの架空のもののはずだった。それなのに、だんだん彼自身の人生のワンシーンを切り取ったような気がしてきていることに、彼は奇妙な感情を抱いていた。レッスン中にずっと「自分の言葉にして本当の感情をこめてセリフを言うんだ」という努力がこのようなことを引き起こしているのかと訝った。

 自分の車を駐車している立体駐車場に着き、車に乗り込んだ。

 <君が好きだった。いや、君が好きだ>

 エンジンを点ける手が一瞬止まった。

 なぜ今、”ある一人の女性”の笑い顔を思い出したのか、その理由が分かるよりもずっと前に「なぜ今、”彼女”が僕の傍にいないのか」ということへの悔しさとやるせなさが混じった微妙な感情が湧き上がってきた。




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