冷えた町(2089年新装版・虹の下の獣より抜粋)

森エルダット

冷えた町

 ――岩手の日中最高気温は3℃、最低気温は−7℃。ところにより風が強く、雪が降ることも。しっかりと防寒対策をして外にお出になってください。


 はぁーっ。息が白い。肌を刺す乾いた外気と、無音でこちらへ降りてくる雪が、この町を黙らせている。

 四方を囲む背の低い山が、一面の田んぼと、ぽつぽつと固まっている瓦屋根の家を睨む町。あいまいで透明なピストンを、空から押し込まれているような町。悪いわけじゃないけど、自分の町を良いところと言うのにはわずかなラグが生じる町。そんな私の町。

 玄関を曲がって前の道に出るとき、いつも心拍数がふえる。家の前には彼がいるから。いつも静かでまっすぐで、このぼやけた閉塞感を貫いてくれる彼が。

 左手の手袋を外して、冷たいコンクリートの肌を触る。未だに慣れない。ほんとは何も悪くないはずなのに、何かいけないことをしているみたいで落ち着かない。自然と周りを気にしてしまう。背の高い彼は何も言わない。だから、もう少しもう少しとつい長めてしまう。

 がごがごがごがご。バイクの音が聞こえて、心臓が止まりそうになった。郵便局員さんだ。赤いバイクは何も知らずに、滑稽に通り過ぎた。今通り過ぎた道の脇が、一秒前にどういう意味を持っていたかなんて、永遠に知ることはないし、理解もできない。私と彼の永遠の秘密。誰も侵せない聖域。すこし体温が上がった。また今日も義務教育が二人を分かつ。


 雪に足を取られていつもより遅く学校についた。窓の薄い結露の落書き。もう賞味期限が切れた部活案内のチラシ。外よりはましでも寒い廊下を抜けて、かじかむ手で教室のドアを開ける。うぉうん。一気に熱気がなだれこむ。急いでドアをぴしゃりと閉めた。冬の教室と廊下は指輪物語みたいに別世界だ。

「おはよー! 佳乃」

「おはよう」

「ねえ、あの映画もう見た?あの、あれ、なんだっけ、えっと、デカブ……」

「デカブリストの妻?」

「それ!」

「佐保にしては随分重めなやつじゃない?」

「そうなんだけど、なんか気になるんだよね。早く見なきゃって感じがするっていうか」

「なにそれ、ふふっ。いいよ。見に行こ」

「よっしゃ。いつ空いてる?」

「今週のね、日曜なら」

「決まり」

佐保が拳を突き出してきた。私も拳を突き合わせる。

「いひひっ。じゃあいつものとこでいいでしょ?」

「あそこ潰れたよ」

「え、嘘。あの名前よくわかんないデパートん中のやつだよ?」

「それそれ。もともとあそこ閑古鳥鳴いてたし」

「うわーっ。じゃあ町の外まで行かないとじゃん」

「うちの町はいろいろと冷え切ってるからねえ」

「言えてる。人口流出率も全国トップテンを今年も保持らしいよ。あ、ていうか佳乃はさ、高校どこ行くの?」

「え、うーん。まだあんまり」

「佳乃なら一高も行けるんでしょ?」

「目指せるって言われただけだよ」

「それでも佳乃が行くようなのとこって、ここらへんあんまないでしょ? あーあ、こんな貴重な人材も流出か」

「いや、多分近くのとこにする」

「え、なんで」

「そりゃだって……。うーん……なんだろう。えっとね、うまく言えないけど、遠くへ行っても変わらないって感じがするの。だったら、別に家の近くで通えるところでいいなって」

「なんだ。わたしと近くの高校じゃないのが寂しいからじゃないんだ」

「ふふっ。それもあるよ。金井先生言ってたじゃん。省略は筆者がいじわるでやってるんじゃなくて、当たり前だから言わないんだって」

「なにそれ。初耳」

「前に授業で言ってたじゃん」

「嘘。待って、思い出す。絶対言ってないよ。……あ、ふへへっ。佳乃、そういえばさ、昼休み……」

 キーンコーンカーンコーン

 ガラガラっ

「みんなおはようございまあっす。うっし、席つけー」


 もうチャイムが鳴った。田島が教室に入る。佐保は小さくまた後でといってにかっと笑い、自分の席に戻った。私の大切な関係には、いつも邪魔ばかり入る。

 今日は水曜日だから美美英国数。五時間で終わるかわりに、一週間で指折りのつまらない日。その中でもましなのは国語かな。最近の範囲の小説はそれなりに面白い。中身のないホームルー厶が早々に終わる。佐保が私の席に来る。辛い辛い彼との隔離生活を耐えられているのは、あなたのおかげだよ。


 金井先生は授業で催眠術を使う先生の一人だ。話のテンポや声質が入眠に最適化されているらしい。でも、私は珍しく先生の授業で寝たことがない生徒だ。たぶん国語が好きだからなんだろう。先生の話はゆったりしてるけど、耳を傾ければそれなりにはおもしろい。だけどそんな先生の話も、教科書の内容も、今日は入って来なかった。今日はというか、今日も入ってこなかった。気がつくと窓の外を見ている。なんだっけ、find myself ingだったっけ。特に理由があるわけでもないのに、目線が数十度黒板からずれている。窓の外では鈍色の雲から、嘘みたいに白い雪が落ちてくる。その向こうに、無意識に誰かを探しているような気がする。外を眺めて音の消えた世界に一人入っていると、唐突にチャイムが鳴り響いてはっと我に返った。気づけばメロスは、すでに裸で帰り着いていた。


 この前の席替えで入れられた女子一人の班で、何度目かの無言の給食を終えた。さすがにこの気温では休み時間に外に出る男子もおらず、教室は普段より賑やかだ。ヘッドホンの代わりに、カバンから図書室で借りた年代物の蜘蛛の糸を取り出す。栞を外して、喧騒を薄める。やはりこの小説には不思議に肉々しい現実感があって、ああ文豪とはかくやと思う。読み終わるとほぼ同時に、佐保がタイミングよくどこからか飛んできた。多分見計らったわけでもない。私達はそういうものなのだ。

「佳乃。ふへっ」

なんだか佐保の口角はいやに上がっていた。

「どうしたの」

「あのさ、ちょっとでいいから、何も聞かずについてきて」

「なにそれ。ちょっと怖い」

「いいからいいから」

「まあ、いいけど」

 佐保は私の手をとって廊下を小走りする。廊下寒っ。流石に誰も教室から出ようとはしないだけある。場所はどこに向かってるんだろ。というか、なんでそんな急ぐように手を繋いでるんだろう。佐保はあまり使われていない、3階へ続く西階段の踊り場で足を止めた。

「佳乃。佳乃佳乃佳乃。西田佳乃さん」

「は、はい」

佐保はにっと笑って、声を抑えて、なにか期待しているふうにわたしの名前を連呼した。

「ねえ、佳乃。わたし気づいてるよ」

「え、何」

「佳乃さ、……最近恋してるでしょ」

――――ひぃえっ!?

「ひぃえっ!?」

「しっ! 周りに聞こえる!」

「いぇ、あ、ご、ごめん」

「へへっ。佳乃って嘘つけないからほんとわかりやすいよねぇ。男っ気なんてちょっと前までちっともなかったのに」

「いや、あのそんなことは」

「この反応で言い逃れできるとでも? へへはっ。え、で、誰? クラスにいる?」

「いや、えっと……」

「安心してって、誰にも言わないに決まってるじゃん。あ、でも、もし佳乃がその人と話すきっかけほしいとかだったら、わたしに出来る事だったらなんでも言って」

「えっと、その……」

「ねえ、佳乃。わたし健太に告白しようとしたとき、まっさきに相談したの佳乃だったでしょ」

「う、うん」

「わたしあのとき佳乃に相談に乗ってしてもらって、すっごく助かった。ほんとに感謝してる」

「どう……いたしまして」

「だから、わたし佳乃がそういうことで悩んでたら、力になりたい。それに親友として、佳乃がどんな人に惹かれたのか、あ、いや、これは好奇心とかじゃなくて変な虫がつかないかってことで…いや、正直好奇心もあるけど……、あ、ほんとに言いたくなかったらもちろん何も言わなくていいんだよ。え、ていうか、佳乃、最近ぼーっとしたりとかしてたのって、そういうことだよね?」

わたしは回らない頭ですこしだけ逡巡する。うそもつける。いや、うそっていうかあれを恋というのかは不確かで、そもそもわたしは……あれ、気づくと、小さくうなずいていた。佐保は両手で口をおおって、いまさら何だか聞いちゃいけないことを聞いたみたいな風な態度をしてる。わたしもはんしゃ的に両手で口をおおう。ほっぺたが熱くなっているのが、てのひらから感じる。多分いまわたしのほっぺはまっかなんだろう。私にこんな、乙女な部分がのこってたことにおどろく。

「え、じゃあ、その……ふ、ふふっ。へへっ。なんか、わたしの方が恥ずかしいんだけど」

「そっちが聞いてきたんでしょ!」

「ご、ごめん。んで、あ、いやもちろんほんとに嫌ならいいんだけど……その人って、うちのクラスの人?」

佐保をみて話せなくて、防火とびらの方に目をそらしながら、首をちいさく横にふる。

「あ、じゃあ、2組の人……なんだ」

もういっかい、同じように首をふる。

「え!? あ、……もしかして、先生?」

なんでわたし、こんなに正直に答えてるんだろう。でも、そうしたい気持ちがあって、佐保には知ってほしくて、それで、それで…

「今日!」

「ひゃあ! わ、声大きいよ佳乃!」

「あひっ、ごめん」

まとまってない頭で、口を動かす。

「こょ、今日。今日。その……会わせてあげる」

「え、会うの? わたしが?」

「そう」

「そんな、わたしいきなりご挨拶みたいなの…ていうか、そちらさまは大丈夫なの」

「……うん。だと思う」

「あ、そう。でもそんな、わたし初対面なのになんで会うことなんか…てか、そもそもどこで会うの」

「うち来て」

「は。佳乃の家? ちょっと、どういうこと? わたしの頭じゃよくわかんないよ。もっと具体的に……」

「うるさいな。何も言わずにこんなとこ連れてきたくせに。黙ってついてきてよ」

「それは、いや、確かに……。うん、わかった。今日放課後でしょ?行く。塾ないし。一回家戻って着替えてきたほうがいい?」

「いや、そんなおめかしみたいなのは大丈夫」

「あ、そう。じゃあ放課後、一緒に帰る?」

「……うん。それで」

 なんで私はこんなことを言っちゃったんだろう。勢いにまかせてなんだかすごいことを約束した気がして、でも、ずっと前からこうしたかったような気もして、なぞの期待感がふつふつと沸き上がってくるのを感じる。ああ、ほっぺだけじゃなくて、全身があったかい。熱にうかされるってこういうことを言うのかな。そんなに、悪いことじゃないな。


 初めて数学の小テストを解ききれなかった。頭の中にでろっとしたもやが充満していて、2次関数の因数分解ができなかった。先生の話もぜんぶ右から左へ抜けていく。なんだかさっきまで私の中を満たしていた何かが、急速に消費されてしまった気がする。落ち着かなくて、貧乏ゆすりが止まらない。お腹がきゅうと縮こまる。一定のペースで進む時計の針が、私の心拍数を着実に加速させていった。

 授業の終わりを告げる鐘とともに、みんなはこれでやっと帰れると少しだけ張っていた教室の空気が緩んでいく。同じ教室で、今にもちぎれそうな程きりきりと、私の心が張り詰められていくのを感じた。授業終わりの自分のノートは、今朝の雪を思わせる美しい白さだった。

 佐保は帰りの会が終わるとすぐに私を捕まえて、本当に行くのか確かめてきた。私はもちろんと言った。なのに、家への歩みは重い。足がなんだかくすぐったくて、心臓は息切れをしていて、頭は絶縁テープがつっこんであるみたいに脳みその回路が繋がらない。自分が中学生なのか死刑囚なのかよくわからなくなったような気分がする。


「数学の小テスト簡単じゃなかった? わたし今日こそはいい点取れたと思う。計算ミスしてなければ、2つミスかな。すごくない? わたしにしてはだけどさ」

「うん」

「あ、ていうか映画のチケットどうする? わたしネットで席取っておこうか?」

「うん」

「……映画のポップコーン佳乃のおごりね」

「うん」

「え。……じゃあ、わたしキャラメルポップコーンのLで」

「うん」

「佳乃?ねえ、もしもーし」

「――え? ごめん、何か言った?」

「佳乃大丈夫? 具合悪い?」

「え。いや、ううん、大丈夫」

「ほんとに? また今度にしよっか?」

「大丈夫。大丈夫だから」

「そう? ……そんなに込み入った話なの?」


 息が止まる

「そんなことない、ないけど」

「わたしさ、」

「なんで佳乃が家まで来てって言ったのか考えてたんだけどさ、」

待って

「間違ってたらごめんね。」

待ってよ

「佳乃が好きなのってさ、」

やだ

「もしかして、」




「――アイドルの人、とか?」




「………は?」

「え、違うの? だってさ、学校にスマホ持ってけないから見せられないし、だから家に行って、その人の写真とかグッズとか見せたいんだなって思ってたんだけど」

「はぁ。」

「ほら、推し?だっけ。わたしはよくわかんないけど、佳乃ってなんかそういうの好きそうだし」

「そう……なの?」

「な気がしてたよわたしは。でも、そうでもないとするとほんとに想像つかないや」


 首の皮一枚で繋がった気がした。わかってる。当たるはずない。それに、これから自分で告白をするというのに、こんな気分になるのは矛盾してる。でも、助かったと思う気持ちも確かに存在していて、ああ、もう何が何やらわからない。通学路が絞首台へつながっているように感じる。でも、私に無罪を言い渡してくれる裁判所があるというわずかな希望も確かにあって、ブレザーの中に大きな字で勝訴としたためられた半紙があるようにも感じる。あ、このY字路を右に行けば、道なりだ。彼が、見えた。


 彼まであと数歩。もう、ついた。ついちゃった。

 爆発しそうな心臓。ふらつく足。ここで、いや、待って。あ。とおり過ぎて、あ、ああ。

 いやじゃあ、いっそ向かえさんのとこの人を好きってことにして、今日はいないからってことにして、家であそんで帰ってもらえば、

「佳乃、え、佳乃の家ってこっちでしょ?」

「……」

「佳乃?」

「……ぁ」

「ねえ、佳乃。やっぱ変だよ。どうしたの」

だめ。それは彼への裏切りで、背信で、でもことばが出ない。出ない。たすけを、彼に

「……? なんで上見てんの」

ああ、彼が。ああ。ああ。わたしも彼みたいに、ひとつくらい、とおさないと。

「……さほ」

「え、なんか泣きそうだよ。ほんとにどうしたの」

「さほ、きいて」

さほの目をみる。にげちゃだめ。にげちゃだめ。

「わたしが、……すき、なのは、」


「彼」

ひだりてで、彼にふれた。





「え? …………この電柱? え、何いってんの」

さほの目をみる。彼をこの電柱なんてにどとよぶな。みつづける。てが、あしがふるえる。

「……え?」

さほの目をみる。さほは、わたしの親友だから、わたしのふるえが、寒さのせいじゃないのがわかる。

「……っえ? え?」

さほは彼を見上げる。わたしはさほをみつづける。

「…………は」

さほをみる。さほが視線をおろす。

「佳乃、わたし……」

さほの目をみる。

「…………ごめん。わかんない。なにも。それが……っ…………」

さほの目をみる。わたしはさほの、さほの親友だから、だから……わかる。いま、とっさにのみこんだことばが。


 それが、病気なのかも


 ……わかんない、そんな、そんなの、

「…………わかんない」

もう、だめだ。たまってたものが、あふれた。いえににげこむ。さほがくる。わたしは、とびらをしめる。




 うるさい。

「……乃……けで…………あべ……た」

うるさい。

「から……るい……」

うるさい、ああ。ふとんを剥がす。

「っとでも食べて」

「…………」

喋る力がない。

「ちょっと、目赤くなってるじゃない」

「…………」

「……何があったか知らないけど、ごはんだけは食べれる分でいいから食べなさい。体壊すよ」

この人が私が食卓につくまで延々と御高説を垂れ流すのは目に見えてた。根無し草になった私は、流される他なかった。

 かつてなく重い腰を上げる。若干立ちくらみがした。母親の言いなりになるために部屋のドアを開ける。手すりに全体重を任せながら階段を下る。リビングのドアを開けると、私を嘲笑っているみたいにバカに明るい電灯の下に、シチューがあった。

 意外とシチューは食べられた。いや、「食べる」じゃなくて「入れる」か。味はしない。腹に人間の勝手な都合で具を詰められる七面鳥と同じだ。

「あんた、ふーふーしないで熱くないの?」

そういえば口がひりひりする。なぜか脳内でそれが熱さと結びつかない。ずっと湯冷めみたいに、全身が冷たいまんまな気がする。

「……佐保ちゃんから、電話あったよ。直接謝りたいって、鼻すすりながら言ってた。折り返し電話入れときなさいよ」

佐保は何も悪くない。謝るのは私。だけど、ごめん。もう少し、体を重力にあずけないといけないのが、いつか終わるまで待ってほしい。とんだわがままだよね。ごめんね。ごめんね。


 ようやくあの人が寝た。私は蜘蛛の糸の、地獄の罪人の気分がした。どこも暗闇が充満しているみたいで動く気力はないのに、唯一差している光明にはすべてなげうって縋ろうとする。虫みたいだ。虫か。いっそ私が虫なら、彼にずっととまっていられるのにな。何で私は人に産まれたんだろう。

 パジャマで光明を目指す。玄関のドアを開けると、また雪が降り出していた。靴を履く気力なんて当然ない。夜の雪を裸足で踏みしめると、足の裏を針山が貫いた。突き刺す温度は背筋をのぼって後頭部にまで達した。玄関を曲がる。全てが黒で塗りつぶされていても、そこは幾千回みた家の前の景色。彼の輪郭は手にとるようにわかった。歩みを進めるうち、次第に私を包む外気までもが全身を刺してくる。いつかの時代の拷問みたいだ。もう私に白状することなんて、ひとつだってないのに。

 夜に染まった彼の肌を左手で触る。本当は足の裏の雪のほうが冷たいはずなのに、私の手のひらはひどく温度を認識した。私の手のひらの接触面を通じて、あなたと熱を交換した。いつもやっていたことなのに、何だかすごく特別で、思っていたより気恥ずかしいことに思えた。あなたを見上げる。雪さえ見えない闇の中に、あなたは粛々と輝いている。つま先を立てる。誰かが言ってた。キスに最適な身長差は12cmらしい。くそくらえ。

 私の唇は、初めてあなたを感じた。あんなに出した涙は、未だ尽きることなく頬をつたった。自分の涙を、初めて、熱いと感じた。








 瞬間。

 突風が吹いた。正面からぶつかった風は私の涙の熱を根こそぎ掠め取った。乾燥した外気の中、薄く延ばされた私の涙はすぐに乾いて、まるで何もなかったかのようになった。

 家の前には、山がある。この風は町の向こうから吹いてきた。それで私は、中学に上がって行動範囲が広がったときも、高校で遠くへ行ける可能性が見えたときも、あまり気乗りがしなかった理由がわかった。この息の詰まるような町から出られるのが、何故嬉しくないのかに答えが出たような気がした。いや、違う。そんなんじゃない。とっくに気づいてた。ただ私が目を背け続けてたことを、信じたくなかったことを、こんなことにかこつけて、目の前に露呈させてしまっただけだ。


 この冷えた町は、どこまでも続いている。この温度からは、決して逃れられない。


 人は、本当に絶望したとき、涙の一滴も出ないことを知った。足の力が抜けて、膝から崩れ落ちた。私のとうに冷え切った額と、彼の同じく冷え切った肌とが重なる。私達は、その無力な熱平衡をいつまでも続けていた。

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