第18話 しあわせなけつまつ
とある水曜日の夜、神谷誠は個室のレストランで食事を楽しんでした。
テーブルの向かいには、女性が食事に手もつけずにうつむいて座っている。
誠は女性に視線を向けると、フォークとナイフを置き、口元を拭いて微笑んだ。
「……どうしたの? せっかく愛菜が好きそうな店を選んだのに」
声をかけられた女性……、野村愛菜は顔を上げると、誠を睨みつけた。
「食事なんてどうでもいいから、早くあの写真のデータを消してよ」
「やれやれ。久しぶりに、兄妹水入らずで食事ができたっていうのに、せわしないんだから」
「いいから、早くして!」
「はいはい、分かりましたよ」
誠はスーツの内ポケットからスマートフォンを取りだし、画像フォルダを開いた。そこには、腕を組んでホテルに向かう男女の写真が、大量に保存されていた。男性の方はそれぞれ違う人物だったが、女性の方はすべて愛菜だ。しかも、中には今よりもずっと若く見える写真もある。
「それじゃあ、全部消すけど、本当に大丈夫かな?」
「当たり前でしょ! さっさとしてよ!」
「分かったから、そんなに怖い顔しないで」
愛菜ににらまれながら、骨張った細い指で写真を削除していく。楽しげな表情を浮かべながら、一枚一枚丁寧に。
しかし、ある写真の上で、指の動きは止まった。
「……なにモタモタしてるのよ?」
「ああ、ごめんごめん。この写真も消しちゃって良いのかなって思って。ほら、これ」
そんな言葉とともに、スマートフォンを見せつける。
そこには、笑顔を浮かべた幸二と愛菜が、ホテルに向かう様子が映し出されていた。
「婚約者がいる男性を寝取った記念だし、取っておきたい?」
「……っ、ふざけないで!」
怒鳴り声とともに、愛菜はテーブルを叩きつけた。しかし、誠は動じることなく、微笑みを浮かべている。
「ははは、ごめんごめん。ちょっとした、冗談だって」
「なにがちょっとした冗談よ!? 私にこんな役をさせておいて!」
「させておいて? 愛菜の方から、協力するって言ってくれたんじゃないか。あの男をたぶらかして社会的に追い込むのも、彼女の家の鍵をこっそり開けておくのも、全部」
「それは、あんたが脅迫してきたからでしょ!!」
「脅迫だなんて、酷いなあ。俺はただ、愛菜が結婚前にしてきたことの写真を持ってるって、言っただけだよ」
「それが脅迫だっていうのよ!」
「まあまあ、そう起こらないでって。ほら、これで全部の写真消したから。確認する?」
「ふん」
愛菜は見せられたスマートフォンを奪い取り、画面を睨みつけた。言葉通り、フォルダの中には一枚の写真も残っていない。
「……本当、みたいね」
「嫌だなあ、大切な妹に向かって、嘘なんて吐かないよ」
「……なにが大切よ。一方的に好きになった相手を手に入れるために、汚れ仕事をさせたくせに」
「だから、それは愛菜が自分から協力したいって言ったことだろ?」
「……」
繰り返された問答に、愛菜は深いため息を吐いた。これ以上、この話題を繰り返す意味はないだろう。
「でも、愛菜が協力してくれて、本当に助かったよ。紗江子さんをあんな下らない男から、救うことができたんだから」
「救う、ね」
恍惚とした表情を浮かべる誠に、愛菜は冷ややかな目を向けた。
「そもそも、あんたが邪魔をしなければ、二人でそれなりに幸せになってたんじゃないの」
「ふふふ、そんなことはないよ。彼女の隣にいるのは俺じゃなきゃだめだし、俺の隣にいるのは彼女じゃなきゃだめなんだ」
言葉を続けるうちに、端正な顔が徐々に歪んでいく。
「時間をかけて調べれば調べるほど、彼女は俺と一緒になる運命としか思えなかった。それなのに、あんな男が側にいて……、まあ、偶然にも愛菜と同じ会社に勤めてたのは幸いだったよ」
「こっちは、不幸以外のなにものでもなかったけど」
「そう、むくれないでくれよ。大変だったのかもしれないけど、正しい結末を迎えられたんだから」
「……どこが正しいんだか」
「正しいに決まってるじゃないか。彼女は毎日幸せそうにしているんだから。それに、彼女がいるおかげで、新作の香水作りも順調だし」
「ああ、そう」
投げやりな相槌をうち、愛菜はグラスの水を一口飲んだ。そして、再び誠を睨みつけた。
「……私が先輩が、あんたのことを全部バラしたら、彼女はどうするんでしょうね」
「べつに、どうもしないよ。彼女は俺の方を信じてくれるから」
「もしも、そうじゃなかったら?」
「まあ、その可能性はゼロだけど、そうだな……」
誠は口元に手を当てて、虚空を見つめた。それから、すぐに口元を歪めて微笑んだ。
「俺のことを信じてくれるまで、閉じ込めておくのもいいかもしれない。自由を奪って、愛情と快楽だけを与え続けて……、ふふふ、きっとすごく可愛らしい表情を見せてくれるんだろうな……」
「……そう」
愛菜は背中を粟立たせながら、悍ましい表情を浮かべる誠から目を反らした。
「虚ろな目をして、『愛してる』以外の言葉が言えなくなって……、そう考えると、バラしてもらうのも悪くないのかもしれないな……」
「……」
個室の中には、誠の幸せそうな声と愛菜が息を飲む音が響く。
勤め先で残業をする紗江子には、その様子を知るよしもない。
それでも、誠の狂気を身をもって知る日は、そこまで遠くはないのかもしれない。
婚約者にブランド香水の匂いが気に入らないと捨てられましたが、そのブランドに勤めるイケメン香水職人に溺愛されることになりました! 鯨井イルカ @TanakaYoshio
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