第16話 臭気と香気

 セットの崩れた髪と不精ヒゲ、着崩れたシャツとシワまみれのスーツのパンツ。そんな姿の幸二を前に、紗江子は身動きが取れなくなった。


「随分と遅かったな、仕事で泊まり込みになったのか?」


「……」


 笑顔で投げかけられた言葉に、返事ができない。


「まあ、部屋も散らかってるし、忙しかったんだな」


「……」


「でも、このくらいなら許容範囲だから大丈夫だよ」


 幸二は当然のように喋り続けるが、まったく状況が理解できない。


「……どうしたんだ、ずっと黙り込んで?」


「……なんで、ここにいるの?」


 ようやく絞り出した声で問い返すと、幸二は笑顔を歪ませた。


「なぜって、婚約者の家にいくのに、いちいち連絡が必要か?」


 一方的に破棄したくせに、何を今更。そんな言葉を必死に堪えた。今下手に刺激したら何が起こるか分からないし、そんな言い争いをしたいわけではない。


「そうじゃなくて、なんで部屋に入れたの?」


「え、だって鍵は開いてただろ」


「……え?」


「とぼけなくてもいいよ。合い鍵を持ってない俺がいつ来てもいいように、開けておいてくれたんだろ?」


 そんなはずはない。

 金曜の夜、泊まりの荷物を持ってここを出たとき、たしかに鍵をかけたはずだった。


「ははは。紗栄子のそういう一途なところ、やっぱり可愛いね」


 歪んだ笑顔を浮かべたまま、幸二は近づいてくる。

 逃げないと。そう思ったときにはすでに、歪んだ笑顔が目の前にあった。

 アルコールと皮脂と汗が混じった臭いが、嫌でも漂ってくる。


「少し自分勝手なところも、今では可愛いと思うよ」


 そんな言葉とともに、汗ばんだ手が頬に触れた。嫌な感触と臭気に、吐き気が込み上げる。一刻も早くこの距離から逃げ出したい。少し前までは、なんとも思わなかったのに。


「紗江子、愛してる」


 近づいてくる顔に、全身が粟立つ。


 そして――


「……っ、やめて!」


 ――とっさに頬を張っていた。


「……紗江子?」


 幸二は頬をさすりながら、呆然とした表情を浮かべている。それが無性に、癇に障った。


「……今更なんなの!? 一方的に婚約を破棄したのは、そっちじゃない!」


 怒鳴りつけられて、幸二は目を見開いた。今まで喧嘩をしても、紗江子の方から折れて、声を荒らげることはなかった。


「後輩にちょっと親切にされたからって勘違いして調子に乗って……、現実を突き付けられたら、被害者面して『可哀想なボクを慰めて』? ふざけるのも大概にして! 自分勝手なのはどっちよ!?」


「う……」


 反論をしようとした幸二だったが、言葉がうまくまとまらない。ただ、視点の定まらない目をして、小さなうめき声を出すだけだった。


「私にはもう、幸二なんかと違って、優しい恋人がいるの! 二度と顔を見せないで……」


「なんだとっ!?」


「きゃぁっ!?」


 突然、紗栄子は肩を掴まれ、扉に強く押しつけられた。


「俺という婚約者がいながら、他の男に手を出されたのか!? この――!!」


 猥雑な罵り言葉とともに、手に力が込められる。肩に指が食い込む痛みに、うっすらと涙が浮かんできた。


「久しぶりだから優しくしてやろうと思ったけど……、少し痛い目を見せないといけないみたいだな」


 口元を歪ませた笑みが間近に迫り、指がさらに肩に食い込んでいく。


 誰か助けて。


 そう祈りながら、目を閉じると――


「紗江子さん! 大丈夫ですか!?」


 ――扉の外から、誠の声が響いてきた。


「……ん?」


 幸二は眉をひそめて、ほんの少し手の力を緩める。

 その一瞬の隙を紗栄子は見逃さなかった。


「っ放して!!」


「うぐっ!?」


 渾身の力を込めて、膝で蹴り上げる。すると、当たりどころが悪かったのか、幸二は肩から手を離し、うめき声をあげてうずくまった。

 そんな様子に目もくれずに、扉を開け放ち外へ飛び出す。その先には、焦った表情の誠が立っていた。


「紗江子さん!?」


「神谷さん!」


 なりふり構わず、紗栄子は誠に抱きついた。身体が温かな腕と、リンゴに似た香りに包まれる。


「……無事で、本当によかった」


 優しい声とともに抱き返され、骨張った手が頭をなでた。その途端、今まで堪えていた震えが、全身を襲った。


「怖かった、です……」

 

「もう、大丈夫ですよ」


 誠は宥めるような口調でそう言うと、抱き寄せる腕に力を込める。

 それから、誠は紗江子を抱きしめ、頭をなで続けた。


 身体の震えが落ち着いてくると、紗栄子は再び誠にキツく抱きついた。


「ドアを開けたら、幸二が部屋の中にいたんです……。それで、ちょっと言い合いになって、それからドアに叩きつけられて……」


 状況を説明するうちに、再び身体が微かに震え出した。誠はそれを落ち着かせるように、背中をぽんぽんとなでた。


「そうでしたか……、それなら戻ってきて正解でしたね」


「すみません……、神谷さんはちゃんと忠告してくれてたのに……」


「紗栄子さんが謝ることじゃないですよ。悪いのはすべて、あの男です。なので……」


 誠はそこで言葉を止めると、玄関の扉に顔を向けた。


「……キッチリと落とし前をつけさせないと、いけないですね」


 そう言い放つ顔に、身の毛もよだつほど冷たい笑みが浮かぶ。

 しかし、心地よい香りのする胸に顔を埋める紗江子に、誠の表情を知るすべはなかった。

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