第9話 震えを止める声と香り
紗江子は震える指で、誠の連絡先をタップした。
呼び出し音が少しだけ鳴ると、すぐに通話がつながった。
「こんばんは、紗江子さん。電話をかけてくれるなんて、すごく嬉しいです」
優しく穏やかな声に、ざわついていた心が少し落ち着く。それでも、のどが締め付けられる感覚がし、まだうまく声が出せない。口からこぼれるのは、ひゅぅ、という苦しげな呼吸音だけだ。
「……紗江子さん? 紗江子さん!? どうしたんですか!?」
「あ、の……、少し、時間……、いい、ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
ようやく紡ぎだした言葉に、あやすような声が返ってくる。
「ついさっき、すごく、嫌なことが、あって……」
「嫌なこと?」
「幸二の後輩から、SNSに、メッセージがきて……」
「幸二さんの後輩から……」
「はい……。それで、幸二のことで話したいことがあるから、会いたいって……」
事情を説明するうちに、紗江子の目には涙が浮かんでいた。
「きっと……、また責められるんですよね……、お前は自分のことしか考えていないやつだ、とか、だから婚約者に捨てられたんだ、とか……、ひょっとしたら、自分勝手なくせに被害者ぶってるって言われるかも……」
「……そんなことは、ないですよ」
嗚咽交じりの言葉を、優しげな声が否定する。
「突然、関わりあいたくない相手から連絡が来るなんて、すごく辛かったですね」
「……ん」
スピーカーから聞こえる声に、声を詰まらせながらうなずく。すると、ふふ、という柔らかい笑い声が返ってきた。
「でも、どうか落ち着いてください。あなたが責められるいわれなんて、どこにもないじゃないですか」
「でも、私が身勝手で相手のことを考えなかったから、幸二は……」
婚約を破棄した。
そんな言葉が、誠のため息によってかき消された。
「紗江子さんのどこが身勝手なんですか? 俺としては、その後輩さんとやらのほうが、ずいぶんと身勝手で思いやりのない人間に思えますよ」
「愛菜さんの、ほうが、身勝手……?」
「ああ、愛菜っていうんですか、その人。まあ、どうでもいいですけれども」
スピーカーからは、再び深いため息が聞こえてくる。
「だって、傷ついていることが分かりきっている相手にメッセージを送り付けるなんて、身勝手以外のなにものでもないですよね?」
「そう、かもしれません……」
「そうそう。それに、弱っているところに付け込んで他人の婚約者を奪ったんですから、性格が悪いにもほどがあります」
「たしか、に……」
目をぬぐいながら返事をすると、またしても、ふふ、という柔らかな笑い声が返ってくる。
「紗江子さんはそんな性格が悪い女と、それに引っかかる馬鹿な男に傷つけられた被害者なんですよ。だから、自分を責める必要なんてないんです」
「そう、ですか……」
「ええ、そうですよ。その女のメッセージだって、いっそのこと無視してやればいいんですよ」
「無視、ですか……」
誠の言葉を繰り返した途端、スマートフォンが短く震えた。耳から話して画面を覗くと、またしてもSNSアプリの通知だった。
まだ少し震える指でアプリを開くと、またしても愛菜からのメッセージを受信していた。
先ほどの件、
すごく大事な話なので
どうしても会いたいのですが。
絵文字もなにもない短いメッセージには、どこか悲壮感が漂っているように見える。
「……紗江子さん、どうしました?」
名前を呼ばれ、紗江子は我に返った。
「すみません、また、愛菜さんから連絡があって、どうしても会いたいって……」
「そうなんですか。それはまた、ずいぶんと粘着質ですね……。ああ、そうだ。それなら、俺が同行して、紗江子さんへの嫌がらせは一切やめるように、言ってやりましょうか?」
「えーと……」
誠の言葉に、すぐに返事ができなかった。
たしかに、一緒に来てくれるなら心強い。それでも、要件が本当に他言無用な話だったら、申し訳ない。
それに、相手は婚約までしていた幸二を心変わりさせた女性だ。
ひょっとしたら、今回も……。
「……一人で、大丈夫です」
紗江子の口からは、断りの言葉がこぼれた。
「そう、ですか」
スピーカーからは、残念そうな誠の声が聞こえてくる。
「すみません、せっかく気を使っていただいたのに……」
「いえいえ、紗江子さんが謝ることじゃないですよ……、あ、そうだ!」
突然、誠が声の調子を明るくした。
「明日って、こちらに来られますか?」
「え? 明日、ですか?」
「はい。きっと、お力になれると思いますので」
「そう言っていただけるのは嬉しいんですが、神谷さんの負担になるんじゃ?」
「ふふふ、さっきメッセージでも送ったでしょう? いつ来ていただいても、かまわないって」
「そう、かもしれませんが……」
答えあぐねていると、再びスマートフォンが短く震えた。
紗江子は、通知を確認せずに、スマートフォンをベッドに置いた。それから、ゆっくりと鏡台に向かい、香水を取り出して手首に軽く吹きかけた。
モモとイチゴの甘い香りが、あたりに立ち込める。
紗江子は深呼吸をしてから、ベッドに戻りスマートフォンを手に取った。
「……泊まりがけになってしまっても、大丈夫ですか?」
「……ええ、まったくかまいませんよ」
誠の満足気な声が、耳に届く。
「仕事が終わったらそちらに、向かいます」
「わかりました。なら、駅まで迎えにいきますね」
「ありがとうございます。それでは、今日は遅くまで付き合わせてしまって、すみませんでした」
「いえいえ。紗江子さんとお話ができて、とても嬉しかったですよ」
「ありがとう、ございます……、それでは、今日はこれで……、おやすみなさい」
「おやすみなさい。よい夢を」
優しく穏やかな声の余韻にひたりながら、通話を終了させた。
神谷さんなら、本当に力になってくれるのかもしれない。
そんなことを思いながら、SNSアプリを操作した。
そして、三通目の愛菜のメッセージに、では土曜日の十三時に会いましょう、とだけ返信する。それから、スマートフォンを枕元に置いて、ベッドに倒れこんだ。
「……きっと、大丈夫」
心地よい香りを深く吸い込んでから、紗江子はゆっくりと目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます