第8話 取り越し苦労と不吉なメッセージ
その後、紗江子は普段通りに業務をこなし、大きなトラブルもなく終業時間を迎えた。社屋を出て駅のホームにたどり着くと、自然と安堵のため息がこぼれた。
結局のところ、なにかミスをするかもしれないという朝の不安は、取り越し苦労に終わった。
きっと、白金課長への苦手意識が薄れた嬉しさが、婚約破棄のショックを上回ったからだ。これも、神谷さんがくれた香水のおかげかな……。なら、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
そんなことを考えながら、バッグからスマートフォンを取り出した。画面には、誰からのメッセージも表示されていない。
紗江子はメッセージアプリを起動して、誠とのやり取りを読み返した。
紗江子さんからの連絡なら、
いつでも歓迎しますから。
画面にそのメッセージが表示されると、紗江子の指は止まった。この言葉が本当なら、感謝のメッセージを送っても、誠が迷惑に思うことはないはずだ。それどころか、むしろすごく喜ぶのだろう。
それでも、忙しいときにいちいちメッセージを送るな、という幸二の言葉を思い出し、メッセージを作る指が止まってしまう。
「間もなく、二番線に列車がまいります」
ためらっているうちに、電車がホームに到着した。
紗江子は軽く目を伏せると、スマートフォンをバッグにしまい、車両に乗り込んだ。
メッセージを送る決心がついたのは、食事と入浴を終えたあとだった。
お疲れ様です。
今日は神谷さんの香水のおかげで、
苦手だった上司と
少し仲良くなれました。
素敵なプレゼントをいただき
本当にありがとうございました。
ベッドに腰掛けながら、作ったメッセージを何度も読み返す。
「お礼を言われて……、嫌な気分にはならない、よね……」
そう呟いてから、紗江子はコクリと頷き、送信アイコンをタップした。
すると、すぐにメッセージに既読マークがつき、目を輝かせたウサギのスタンプが返ってきた。あまりの速さに驚いているうちに、画面には返信が表示される。
お疲れ様です。
あの香水が紗江子さんの
役に立ったのなら、
とても嬉しいです!
気に入ってくれて、
本当にありがとうございます!
そんなメッセージのあとに、再び目を輝かせウサギのスタンプが送られてきた。紗江子は画面をみつめたまま、頬を緩めた。
まさか、お礼にお礼を返されるなんて……。そうだ、あの香水はけっこう高価な物のはずだし……、やっぱりメッセージだけじゃなくて、ちゃんとお礼をした方がいいよね。
こちらこそ、
ありがとうございます。
改めてお礼にうかがいたいのですが、
どこか都合のいい日はありますか?
それなら、
これから来ていただいても、
まったく問題ないですよ。
即座に返された突飛なメッセージに、思わず身体の力が抜けた。
さすがに、今からだと
お礼の品も用意できないので、
また、別の日に。
失礼しました。
でも、俺としては
紗江子さんさえいてくれれば、
他になにもいらないんですけどね。
歯の浮くようなメッセージとともに、頭を下げるウサギのスタンプが送られてくる。紗江子は苦笑を漏らしながら、メッセージを入力した。
それなら、
土曜日にうかがってもいいですか?
ええ、かまいませんよ。
なんなら、金曜の夜からでも、
こちらは一向にかまいませんので。
金曜の夜という言葉に、三日前の情事が思い出された。肌を優しくなぞる骨張った細い指や、耳にかかる熱っぽい吐息や、覆い被さる熱い身体の感触が蘇り、背筋が粟立つ。
誠の誘いに乗れば、嫌なことを忘れられるほどの快感を再び味わえるのかもしれない。
では、予定を確認してから、
また改めて、連絡しますね。
紗江子は即答できず、短く曖昧に返信した。
分かりました。
予定が分かったら、連絡ください。
いつでも都合をつけますから。
ありがとうございます。
では、今日はもう遅いので、
このくらいに。
おやすみなさい。
おやすみなさい。
俺はまだしばらく起きてるので、
なにかあれば、
遠慮なく連絡くださいね。
誠のメッセージに、おじぎをする猫のスタンプを返信し、メッセージアプリを閉じた。それから、スマートフォンを持ったまま、ベッドに倒れ込む。
「どうしよう、かな……」
そんな言葉が、思わず口から漏れた。
たしかに、婚約破棄の痛手は予想以上に軽く済んでいる。それでも、幸二のことを完全に忘られたわけではない。
逡巡していると、スマートフォンから振動が伝わった。
また、誠からのメッセージだろうと思いながら、画面を覗き込んだ。
しかし、画面に表示されていたのは、メッセージアプリではなく、SNSアプリの通知だった。首を傾げながら通知をタップすると、見覚えのないアカウントからメッセージが届いていた。
メッセージを開いた途端、紗江子の表情は凍りついた。
突然のメッセージ、ごめんなさい。
長谷川幸二さんの後輩の
長谷川先輩のことについて、
お話ししたいことがありますので
ご都合のいい日に、
お会いすることはできませんか?
「本当の愛に気がついたんだ。彼女は自分がどんなにつらくても、笑顔で俺を支えてくれた」
幸二の声が鮮明に蘇る。
「それに比べて、君は……」
侮蔑に満ちた声が頭に響く中、紗江子の指は無意識のうちに誠の連絡先を呼び出していた。
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