第6話 おやすみとおはよう

 紅茶を飲み終えた紗江子は、名残惜しそうにする誠を置いて、マンションを後にした。

 電車に乗り込み座席に座ると、不意に別れ際の会話を思い出した。


「もしよかったら、明日もここにきませんか?」


「すみません。日曜日は、家でゆっくりしていたいので」


「そうですか……、それなら、淋しいですがしかたないですね。ゆっくり休んでください」


 そう言いながら淋しげに笑う誠の顔が、鮮明に蘇る。


 一晩世話になった相手に対して、少し冷たくあしらいすぎたかな?

 それに、高価な香水ももらったのに。

 それでも、私はまだ幸二のことが……。


 そんなことを考えながら電車に揺られていると、ハンドバッグの中からかすかな震えを感じた。

 きっと幸二からのメッセージだ、そう思いながらスマートフォンを取り出し、画面を覗き込んだ。しかし、表示されていたのは、誠の名前だった。

 ため息を吐きながら画面をタップすると、メッセージが表示された。


 

  お疲れ様です。

  紗江子さんと過ごせて、

  とても幸せでした。

  またいつでも

  遊びに来てくださいね。


 

  お疲れ様です。

  こちらこそ、

  色々とお気遣いいただき、

  ありがとうございました。

  何かありましたら、

  また連絡します。



 社交辞令的なメッセージを返すと、すぐに既読マークがついた。



  ぜひ、お願いします!

  紗江子さんからの連絡なら、

  いつでも歓迎しますから。



 画面に表示されたメッセージに再びため息を吐きながら、それはどうも、とだけ返信した。

 そうしているうちに、電車は目的の駅まで到着した。


 自宅の賃貸マンションに戻ると、紗江子はすぐにベッドへ倒れ込んだ。そして、スマートフォンを取り出そうと、ハンドバッグをゴソゴソと漁りだした。すると、手の甲に何か硬い物が触れた。


 目を落とすと、それは誠からもらった香水の箱だった。


 紗江子は箱を開け、中のビンを取り出した。

 花びらを模したフタのついたしずく型の小さなビンは、相変わらず可愛らしい。


 返事が来るはずもない画面を見続けるより、このビンを眺めていた方が有意義かもしれない。

 

 そう思いながら、香水のビンを手の平に遊ばせた。辺りには、かすかにモモとイチゴの混ざった香りが立ちこめる。


「本当に、いい香り」


 自然と、そんな言葉が口から漏れた。それから、すぐにまぶたが重くなり、そのまま深い眠りへと落ちていった。



 紗江子が耳元で聞こえたくぐもった振動音に気づくと、部屋には明るい陽射しが差し込んでいた。

 慌ててバッグからスマートフォンを取り出すと、画面に表示された日付は既に変わり、時刻は午前八時になっていた。

 

 それと、誠からのメッセージが二件、通知されたいた。

 一件目は、昨日の午後十時に受信した「おやすみなさい。どうか、いい夢を」というメッセージで、もう一件目はつい数分前に受信した「おようございます。今日が紗江子さんにとって、いい一日でありますように」というメッセージだった。


 紗江子はぼんやりとした頭で、誠にメッセージを返した。



  おはようございます。

  返信が遅くなってすみません。

  神谷さんも、いい一日を。



 メッセージには、またしても即座に既読マークがついた。



  ありがとうございます!

  紗江子さんも、いい一日を!



 すぐにそんなメッセージと、なんとも形容しがたい笑顔を浮かべたウサギのスタンプが返ってきた。その絶妙なウサギの表情に、ふふ、という笑い声が思わず口から漏れた。



  そのスタンプ、何なんですか?


  

  あれ? 可愛くありませんか?


  

  可愛い、というより、面白いです。



  そうなんですか……。



 画面には、ションボリとしたウサギのスタンプが表示される。

 再び口から笑い声が漏れた。



  でも、おかげで少し

  元気がでました。



  それならよかったです!



  ありがとうございます。


  

  いえいえ。

  紗江子さんが喜んでくれるなら

  なによりですから。



 そんな他愛もないやり取りを続けているうちに、時刻はいつしか正午になっていた。


 メッセージのやり取りが一段落すると、紗江子は食事とシャワーを済ませベッドに横になった。スマートフォンを手に取り、改めて誠とのやり取りを眺めているうちに、自然と顔がほころびていた。

 

 誰かとこんなに長くメッセージを交わしたのは、久しぶりかもしれない。そう思うと、不意に昨夜の幸二の姿が目に浮かんだ。



「それに比べて、君は俺を気遣うメッセージの一つも、送ってくれなかった」



 思い出した言葉に、胸が締め付けられる思いがした。ただし、悲しみだけでなく、かすかな苛立ちも感じた。


 幸二と交際しはじめた頃から、メッセージを送るのはいつも紗江子の方からだった。

 おはようやおやすみ、という簡単なメッセージですら幸二から送られたことはない。それどころか、風邪を引いてデートに行けないという連絡にさえ、「分かった」という短い言葉の他に、体調を気遣うような言葉はなかった。

 それに、忙しいときにいちいちメッセージを送らないで欲しい、と言ったのも幸二の方からだった。


 やり場のない思いがこみ上げ、紗江子はベッドから立ち上がった。そして、鏡台に向かい、引き出しにしまった香水を取り出した。


 手首に一吹きすると、甘い香りが広がる。その香りに包まれているうちに、気持ちが段々と穏やかになっていった。



「俺は貴女を傷つけたりしませんよ?」



 不意に、誠の言葉を思い出した。


 こんなに優しい香りを作れるんだから、きっとそうなのかもしれない。

 心地良い香りに包まれながら目を閉じると、誠の優しげな微笑みがぼんやりと浮かんだ。

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