第5話 決別とはじまり

 朝食を終えると、誠は洗い物をしにキッチンへ向かい、紗江子は着替えのためにいったん寝室に戻った。

 

 昨夜来ていたドレスに着替えると、紗江子はスマートフォンを手に取った。

 幸二からのメッセージは、一通も届いていない。

 念のため、SNSのアプリをチェックしても、結果は同じだった。


「本当に、私はいらなくなったのね……」


 深いため息とともに、そんな言葉がこぼれた。それでも諦めきれず、変化のない画面から、なかなか目が離せない。

 十分ほどそのままでいると、寝室のドアがノックされた。


「紅茶を淹れたので、着替えが終わったらリビングへどうぞ」


 聞こえてきたのは、誠の声だった。


「あ、ありがとうございます」


「いえいえ、ではお待ちしていますね」


 ずっとここに居るわけにもいかない。そう思いながら、紗江子はスマートフォンをハンドバッグにしまい、寝室を後にした。


 リビングのドアをあけると、ソファーの前のテーブルにティーセットを並べていた誠が笑顔で振り返った。


「さあ、こちらへ……、あれ?」


 しかし、その表情は、ハンドバッグを手にした紗江子の姿を見て、すぐに訝しげなものになった。


「その格好、どこかへおでかけですか?」


 その質問に、紗江子も訝しげに眉をひそめた。


「おでかけ……、というか、そろそろ失礼しようかと」


「失礼……、ああ! そうですね、いったん着替えやその他の荷物を取りに、戻らないといけませんからね!」


「え……?」


 晴れやかな表情になる誠と対照的に、紗江子の表情は更に怪訝になっていく。


「あの……、何の話をしてるんですか?」


「え? だって、今日からここで、一緒に暮らすんですよね?」


 唐突すぎる言葉を受け、深いため息が口からこぼれた。


「なんで、そんな話になるんですか……」

 

「なんでって……」


 誠は笑顔でそう言うと、ゆっくりと近づいてきた。そして、身構える紗江子の頬に触れた。 


「……貴女が運命の人だからに、決まってるじゃないですか。昨日、言ったでしょう? もう離してあげませんよって」


「それは……」


 目の前にせまる整った顔に、鼓動が早まっていくのを感じる。

 

「幸二さん、でしたっけ? その人との婚約は、無かったことになったんでしょう?」


「そう、ですけど……」


「それとも、やっぱり婚約破棄はとりやめる、という連絡があったんですか?」


「……」


 誠の言葉に、返事ができなかった。

 酷いフラれかたをしたというのに、心のどこかでまだ幸二を諦めきれない。それでも、ハンドバッグの中のスマートフォンは、静かなままだ。


「……まあ、もしも今さら思い直していたとしても、貴女を傷つけるような愚かな人のところに、返すつもりはありませんけどね」


 そう言いながら、誠は親指の腹で唇をそっと撫でた。


「……っ」


 唇をなぞる指の感触に、思わずびくりと肩が跳ねる。指が往復するたびに昨日の情事が思い出され、自然と表情がとろけていく。その様子を見て、誠は笑みを深めた。


「ふふふ、やっぱり貴女は愛らしいですね」


「……! か、からかわないで、ください!」


「あははは、すみません。でも、からかったわけではないですよ」


 誠はそう言うと頬から手を離し、紗江子の手を取った。


「俺は貴女を傷つけたりしませんよ?」


「……」


「それに、失恋の痛手を癒やすには、新しい恋が一番だと聞きます」


「……」


「あと……、身体の相性も、悪くなかったと思いますが?」


「な、なんてことを言うんですか!?」


「あははは、冗談ですよ、冗談。でも、悪い話ではないと思いますよ?」


「そうかも、しれませんが……」


「……それとも、新しい恋の相手が俺では、嫌ですか?」


「そういう、わけでは……」


 別に誠が嫌だというわけではない。

 ただ、昨日から急激に色々なことが起こりすぎているため、少しゆっくり考えたい。


 紗江子が黙り込んでいると、誠の笑みが少しだけ悲しげなものに変わった。


「困らせてしまったみたいですね」


 その笑顔に、罪悪感がこみ上げてくる。


「すみません……、少し一人で考えたいんで、答えるまで時間をもらえますか?」


「ええ、かまいませんよ、俺はずっと待ってますから。ああ、そうだ、帰るというなら、渡しておきたいものがあるので、ちょっと待っていてください」


 誠はそう言うと、紗江子の手を離し、リビングを出ていった。それから少しして、小さな箱を手にして戻ってきた。中身は、昨日と二年前に紗江子が選んだあの香水だった。


「こちらをどうぞ」


 誠に香水を差し出され、紗江子はたじろいだ。


「え……、でも、こんな高価なものをいただくわけには……」


「いえ、いいんですよ。貴女にもう一度会うことができたら渡そうと、ずっと思っていましたから」


 そう言いながら、誠は紗江子の手に香水を握らせた。


「だから、受け取ってください、ね?」


「……分かりました。ありがとうございます」


 紗江子は軽く頭を下げて、香水をハンドバッグにしまった。それを見て、誠は満足げに微笑んだ。


「いえいえ。それでは、冷めてしまう前に、紅茶を飲みましょうか」


「そう、ですね……、いただきます」


 そうして、二人はティーセットの並べられたテーブルに向かった。

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