第5話 疑念

 梓忠しきただが去った後も絃葉は暫くその場に立ち尽くしていた。あの妖狐と家臣たちが鉢合わせるのも時間の問題かもしれない。不穏な影が迫り来るような感覚に思わず身震いする。


「……でもあの妖狐はお母様の事を絶対知ってる」


 梓忠と出会った妖狐──男の言動と様子。それを重ねると自然とその答えへ辿り着いた。それにあの男が告げた、またあの悲劇を繰り返す訳にはいかない──その言葉が妙に引っかかり、知らなければいけない使命感のようなものが絃葉を奮起させた。


「でも今日は部屋に戻らないと」


 これ以上、梓忠や時之に迷惑をかける訳にはいかない。外出を提案されたとはいえ、その誘いに乗ったのは自分自身だ。絃葉は闇に包まれた庭を一瞥し、梓忠の部屋へと向かう。受け入れてもらえなくとも、改めて謝る必要があるのは確かだ。渡り廊下を歩くと、ある一室から灯りが漏れていた。耳を澄ますと家臣と梓忠が何かを話しているのが聞こえてきた。日を改めようと踵を返したその時。


「──あの妖は数十年前の妖だと思われます」


 反射的に絃葉は足を止める。先程の妖狐を見張りが目撃していたのだろう。淡々と告げる家臣の声音には怨嗟が滲んでいる。


「やはりそうか。また屋敷周辺で妖がうろついてると思えば。次現れたその時は屠れ」


 悍ましく残酷な言葉に絃葉は後ずさる。明日あの妖狐は来ると言っていた。鉢合わせたら対峙は避けられない。全身の血が引いていき、指先が小刻みに震える。早くこの場を離れなければ。そんな焦燥に駆られて覚束ない足で駆けだした途端、曲がり角で着物の裾に躓き、体が大きく傾いた。咄嗟に目を瞑るが、覚悟していた痛みと衝撃はいつまでたっても訪れない。


「っ、絃葉様?」


 頭上から声がかかる。徐に見上げると、時之ときゆきが絃葉を支えていた。


「お怪我はありませんか?顔色も悪いようですが」

「……時之」


 咄嗟に距離をとった絃葉が来た道を一瞥すると、時之は察した様に頷く。


「梓忠様の命で今から会議を」

「……そう。時之もあの妖を討伐するのね」

「……何故それを?」

「さっき廊下を通ったら聞こえたの」


 思い出すだけで声が震える。斬り合いや仇討ちなど武家なら身近だというのに耳にしただけで足が竦んでしまう自身が情けない。一族が切り抜けてきた戦場など想像しただけで慄く。


「……あの妖と外に出たのですか?可笑しいとは思ったのです。突如意識が混濁した感覚があり、正気に戻ったら絃葉様がいらっしゃらなかったので」


 時之は一呼吸おいて続ける。


「絃葉様。妖は人をたぶらかすものです。色葉様も絆され、命を落としました。貴女が幼い頃に。ですので私達──いえ、私は討たなければならないのです。主な始末は私が請け負っているので」

「……そうなのね。でも誑かすなんてそんな事」


 無いと言い切れるのだろうか。あの妖狐は誑かす為だけに絃葉に近づいたというのだろうか。そんな懐疑が芽生える。去り際に見せた翳りを帯びた表情は偽りなのか。違うと言いたかった。だが、確信も無いのに反論する事はできない。


「っ、こんな遅くにごめんなさい。今日は……部屋に戻るわ」


 微笑み、絃葉は来た道を戻る。上手く微笑んだつもりだが、恐らく顔は引きつっていただろう。自覚しつつも襖を開け、寄りかかるように座り込む。射し込む月明かりがやけに眩しく感じる。


「お母様は……何故あの妖といたのですか」


 喉から絞り出した問の答えは当然返ってこない。部屋を見回す。この一室は昔色葉が使っていたと梓忠が話していた。年季の入った鏡台に、衣服箱。中には色葉が愛用していた羽織と簪が入っている。導かれるように部屋の奥にある物置の襖を開ける。と、奥にある白い箱が視界に入った。松の模様が施されている箱は埃を被り、長年空けられていないことがわかる。埃を払い恐る恐る箱を開けると、懐剣が収められていた。反りのある刃は鈍光を反射し、揺らいでいる。もしもの時に使えるよう、武家の娘が所持する護身用の懐剣。色葉は武家の出なのであってもおかしくはない。目を凝らすと刃の側面が薄らとに染まっていた。何度も入念に拭われた様な跡。初めてだというのに手に馴染む刀。因縁のようなものを感じ、握りしめる。


「見たことないけれど……お母様のよね」


 仕舞われ続けていたのにはきっと理由がある。そんな確信が絃葉にあった。色葉が所持していたものなら絃葉が早く目にしていても可笑しくない。まるで過去に起きた出来事を隠蔽するかのように放置されている懐剣に違和感がある。食い入るように凝視していると突如襖を叩く音が聞こえ、咄嗟に絃葉は懐に仕舞いこんだ。

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