言の葉に想いをのせて

東雲紗凪

第1話 それは突然の出来事で

 微かな葉音が耳元で聞こえる。外を眺めると、庭先にある木々が吹き抜ける夜風に呼応するように揺れていた。葉の僅かな隙間から忍び込んできた月明かりが差し込み、地に影を落としている。冴え冴えとした蒼い月。それは澄み切った夜空によって尚美しく煌めいていた。もう何度この光景を見ているのだろう、と辺りに遍く月灯りを眺めながら絃葉いとはは思う。絃葉は今年で齢十九になる。旗本の家に生まれ、花嫁修業のために琴や茶道をこなす毎日の繰り返し。外では飢饉が絶えぬと言うのに武家だけは隔たれた空間で何一つ不自由なく日々を過ごす──それが心苦しくなるのはいつもの事だと言うのに。

 亡き母が着ていた上質な羽織を肩にかけ、気を紛らわす為に絃葉が縁側から庭に出ようとしたその時。


「失礼致します。絃葉様、いけません。こんな夜更けに庭へ出ては」


 物音で気づいたのだろう。護衛である時之ときゆきが姿を現す。絃葉と時之は九つ離れていて腕っ節も強く、忠実で冷静な性格をしていて、絃葉父、梓忠からも気に入られている。仕方なく絃葉はそのまま襖から離れ、大人しく従った。部屋には行灯の光が仄かに灯り、周囲を柔らかく照らしている。金色の松の模様が施された襖の枠に塗られている艶やかな漆が、鈍い光を反射した。


「時之、相変わらず鋭いのね」


 このやり取りは初めてではない。今まで何度か抜け出そうとしたがすぐに気づかれ、止められてしまっている。外の空気が吸いたくても一人での行動は許されない。物心ついた頃から常に絃葉には護衛が付けられ、大切に育てられた。武家の一人娘で、武家諸法度によりいづれは親や幕府の命で嫁がなければならない身として。

武家諸法度。自由の利かないその法度を何度憎んだかはわからない。絃葉は美しく聡明で淑やか。武家の間では絃葉に求婚をする者が耐えないとも小耳に挟んだことがある。だから尚更なのかもしれない。警備が固められるのも、行動を制限されるのも。世は物騒で何か起こっては手遅れなのだから。


「私は何年もこの久峨家にお仕えしておりますので」

「……知ってる。お父様からの信頼が厚いことも全部ね」


 円窓から庭を眺める。高い塀に囲まれた屋敷。自由に景色を見られるのはこの窓からだけ。それがもどかしい。静けさに満ちている裏庭には人の気配もない。寂しさを拭うことが出来るのは書物を読んでいる時だけだ。昼間に時折聞こえてくる武家町の子供の声に耳を済ませても、塀の向こうに何があるのか見る事は叶わない。


「一人で出歩くことはやっぱりダメなのね」


 確認すると時之はただ俯く。


「申し訳ありません。最近は武家屋敷付近に妖も出ており、危険であると梓忠しきただ様からきつく言われておりますので。絃葉様、やはり貴女は外へ…?」

「……そう、大丈夫。外には出ないから」


 懸念するように訊ねる時之に微笑み、姿勢を正して気丈に振る舞う。我慢するのは慣れている。時之が言った梓忠は絃葉の父で現当主。兄の良忠よしただが久峨家を継ぐので、絃葉は詳しい家の内情は聞かされていない。物心ついた頃から理解していた。女人は嫁ぎ子を成し、家庭を築くもの。だからこそ嫁入りを果たすその暁まで傷つかない様に大切にされる。自由がなくても縛りが多くとも、これは自分の人生の為なのだ。そう己に言い聞かせ、絃葉は耳を済ませた。一礼した時之の足音が次第に遠ざかる。


「……本当は私も外に」


 出たい。抜け出したい。姫は淑やかで聡くあれとよく梓忠しきただに言われているが、そう振舞っているだけで実際の絃葉の性格は少し違う。一人、決して口にできない言葉を呑み込む。本当は普通の村娘のように色恋や友情を育み、自由に城下町を行き来したい。だが今更そんな夢物語の様な幻想を抱いても、己が置かれた境遇に嘆いてもどうにもならないのだ。感情に蓋をするよう羽織を握りしめたその時。


 ──『憐れな娘だな』


 どこからか声が響いた。それは脳内に直接語りかける静かで威厳のある声。振り返っても人の気配はない。視線を彷徨わせ、円窓に目を向ける──と何かが微かに庭で光っているのが見えた。月ではない、もっと深く、淡い光だ。咄嗟に外に出ようとして躊躇う。もしここで出たら時之に気づかれてしまうのではないか。そんな絃葉の不安を悟ったのか、再び声の主は呟く。


『恐れるな。そのまま進んで──出ろ』


 声は続く。まるで絃葉の行動を見透かしている様な言葉。そのまま進むように姿も見えない声に言われても普通は信じられる訳が無い。だが、耳に響く声は不思議と暖かく、ぬるま湯に浸かっているような心地よいものだった。意を決して障子を開ける。そして目の前に飛び込んできた幻想的な光景に目を見張った。


「遅かったな。お前から負の気配が伝わってきたぞ?」


 庭の木の枝の上──そこには月に照らされて含み笑いを浮かべる白銀の髪の和服姿の男がいた。



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