第50話 酒は飲んでも……
「あー、なんやもうだるいわ……」
「では、ここいらでご休憩されてはいかがです? おおむね主要な方々とはご挨拶できましたし、事業内容の説明だけでしたら、わたくしの方で対応できますが」
ため息混じりにぼやくと、きっちりとしたスーツに身を包んだジェイコブが、いつもの神経質そうな顔に嬉々とした表情を浮かべ、そう提案してくる。
……今回ジェイコブを召喚に対し、特別報酬を用意しているので、彼のやる気がいつになくみなぎっている。
初めは、生まれて間もない我が子を置いて出てくることを渋っていたが、出張料金に加えて、貴族の子女御用達の工房で作られた知育玩具を付け足せば、二つ返事で了解してくれた。
わざわざ育休まで取っただけあって、本当に子煩悩な男である。
しかし、だからといって野心家が丸くなったというわけでもなく、いつだって手柄を立てるべく賢しく立ち回っているし、今だってブサネコ・カンパニーの王都進出を虎視眈々と狙い、ジゼルよりも根回しに余念がない。
人は見かけによらないが、人の根本は案外変わらないものだ。
「……せやね。ほんならお願いしますわ。“控えブース”におりますから、なんかあったら呼んでください」
「かしこまりました」
彼に活躍の場を与えつつ、腰を据えて休憩するために、控えブースと銘打たれた家族専用の休憩スペースへ足を運ぶ。
人目を避けてくつろげるよう、籐で編んだパーテーションで仕切れた空間だ。
もちろん、設備も他のところより充実している。柔らかいクッションが敷かれたガーデンチェアーに腰を下ろし、靴を脱いでフットレストの上に足を乗せると、それだけで生き返るような開放感がある。
今日はコルセットを着用するドレスではなく、ゆったりめのブラウスとロングスカートという女商人風の格好なので、不要な締め付けがない分楽なのは救いだが、足のむくみだけはどうにもならない。
体重が減れば足腰の負担が少しは減るだろうか……と考えつつも、疲労回復のためについつい甘いものに手が伸びる。
果物をたっぷりと乗せた一口タルトは、シロップでツヤツヤにコーティングされて宝石のように輝き、口に含むと果汁の甘酸っぱさと生地のバター感が合わさって、得も言われぬ幸福感に包まれた。
糖分によって、脳内麻薬がダバダバ流出している。
こうなると、ダイエットなどどうでもよくなるのが女子の悲しい性だ。
「ごゆっくりされるなら、温かいお茶をお持ちしましょうか?」
「いや、今はええわ。それより、手の足らんところを手伝ったって」
「かしこまりました」
一礼して侍女が去って行くのを見送りつつ、パーテーションの隙間から会場内を見渡す。
時間的にこの宴も佳境を過ぎ、今のところ目につくトラブルが起きていないのは幸いだが、客が全員帰るまでは気が抜けない――などと考えていると、千鳥足の男が支えられながらトイレ方向へ歩いていくのが見えた。
「お前、飲みすぎだろ……」
「はぁ!? んなこたねぇよ! まだまだ飲め……グエェ……」
「おいおい、こんなところで吐くなよ!? 便所まで我慢しろ!」
酔っ払いらしい男は、金物問屋グリス商会の倅だ。嫁探しの真っ最中だとかで、客の令嬢たちに声をかけまくってそのたびに振られていた光景を、そこここで見ていたので嫌でも覚えてしまった。
その後、やけ酒をあおってこうなったのだろう。
酒に逃げるのはよくないが、モテない気持ちだけは分かるので、心の中だけでご愁傷様を告げる。
もう片方は角度的に顔がよく見えないが、身なりからして平民ではなく貴族だ。年頃も近そうだし、身分差を感じない砕けた物言いからして、友人のような存在なのだろう。
家督を継がない男児は自立を求められるので、馴染みの商家に出入りして商いを学ぶ者も多い。そうでなくとも長年の付き合いがあれば自然と親しくなり、友人や家族のような関係を結ぶこともある。
しかし、微笑ましい友情にほっこりとしている場合ではない。
倅の顔色が真面目によくない。
前世の飲み会で一人か二人は必ず自然発生し、そのたび介抱させられた、酒に飲まれた者と近しい状態だと推測される。
(MG5……久しぶりに見たわ……)
マジでゲロする五秒前。
実際にそんな切羽詰まっていなくとも、酒でグロッキーになった人間は、ひとくくりにそう認識している。
無論、勝手に島藤未央が作った略語で一般的ではないが、周囲の人間は面白半分で使っていた。
そんな逆流物がトイレまでもつのか分からない状態に、いろいろと不安になったジゼルは、控えていた侍女にいくつかものを持ってくるように頼むと、急いで靴を履いてパーテーションから顔を出すと、ちょうど通りがかった二人とバッタリ遭遇した。
真正面から捉えた令息の顔は、どこかで見たことがある気もしたが、名前が出てこない。
一見パッとしない雰囲気だが、目鼻立ちはそこそこ整っていて、陰でこっそり人気のありそうな男性である。
とはいえ、日頃から美形家族とイケメン従者を見慣れているジゼルからすれば、悲しくもモブレベルではあるが……そういう印象の薄さだけが問題ではない。
今日詰め込んだ商人たちの顔と名前だけで、ポンコツなジゼルのメモリーはキャパオーバーで、脳内貴族名鑑に検索がかけられなかった。
「そこのおにいさん方、こっちこっち」
失態に冷や汗をかきつつ、ちょいちょいと手招きする。
プライベート空間に赤の他人を招き入れるのは、あまり褒められたことではないが、トイレにたどり着く前に吐かれては面倒が増えるし、お食事中の皆様に不快を与えるほうが問題だ。
令息はジゼルの誘いに逡巡しつつも、出入り口に居座る方が目立つと思ったのか、口元を押さえる倅を引きずっておずおずと入ってきた。
「あ、あの、このような場所で粗相をするわけには……」
「ええんですよ。ここやったら、他のお客さんのご迷惑になりませんからね。……はい、どうぞお使いください」
超特急で運ばれてきた金だらいを令息に渡すと、申し訳なさそうに一礼したのち、スペースの隅に友人を下ろすと、やけ酒のツケを盛大に払わせた。
――十数分後。
それほど飲んだわけではないのか軽症だったのか、吐くだけ吐いたらすっきりした様子で、清涼感たっぷりのミント水を飲み干す頃には、普通に会話できるほどまで回復した。
「ももも、も、申し訳ありません! 本当に、申し訳ありませんでしたぁ! ウップ……」
悪酔いは無事に解消されたが、公爵令嬢の手を煩わせたことに気づき、再び顔色を悪くした金物問屋の倅は、何度も最敬礼の角度で腰を曲げて謝意を示していた。
しかし、その動作は頭をブンブン振る格好となってしまい、結果的に吐き気をぶり返して、テーブルに突っ伏してしまった。
「まあまあ、落ち着いてください。お酒の失敗は誰にでも一度や二度あるモンですし、やらかさんかったら分からん限界もありますからね。せやけど、今後はホンマに自重してくださいよ。酒は飲んでも飲まれるな、ができる大人らしいですよ」
「か、寛大なお言葉、感謝します……うぐっ」
記憶にない幼少期の過ちを思い浮かべながらそう言うと、倅はガックリとうなだれつつ殊勝にうなずいた。
できればこのまま安静にしてあげたいところだが、家族専用の場所にいつまでも部外者を置いておくわけにもいかない。力のある男性使用人を呼び、他の休憩スペースに移動させた。
それを見送りがてら、令息と一緒に控えブースを出て、賑やかな会場内に舞い戻る。
ブース内には常に侍女が控えているし、ジゼルとしては後ろめたいことは何もないが、人目をはばかる関係だと勘違いされたら、彼に迷惑がかかってしまう。
「友人がお見苦しいところをお見せしてすみません……ああ、申し遅れました。私はトーマ・コーカスです。若輩ながら、伯爵家を任されております」
「そうやったんですか。こちらこそ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ジゼル・ハイマンです。どうぞお見知りおきを」
どこかで見覚えがあると思ったのは、コーカス家の縁者だったからか。
よく見れば、養父のコーカス氏の面影をところどころに感じる。一方でアンには全然似ていないから、きっと彼女は母親似なのだろう。
しかし、コーカス家に招待状は出していない。不思議に思いつつ問いかけてみる。
「失礼ですけど、さっきの方のお連れさんとして来られたんですか?」
「ええ。うちの領地で作った金物を卸している関係で、グリス商会とは古い付き合いなんです。先日父と妹が世話になったので、ハイマン嬢にぜひ一言お礼を申し上げたく思い、無理を言って同伴させてもらいました。と言いつつも、なかなかタイミングが合わず、お声をかけられませんでしたが……その機会を与えてくれたことについては、酔いどれの友人に感謝しなくてはいけませんね」
そう言って、トーマは苦笑した。
さっきまでのジゼルは、会う人会う人に挨拶をして、事業のプレゼンをやっていたし、人がはけたあとの小休止も慌ただしかったし、確かに声をかけにくい状況だっただろう。特に直接招待されていないのであれば、なおのこと遠慮してしまう気持ちは分かる。
「そうですか。たいしたことはしてへんので、お礼なんかええですのに、わざわざご足労いただきありがとうございます。この季節柄、当主さんやったら何かと忙しいでしょうに」
「はは。王宮で特別な役職をいただいているわけではないですし、それほどでもありませんよ。私より、会社を切り盛りされているハイマン嬢の方が、よほどお忙しくされているのではありませんか?」
「いやいや、うちの会社には優秀な役員がようさんおりますから、社長いうたかて肩書だけで、お飾りみたいなモンですわ。随分楽させてもろうてます」
多くの責任を負う身ではあるが、日々の仕事は書類の決裁や帳簿の確認が主だ。それも苦労がないとはいわないが、現場で汗水垂らして働いている職員たちに比べれば、気楽な稼業だといえる。
そう言外に含めつつ飄々と答えるジゼルに、トーマは目を細めた。
「なるほど。では、ご結婚されて引退されても、会社に支障はないということですね」
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