第40話

 野上に戸惑いは見られたが正常な反応に戻っているように見えた。風見も結城も安心出来る段階になっていたので、野上を先に帰宅させることにした。


「明日の朝、一旦会社に集合してから大学に向かうとしようか。……行く前に白井がお前に渡した資料に目を通しておきたいから、全部見せてくれないか?」


「……あっ、はい。ちょっと待ってください。」


 野上が拒否することはなかった。自分の鞄から大学名が印刷してある大きな封筒を取り出した。それほど厚くはないので資料としては大したことがないと思われる。


「白井さんから預かってる資料はそれで全部です。」


 そう言って野上は封筒を結城に手渡した。

 口調も落ち着いているし、白井に『先生』が付けられていないことに結城は安堵する。


「ありがとう。……それじゃぁ野上は帰って休め。」


「えっ、でも……。」


「もう今日はいいよ。お前も俺が言いたかったことを理解してるんだろ?」


「……全部ではありません。」


「今日のところは、それでいい。明日、白井が答えを出してくれる。」


「はい。」


 野上は、風見と結城に「お先に失礼します。」と挨拶をして部屋を出ていく。野上が居なくなった部屋で、結城はソファーにもたれかかり大きく深呼吸した。


「お疲れ様。……結城が、あんなにしゃべってるのを初めてみたよ。」


「ハハ、確かに疲れました。」


「でも、よく薬の使い道が分かったな?」


「当てずっぽうです。あれくらいしか思いつかなかったんです。……もっと他に何かあるのか疑いましたが、白井がバカで助かりました。」


「あぁ、ムカつくバカだ。」


「ムカつくって、いい大人が使う言葉じゃないと思いますよ。……でも、ムカつきますね。」


 風見は立ち上がって二人分のコーヒーを持ってきてくれた。そして静かに話を再開する。


「ただ、世の中にバカが一定数存在することを忘れてた。俺たちは勢いに乗り過ぎて、注意を怠っていたのかもしれないな。」


「やっぱり風見さんも気付いたんですね?」


「まぁな。冷静になって立ち止まることも必要だったんだ。」


 結城は野上と話をしながら一つの可能性を考え始めていた。そのことに風見も気が付いてしまっていた。


「仮面ライダーが子どもたちから支持される理由を見落とすところでした。」


「白井の狙いもソコにあったと思うか?」


「いや、そうだとしたら白井は小物過ぎるんじゃありませんか?」


「それならムカつくバカも少しは役に立った、ってことくらいで考えておけば良さそうだな。」


「はい。それも明日には退治されます。」


「……任せていいか?」


「ええ、所詮は小物ですから。俺一人で大丈夫です。」


 そう言って結城は封筒の中から資料を取り出してパラパラとめくってみる。


「『フェンサイクリンジン』以外も何だか聞き慣れない単語ばかりですね。」


「それも薬物か?」


「詳しくは分かりませんけど、平面構造式が並んでるので似たような物だと思います。……でも、何かの資料をコピーした物だったり、ネットの情報をプリントアウトした物だけですね。」


「専門外の白井も知識はなかったんだろうな。だから、野上に調べさせようとしたのかもしれない。」


「仕事の都合で色々な場所に出入りしている野上は最適だったってことか。」


 結城は簡単に見ただけで封筒に戻して、そのままテーブルの上に放り投げた。最初から目を通す気などは全く無い。風見も封筒を手にすることはなかったので、資料を見る気はないらしい。


 風見と結城はチームとして開発スピードが早すぎることの疑問

を持っていた。


「冷静になって議論する時間を取らなかったことを言い訳には出来ない。」


「ですね。」


「今回、試作機で提案している内容はストップする。……東部大学との協力についても保留だ。」


 これまで費やした時間を無駄にすることになるが、風見にも結城にも迷いがなかった。

 そして、風見や結城のように他の三人も「危険性」に気付くことになれば反対されないことも分かっていた。



 翌日、野上の車で三人は出かけることになった。


「申し訳ない、一件だけ連絡しておきたい場所があるんだ。車に乗って待っててくれ。」


 結城は駐車場で野上に声を掛けて、風見と野上から離れて電話することにした。電話の相手は姫野である。風見と結城が一緒であることを伏せて、野上が会いたがっていると伝えてもらうための連絡だった。

 姫野は心配した様子ではあったが、結城の願いを聞き入れてくれる。


 移動中の車内で、風見と結城が呑気な会話をしていることに野上は驚いていた。


「……今日の昼飯、また学食に行ってみるか?」


「えっ?また挑戦するんですか?安くて美味しいのはいいですけど、あの雰囲気は辛くないですか?」


「早めに用事を済ませて食べに行けば、学生たちも少ないだろ?」


 白井のことなどは眼中にはなく、緊張感のない状態が続いていた。

 昨夜の会話の後、野上は結城が語った内容を自分なりに考えてみていた。これまで散々野上を思い悩ませていたことが無意味だとしても、白井が何を言うのかは分からない。

 それでも余計なことを考える間もなく、大学の駐車場に到着してしまう。



 風見が契約書の件で事務局に寄っている間、結城と野上は本部棟の前で待つことになった。結城も姫野に連絡を入れて、白井と会える場所の確認を済ませる。

 前夜、風見が東部大学との話は保留にすると言っていたので、別の用事であることは分かっていたが、結城は何も言わない。


「……お待たせ。……で、どこだって?」


「3号棟の3305って教室で待ってくれてるみたいですよ。」


「それじゃぁ、行こうか。」


 野上は白井とのアポイントが取れていることを疑問に感じて結城に質問した。だが、結城が「俺たちには優秀な協力者がいるんだよ。」と言ってきたことで更に混乱する。


 少し迷いながらではあったが、教室の前まで来て部屋番号を再度確認する。


「……ここで間違いないな。」


 結城はそう言うと躊躇うことなくドアをノックして、教室に入った。教室の中には机とイスが並べられており、正面にホワイトボードがあるだけのシンプルな構造だ。

 定員は40名程度であり、大学では狭い方の教室になる。


 窓際に立って外を眺めていた白井は振り返って入室者を確認して驚き戸惑う。来訪者が野上だけだと思い込んでいたところに、結城と風見がいるのだから当然の反応だ。


「初めまして、私は野上の上司で結城と申します。それから、開発チームの責任者で風見です。」


 結城は手短に紹介だけ済ませてしまう。


「突然の訪問になり申し訳ございません。……白井先生ですね?」


「えっ、ええ……。私が白井ですが……。」


 最初は驚いてオロオロした態度を見せたが、プライドの高い男なのだろう、そんな姿を隠すように急に話し出す。


「……あぁ、これは失礼。……野上君が来ているとだけ聞いていたもので、驚いてしまいました。……会社の方が一緒なら別の部屋を用意したんですが、こんな教室で申し訳ない。……ただ、次の講義の予定もあるので、あまり時間は取れないんです。」


 白井は何とか取り繕おうとして必死に言葉を絞り出した。

 だが、風見と結城は野上『君』と呼んでいることに苛ついていた。そして、野上だけなら教室で問題ないと考えている態度にも嫌悪感を抱く。

 野上を大学に通う生徒と同程度に扱っていたことを白井は気付いていない。


 年齢は見たところ三十後半から四十前半くらい、中肉中背で髪型はオールバック。風見や結城は初対面となるが、イメージしていた人物像に近かった。


「いいえ、突然お邪魔したのは私たちですからお気になさらないでください。こちらの用事はスグに終わらせますので、白井『教授』のお時間は取りませんよ。」


「……私は『教授』ではありません。誤解のないようにしてください。」


 白井は明らかにムッとしていた。風見がわざと間違えて呼んだことにも気付いていたのかもしれない。


「そうでしたか、それは重ねて申し訳ありませんでした。会社勤めの人間は、そのあたりの『些細な』区別には疎いもので……。」


 これも狙って発言している。マナーとして「肩書き」には注意しなければならない場面も多くあり、仕事を進める上で「些細な」と風見が考えているはずはなかった。


「まぁ、話はウチの結城がしますので、少しお付き合いください。」


 それだけ伝えて風見は椅子に座り、スマホをいじりだした。

 風見を見ていた白井が怒りを爆発させそうになっている。結城は「北村常務も役に立つことがあるんだ」と考えてしまい、吹き出しそうになっていた。

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