十四歳

M.S.

十四歳

 部活の時にさ、友達のYの『お母さん』がよくYの様子を見に来ててさ。学校を囲むフェンスの向こうからよくYに手を振ってた。

 Yの『お母さん』はいっつも日傘に帽子を被ってた。滅茶苦茶美人って訳でも無いけど、不細工な訳でも無い。ただ、優しいって事が一目で分かる柔和な印象だったな。

 散歩がてらYの様子を見に来てたんだと思う。


 その日は定期試験の結果が返ってきた日でさ。Yは様子を見に来てた『お母さん』に、フェンス越しに試験の出来が悪かった事を報告してた。

「あんま、良くなかった」

「ふふ、そんなのいつもじゃない。部活、頑張ってね」

 その『お母さん』はいつも優しかった。

 僕以外の奴もYにマザコンとか言ってたけど、もしかしたら嫉妬で言ってたのかもしれないな。


 そして、その中でも一番嫉妬してたのは僕だった。

 もし僕の母さんが、Yの『お母さん』くらい、優しかったら……。


 僕の母さんは厳しかった。

 試験の結果が悪いと機嫌が悪くなって口を聞いてもらえない。

 そんな状態じゃ、夕飯の催促も、いただきますも言えないんだ。


 僕は頭が良い方じゃ無い。いつも出来るだけやってるんだけど、良い時で平均より少し上くらいで、悪い時は平均の少し下くらい。

 平均より点数の低い教科があると、烈火の如く怒られる。

「平均より下って意味分かってる? 馬鹿って意味だけど? 社会で必要とされないの」


 僕は答案が返って来た今日、中々家に帰れなかった。

 点数が平均以下だったから。

 帰り道にある高速の高架下で、ずっと座ってた。

 座りながらYの事を考えた。

 あいつの家は学校から近いから、もう家に着いてるかな。

 もう『お母さん』に夕飯を作ってもらって、食べている頃かな?

 僕は脳内で『もしYのお母さんの子供になったら』という妄想をした。

『そういえば試験、どうだった?』

『あんまり良くなかった。……ごめんなさい』

 Yだったら多分、成績が悪くても謝ったりしないと思うけど、僕にはちゃんと自責の念があるんだ。

 謝った僕に、『お母さん』はこう言うんだ。

『まぁ、しょうがないわね。次、頑張れば良いわ。ご飯を食べてもう寝なさい。部活で疲れたでしょう?』

 僕が申し訳無さそうに謝ると、『お母さん』は困ったような顔をして。

 そんな事は大した事じゃ無いんだよって。

 そういう声音で慰めてくれるんだ。


 何で、僕の母さんがYの『お母さん』じゃないんだろう。

 ホームレスの人すら寛いで寝てる高架下で、家に帰る踏ん切りも付かずに、妄想した。

 そんな事より、本当は母さんになんて言い訳するかを考えないといけないのに。


 左を向くと、ちょっとした高層のマンションが見える。僕の家族が住んでいるマンションだ。

 父さんは殆ど家に居ないし、何の仕事をしているのかは詳しく知らないけど、繁華街で仕事をしていて結構お金を稼いでいるらしい。

 Yが住んでいるマンションより数段良いマンションだ。

 でも、母親はYの『お母さん』の方が良いな。

 悔しさとか情け無さ、遣る瀬無い気持ちに落涙を堪えていると、もう大分、陽が落ちて来ていた。

 気は進まないけど帰る事にした。

 この時だけは高架下のホームレスの人が羨ましかった。

 夕飯なんてどうせ食べさせてくれないし、怒られに帰るくらいだったら、ここで寝てた方がマシだった。


 帰り路にスーパーがあって、この時間はそこそこ人の出入りがある。沢山の人を吐き出すスーパーの入り口を見ていると、幸せの原型みたいな家族もちらほら居た。

 沢山の母親と、その子供は手を繋いでる。

 僕は、年端もいかない、その幼児に嫉妬してる。


 結局、家の玄関扉に着くまで使えそうな言い訳は思い浮かばなかった。

 ゆっくり、扉を引いてみる。

 鍵が掛かっていないければ、大概母さんが家に居る。

 扉に鍵が掛かっていれば、両親共、出掛けている。

 僕は、鍵が掛かっている事を祈った。

 扉は、やっぱり開いた。

 こういう時に限って家に居るんだ。母さん。

「ただいま」

 返事は無い。いつもそうだけど、物音も感じられない。少し気になって自分の部屋を通り過ぎリビングまで行ったら、母さんはソファーで寝てた。

 家に居る時の両親は基本的に寝ている。仕事で疲れているんだと思う。

 でも、僕としては母さんを起こして、早く胸に引っ掛かっている事を片付けたかった。

「ただいま」

 僕は母さんに近づいて、もう一度言う。

「五月蝿ぇよ」

 腕を組んで寝ていた母さんは、やっぱり不機嫌だった。気怠そうに体を起こして、頭を掻いた。

「……お前、試験返ってきてるだろ?」

「……良くなかった」

 僕がそう返事すると、母さんは大きい溜息と舌打ちをして自分の部屋に向かって行った。夜中の仕事の着替えに行ったんだと思う。

 もう、母さんは怒りすらしない。

 怒られたくはなかったけど、こういう反応の時、母さんは凄く怒っている時だ。

 もうちょっと、言うタイミングを考えれば良かった。

 こっちは赦しを乞うために、土下座でもする覚悟でいたのに。怒声が飛んで来ないものだから調子が狂ってしまった。何か大きい声で怒鳴られたなら、『申し訳ありません』って土下座しようと思っていたのに。


 母さんが、黒いスーツを着て部屋から出て来た。

「私等が稼いでる金、ドブに捨ててるの分かってんの? 金食い虫」

 そう言って、母さんは仕事に出掛けた。

 父さんと母さんは夜中まで帰って来ない。

 それまで、ひたすら自己嫌悪と戦うんだ。

 夕飯? そんなの勝手に食べてたら、余計怒られるよ。


 十三階だから、ベランダからは色々なものが見える。

 僕がさっき居た学校のグラウンドが見えるし、Yの住んでるマンションもちょっとだけ見える。あのマンションの一一〇五号室の部屋で、Yの家族は今も幸せにやっているんだろうな。


 どうして?

 何が違う?

 Yより成績は良いし、運動も出来るよ。

 Yには劣等感が無いのか?

 何で僕より下の奴が笑ってんだ?

 何で、図書室で煙草吸っていきってる馬鹿、黒板の代わりに手鏡を見る女子、教室の隅で変な本ばっか読んでる気持ち悪い眼鏡が。

 何で楽しそうに喋ってんだよ。

 何が面白いんだ?

 僕より下の奴だろ?

 何で?

 僕なんて寝る前に毎日。

 朝が来ませんように。

 寝てる間に死んでますように。

 そう祈ってるよ。

 Y、お前はそんな事、考えた事無いだろ? 本当に羨ましいよ。お前の家に生まれたかったよ。

 お前この前、部活でランニングの時に『気持ち悪い』とか言ってサボったよな?

 顧問も日和って『じゃあ休め』って言ってたけど。

 僕、あの時お前を殺したくなったよ。

 気持ち悪いんだったら、そのまま死ねば良かったのに。

 何で僕より劣ってる奴が、僕より先に弱音吐いてんだよ。

 そしてなんでそれが許されてんだ?

 お前、帰ったら親の作った飯食って、風呂入って白痴みてぇに物考えず生理的欲求のままに寝るだけだろ。それで成立してるのが凄いよ。羨ましいよ。

 一回だけ、一日だけで良いから交代してくれよ。

 そしたら僕、その一日の終わりに自殺するからさ。

 一日だけでも幸せが解ったら、もう、自殺出来るからさ。

 今ここから飛び降りたら別に死ねるけど、悔しいんだよ。だって僕の人生、今終わったら、何も良い事が無いままで終わる。

 折角生まれたのに。

 まだ生まれてから『良かった』って思えた事、一度も無いのに。

 こんな十三階からの景色、要らない。だってYのマンジョンが見えるんだ。ベランダに出る度にあいつのマンションが見えて、嫉妬で頭が可笑しくなりそうだ。

 たすけて。だれか。たすけて。

 いや、しにたい。

 もうどうでもいい。

 ねよう。

 寝てる時だけが救いの時間なんだ。なんたって寝てしまえば考え事をせずに済むし、このゴミみたいな世界とゴミみたいな自分を忘れられるしね。


 被った布団はなんだか粘っこい。もう大分干して無いや。

 いや。

 もういい。

 そんな事どうでも良いんだ。

 早く寝よう。

 はいじゃあ明日も寝ている間に死んでますように。


────────────


 目が覚めると知らない天井があった。

 それに、知らない寝床。知らないインテリア。

 まだ夢の中なのだろうか? だとして、別に醒めて欲しく無い。

 僕は、また布団を被った。胎児みたいに、じっと蹲る。体を激しく動かすと、夢から醒めてしまう気がして、じっとした。

 横向きで寝てる僕の目の前にはなんだかガキっぽい感じの机と椅子があった。

 視線をずらして机の上を見る。

 机上には、帰って来た試験の答案用紙が置いてあった。

 何で、こんな所に置いたんだろう。母さんに見つかったら不味い。

 僕は重い体をベッドから起こして机に手を伸ばす。

 そして、答案を広げる。それは、昨日帰って来た数学の答案だった。

 点数は……三十八点……?

 これは、僕の答案じゃない。今回の数学は六十九点だった筈だ。三十八なんて点数、母さんに知られたら殺されてしまう。

 どうしよう?

 隠そうか?

 どうせ三者面談でバレる。

 家出?

 悪くないかもな。

 自嘲しながら答案を眺めていると、可笑しな所に気付く。

「僕の、字じゃない」

 良く見ると、知性の欠片も無い字体。こんな字、僕は書かない。

 答案の氏名を見ると。

 Yの名前が記入されていた。

 何で、あいつの答案がここにある?

 あいつが僕の答案と自分の答案を間違えて持ち帰った?

 解らない。

 机上に立て掛けられた教科書の裏面を見る。どの教科書の裏面にもYの名前。

 登校バッグに入っている教科書も見てみる。やはり同じくYの名前。

 気味が悪い。それに腹が立つ。

 なんなんだこの当て付けみたいな夢は。

 巫山戯るな。

 死ね。

「死ねよ」

 僕の夢にまで出てくるな。僕はお前が大嫌いなんだ。


 もうその夢は見たくなんかなくて、僕はその部屋の扉に手を掛けた。扉を開いても、まだ夢は醒めなかった。

 僕は見回す。

 すると、知らない廊下があって、知らないリビングがあって、その向こうに知らないベランダがある。

 そのベランダに、大きい足音を立たせて向かう。

「……!」

 リビングを通り過ぎた時、何か声が聴こえた気がするが、どうでもいい。

 ベランダの引き戸に手を掛けた時、気付いた。

 向こうの景色に、良く知るちょっとした高層マンションが微かに見える。昨日、あの高架下から見たうちのマンションと同じだ。

 ベランダ柵に嵌められた磨り硝子が、高層階のみ透明の硝子になってる所なんて、うちのマンションそのままじゃないか。

「なんで、……なんだよこれ!」

 僕は無様に喚き散らした。夢の中だから、何したって良い。そう言う呵責の無さが、僕に無遠慮に叫ばせた。

「何でうちがあそこにあるんだよ!

ここはどこだどこだどこだどこだ!

ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「Y! どうしたの⁉︎」

 何かが後ろから覆い被さった。二本の腕が僕の胸の前で交差する。

「大丈夫? 一体どうしたの?」

 それは、優しく語り掛けた。

 こんな柔らかい声音、聞いた事、掛けられた事が無い。

「ここは、どこなんだよ……」

「Y、しっかりして! 大丈夫?」

「僕はYじゃない……!」

「お願い! しっかりして……! 大丈夫だから……!」

 その声は、今度は哀願するみたいに聞こえた。

「大丈夫だから……」

 そんな声を聞いていると、何だかこっちが可哀想になってきた。

「だ、だれ……」

 僕は腕の温もりから落ち着きをもらって、現状を把握しようと言う気になった。

 声の主にそう聞いてみる。

「誰って、お母さんでしょ? お願い、変な冗談だって言って…」

 僕の母さんは、自分の事を指して『お母さん』なんて言わない。

「じゃあ、ぼ、僕は……」

「何を言ってるの? Y……、Yじゃない。お父さんとお母さんで一緒に考えた名前よ。忘れないで」

 『お母さん』を名乗る女性は泣いているようだった。

 僕は後ろから抱きつかれている形なので、まだこの腕の主の顔を、見ていない。ベランダを隔てる引き戸の硝子に反射する、『お母さん』の顔を見てみる。

 それは、昨日学校にまでYの様子を見に来ていた、Yの『お母さん』だった。

「どうして……」

「大丈夫? 落ち着いた?」

「〇〇は?」

 僕は、自分の本当の苗字で『お母さん』に尋ねた。

「それは同じ部活の子でしょ? その子がどうかしたの? その子に何かされたの?」

「い、いや、何もされてない……」

 『お母さん』に向き直ると、眉尻を下げ、柔和な顔を儚げに崩した顔があった。

 僕が泣かせてしまった。

 寂寞した罪悪感と共に、状況が解ってきた。

 ここはYのマンション、幸せな一一〇五号室だ。

「そ、そう言えば……、試験が酷かったんだ……。す、数学が、六十……じゃない、三十八点で……」

「それなら昨日も聞いたわよ。三十八点なら、前回より二点高いじゃない。気にする事無いわ」

 『僕』の母さんだったら、『僕』の前回の試験の点数なんか覚えていない。

 入れ変わってるんだ。僕とYが。

「ふぅ……、落ち着いた? 」

「あ、……うん」

「なら、良いわ。それより、朝ご飯にしましょう?」

 テーブルに着くと、『お母さん』がご飯を用意してくれるみたいだ。

 テーブルに座っただけなのに。

  嬉しいな。

「食べて、落ち着いて」

「あ、ありがとう」

「この後、一緒にお買い物に行かない? 気分転換に」

「……うん」


 向かった先はあのスーパーだった。

 Yの『お母さん』も、ここを利用しているんだ。

「あ……、あそこに居るの、〇〇君じゃない?」

「そう、だね……」

 確かに、居た。

 でも、今、Yには僕が入ってる。

 じゃあ、あの『僕』には一体誰が……。

「お、おい……、〇〇……」

 僕は努めて軽い調子で『僕』に声を掛ける。

 『僕』は、僕の声掛けに反応を示さない。

 『僕』は、目の前にあった安い惣菜パンを二つ取って、そそくさと立ち去っていった。

 まるで、自分の尸を見るような気分だった。

 もしかして、『僕』は、普段からあのように周りに見えていたのだろうか?

「大分窶れているみたい……、大丈夫かしら」

 あんな死骸みたいな奴の心配はいいんだ。

 『僕』の心配は、『僕』の母さんがすれば良い。

 『お母さん』は僕の心配をして欲しいな。


 それにしても、こんなに時間が緩く流れる世界があるなんて、思いもしなかった。

 歩く足音に気を遣わなくて良い。

 自室の電気を点けても『電気代の無駄』と怒られる心配も無い。

 シャワーの音が五月蝿いと言われずに済む。

 昨日まで世界全てを憎んでいた癖に、今は全てが心地良いや。


 途端、そんな世界の空気も吸ってみたくなって、ベランダに出る。昨日までは鉛みたいだったこの世の空気も今は洗浄されたように美味しい。

 肺が入れ替わったみたいだ。

 いや、実際、肺以外も入れ替わっているのか。

 僕の体も、母親も。

 臨める黄昏の景色に、自分の街の美しさと人間臭さに気付く。

 なんだ、良い所じゃないか。

 犬と散歩してる老人も。

 子供連れの親子も。

 車の排気ガスも。

 全部全部愛おしいや。

 ふと、昨日まで『僕』が居た高層マンションを見る。

 下から数えて十三階、ベランダに僕と同じくらいの少年が立っている。

 『僕』だ。

 『僕』は惣菜パンを片手に世界を睨んでいる。

 その『僕』の、負を凝縮したような形相から、始め持っている惣菜パンがナイフに見えた。

 『僕』はそのナイフを齧った。

 ばきっ。

 そう、音が聞こえてくるようだ。

 本当は世界をそうしてやりたいんだろ? 解るよ。

 昨日までは『僕』も僕だったから。

 ばりばり音を立てて、遂に『僕』はナイフを食べ終えた。

 『僕』は惣菜パンが入っていたビニール袋のゴミを丸める。

 その時、『僕』と視線が合った。

 怖気がする視線をこっちに向けて、どうにか僕を視線だけで殺せないかと、穿つように睨んでいる。

 『僕』は丸めたゴミをこっちに向かって思いっきり投げた。それはこっちに届く訳も無くて、情けなく高層マンションの真下に落ちて行った。

「ごめんな」

 誰が今、『僕』に入っているかは知らないけど、まぁ頑張ってくれ。

 今、『僕』に入っている奴は、どうせ昨日まで、何処かで幸せを享受してた奴だろ?

 さっさと、そのゴミと一緒に下まで堕ちれば良い。


 少しすると、『お父さん』が帰ってきた。

「お、おかえり……」

 僕は試しに挨拶してみる。

「うん、ただいま」

 『僕』の父さんは、ただいまを言わない。こっちの家族は、『お父さん』も優しいらしい。

「あの、父さん……」

「ん? どうした?」

「試験が悪かったんだ……」

「ああ、母さんから聞いたよ。まぁ、いいさ。気にするな。試験が悪くて、死ぬ奴は居ないから」

 死にそうな奴は、居た。

 今も居る。

 ベランダからそいつは見える。

 『お父さん』の言葉は、そいつを否定しているみたいだった。

 僕は少し、悔しく、悲しくなった。

 でも、あいつはもう僕じゃない。

 あの『僕』は僕とは違う。

 関係無い。

 悔しくなる意味なんて無い。

 悲しくなる意味なんて無い。


「おやすみなさい」

「おやすみ。明日はお出掛けするから、ちゃんと起きてね」

「うん」

 机の上には、まだ答案用紙があった。

 僕は、それで紙飛行機を作ってベランダに持って行き、飛ばしてみた。

 まだあっちのマンションの十三階には『僕』が居て、僕はその『僕』に向かって紙飛行機を飛ばした。

 すると、その紙飛行機は風に乗って向こうの『僕』に届く。

 どうやら、今の僕は何をしても上手くいくみたいだ。

 お前が惣菜パンのゴミで作ったボールじゃ話にならねぇよ。

 その紙飛行機を受けた『僕』は、その紙飛行機に何かを書いて、今度はこっちに飛ばした。

 でも『僕』が飛ばした紙飛行機はやはり、高度を保てずに高速を走る車の群れに轢かれて何処かへ散った。

「やっぱりな」

 今のお前、凄い惨めだよ。よく今まで生きてこれたなぁ。


 次の朝。生まれてから一番気持ちの良い朝だった。僕の新しい誕生を祝福しているに違いない。

 そう思った。

「Y、出掛けるぞ。準備出来てるか?」

「うん」

 『お父さん』の運転する車は少し型落ちの外車だったけど、裕福さを周りに知らしめるのには丁度良い車だった。

 意外とYの家、金持ちだったんだな。

「空いてると良いわねぇ」

「そうだなぁ」

 後部座席から聞く『お父さん』と『お母さん』の、何でもない会話が、何でもなくないように聞こえる。

 『僕』の父さんと母さんは仲は良かったっけ?

 ていうか、もう声も思い出せないや。

 ていうか、思い出さなくて良いや。

 もう僕の親じゃねぇし。


 そこからは至福と言える時間が流れた。

 近くのショピングモールに出掛けた。

 『お母さん』が服を見たいって、あっちこっちに僕と『お父さん』を連れ回すんだ。

「これ、どう? 似合うかな?」

「ああ、勿論。全部似合うよ。君が妻で良かった」

「もう、ちゃんと見て」

 二人とも、新婚みたいに頬を、薔薇の花弁のように紅くしてる。

 『お母さん』はころころ笑って、なんだか可愛いや。

「Yはどう思う? どの服が良いかな?」

 僕は一生懸命迷った。『お母さん』を喜ばせたい。

 何て言えば『お母さん』は喜ぶかな?


「次こそは九十点を取ります」


 『お父さん』と『お母さん』は顔を引き攣らせた。

「ど、どうしたの?」

 あれ、間違えちゃった。

「……ううん、何でもない。……この服、お母さんにぴったりだよ」

「そ、そう? 私もこれが良いって思ってたの」

「両方買ったらどうだい?」

「良いの?」

「偶には良いさ」

 『お母さん』は花が咲いたように笑って見せた。


 その後、映画を見た。

 化け物の家族の、優しくも悲しい物語だ。

『なんで森から出てはいけないの?』

 化け物の子は言った。

『私達は不細工で醜いからだよ、里に出たら、人を怖がらせてしまうから』

 化け物の両親は言った。

 そこで、僕らの後ろの方の客席から大爆笑の声が聴こえてきた。

 今の何処に、笑える要素があっただろう?

 目を顰めて後ろを向くと。

 『僕』の両親が座って居た。

「まるで、うちの馬鹿餓鬼みたいだ」

「ほんと。早く死ねば良いのにね」

 何でこんな所に居るんだろう。

 折角の僕の時間を邪魔しやがって。

 今頃、『僕』が家で希死念慮に陥っているという間に、『僕』の両親は醜くも優しい化け物の物語を嘲笑っていた。

 映画が終わる頃、『お母さん』はすっかり泣いていた。

 結局、化け物の子の努力は虚しく、森の外の人とは分かり合えずに殺されてしまった。

 僕も泣いていた。

 後ろで、げらげらと気持ちの悪い笑い声を上げて映画を見ていた『僕』の両親は、スタッフロールが流れると席を立った。

「あーあ。面白かった」

「ほんと。ほんと」

 僕はまだ泣いている。

 きっと『僕』は今も、次の試験の為の勉強を家でしている。


 夕食は、ちょっと瀟洒な店で外食する事になった。

 『お母さん』は、映画の後、すっかり落ち込んでしまったみたい。何か他の物に、気持ちが感化され易い人みたいだ。それを『お父さん』が慰めてる。

「あの、化け物の子、とっても可哀想……」

「そうだったね……」

「出来る事なら、代わってあげたいわ」

「君らしいよ」

 代わってあげたい、か。『お母さん』はそんな風に思うんだ。

「Yは、周りに、あの化け物の子みたいな、困っている人が居たら、助けてあげられる?」

 僕は、二日だけ一緒に過ごした『お母さん』を、すっかり好きになっちゃった。

 僕が『僕』として過ごした十数年は、今の僕の、昨日と今日に負けたんだ。

「うん、その時はきっと代わってあげられる」

 僕は『お母さん』を喜ばせたい。

 本当に、心底そう思う。

「Y、優しい子」

 『お母さん』は、ここ二日の間で、一番の笑顔で笑った。


 詰まり、『お母さん』が救いたいって言うのは。

 あの『僕』のような奴の事だと思う。

 あのベランダに突っ立っている『僕』だ。


 家に帰った後、ベランダに向かう。

 今日も『僕』は惣菜パンを片手に立っている。

 やはり恨めしそうな目だ。明らかに、この世の全てに対して敵意を含んでいる。

 今日、『僕』は死ぬ。

 多分、あそこから飛ぶ。

 あの『僕』も僕だから、解るんだ。


「Y、どうしたの? 今から出掛けるの? もう夜よ?」

 大好きな『お母さん』

 二日間の僕の『お母さん』

「大事な用事なんだ。すぐ戻るよ。行ってきます」

 大好きな『お母さん』を喜ばせなくちゃ。

 僕は『僕』を救いに行く。

 今までの中で、一番の全力で走った。部活のダッシュでもやった事無いくらいに走った。心臓が破れる程走った。足首が捥げる程走った。

 何だよこの体。『僕』の体より動きが鈍い。

 二日前に座ってた高速の下を信号無視して風のように横切る。

 この時だけは寝ていた厭世的なホームレスも、僕に吃驚したみたいだ。

 そして、マンションの下まで来る。

 丁度、『僕』がベランダから飛ぶ所だった。


 飛び降りた『僕』が僕に気付くと、『僕』は僕に中指を立てた。

「死ね」

 それでも僕は。

 『僕』の落下地点に入って衝撃に備える。衝撃の瞬間に股関節、膝関節、足関節をクッションのようにすれば、あるいは…。それでどうなるって事も無いが、それしか思い付かない。何たって今の僕は、数学が三十八点なんだから。

 最悪救えなくても良い。でも救おうとしなきゃ。

 僕の二日間に負けた、惨めな『僕』。

 せめて、救われそうになった事実だけでも最後に持っていって、死に向かう際のお土産にしてくれ。


────────────


 次に目が開いた時。

 温かかった。

「余計な」

 ぐちゃっ。

「事を」

 ぐちゃっ。

「してんじゃ」

 ぐちゃっ。

「ねぇっ」

 ぐちゃっ。

 胸から腹にかけてが、温かかった。

 僕のお陰で一命を取り留めたらしい『僕』は。

 僕の体に、鮮血に染まっている惣菜パンを突き立てていた。

「死ね」

 ぐちゃっ。

「死ね」

 ぐちゃっ。

「死ね」

 ぐちゃ。

「クソクソクソクソクソクソクソクソ」

 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。

「僕が死ねば、母さんが喜んだのに!」

 あ。

 あ。

 僕、余計な事をしたみたいだ。

 こっちの『僕』も、一緒だったんだ。

 いつも、失敗するんだ。大事な所で。

 『僕』は僕なのに、何で解ってあげられなかったんだろう。


 ごめんな。


────────────


 Yが死んだ?

 良かった。

 あいつうざかったんだ。

 結果的に殺せて良かったよ。

 こうやって僕より幸せな奴を順番に殺していけば、僕がいつかこの星で一番の幸せ者になるんだ。そうなるまでこれを繰り返せば良いんだ。割と簡単じゃないか。

 次は、どうしようかな。

 そうだ。『お父さん』を殺そう。

 『お母さん』と結婚してるなんて、ずるいよ。『お父さん』を殺して、『お母さん』は僕と結婚するんだ。

 僕と『お母さん』以外を全員殺して、殺した分僕と『お母さん』の子供を作ろう。

 新しいアダムとイブになって、新しい聖書を一緒に作ろうね。

 暫くしたら、ノアの箱舟も作ろう。

 それで、こんな気持ち悪い星、捨てちゃおうね。

 僕と『お母さん』と、子供達で、新しい地球を見つけに行こう?

 新しい地球に着いたら、子供達にはこう教えるんだ。

 『周りに化け物の子みたいな、困っている人が居たら、助けてあげよう』って。

 そしたら、次の地球ではきっと、上手くいくよ。

 そしたら、今度は喜んでくれるよね?

 僕の『お母さん』


────────────


 何処からか、タイヤ痕が付いた、ぐしゃぐしゃの紙飛行機が僕の顔の横に飛んできた。


────あの日、『僕』がこっちに飛ばそうとした紙飛行機だ。

 

 それを広げて見ると、


 『ごめんな』


 『僕』の字で、一言、そう書いてあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

十四歳 M.S. @MS018492

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ