その霊に理由はいらない

春海水亭

1.除霊失敗

***


 響き渡る疾走感のあるロックチューンは除霊という重々しさとは正反対の位置にあるな、と矢木やぎ入子いりこは思った。

 都内のワンルームマンションの一室、壁にはコンビニでA4サイズに拡大コピーした御札が隙間なくびっしりと貼られている。

 床の四隅には塩を山盛りにした小皿が置かれていて、皿と皿の間には鎖のように連なった蝋燭が置かれている。

 天井に備え付けられた監視カメラは一体何を撮影しようというのだろう。

 賃貸ではないのだろうか、フローリングの床にはマジックペンで直接何らかの複雑な模様であるとか呪文であるとか、とにかく入子が理解出来そうにない様々なものが書かれていた。

 部屋の中央部分には座布団が敷かれていて、入子はそこに背筋を伸ばして座らされている。


「音楽ってのは重要なんスよね」

 タブレットでBGMの音量を調節しながら、入子の背後からヘラヘラと笑いながら声をかけるのは夜釣ヤヅリだ。彼の足元には道具がたっぷりと詰まったスポーツバッグが置かれている。

 夜釣は若い男だ。

 髪の毛をピンクに染め、ほとんど寝間着みたいなスウェットを着ている。

 甘ったるいコロンを振りまいても、煙草の臭いを消しきれてはいない。

 このような機会がなければ一生会話する機会がないような男だな、と入子は思う。


「お客さんに憑いてる奴は、もうお経とか聞いても何の意味も無いッスから……だから、部屋は生きてる人間のための明るい音楽で満たすんスよ、俺はロックが好きなんスけど、ダンスミュージックとかでも良いっスよね」

 夜釣は除霊用と名付けたプレイリストをリピートモードに設定すると、足元のスポーツバッグの横に置いた。音量は入子にとってはうるさすぎるぐらいで、人生で一度だけ行ったことがあるナイトクラブの騒々しさを思い出していた。


「あ、足きつくないッスか?背筋さえ伸ばしててくれれば、あぐらでも正座でも体育座りでも何でも良いッスからね」

「いえ、大丈夫です」

 入子は修行中の僧のように正座をしている。

 法事中なら気にしてしまうような足の痛みもない、ただただ緊張感だけが入子の全身を包んでいる。


「ならオッケッス、じゃあ今から除霊を始めていくんスけど……除霊が終わるまでは絶対に振り返らず、座布団から移動もしないでくださいね」

 入子の座る薄手の座布団は、御札がベタベタと貼られている。

 壁に貼られているようなコンビニでコピーされたものではない、それこそ御札と聞いて誰もがイメージするようなどこか古びたモノである。


「その座布団、中も内もビッシリと……まぁザックリ言うと『悪霊死ね!』みたいなコトが書かれてるんで、座布団に座ってる間はお客さんに憑いてる奴も相当に弱まるんで……そこを俺がバチコーンと祓っちゃうワケッス」

 入子はじんわりとした暖かさを足元が感じていた。

 何か機械が仕込まれているわけではない、何らかの神秘的な力で座布団自体が熱を発しているようだ。


「じゃ、悪霊のイメージを明確化していきますか……まずはお客さんが見た悪霊の姿を教えて下さい」

 夜釣が入子の両肩に手を置く。

 座布団とは対象的に夜釣の手は冷えている、まるで氷に触られているようだ。


「子どもでした……男の子で……小学校に上がっていないぐらいの」

「ひたすらに思いつくことを言ってください」

「服は着ているようでしたが……全身が血塗れで……何を着ているのかよくわからないぐらいに汚れていました……それで私がその子どもを見ていることに気づくと……その子はニコって笑うんです……」

「どこで見ました?」

「はじめは夢の中で……そして目覚めたら……私のお腹の上に乗っかっていて、ニコって笑いました……それからは会社でも、電車でも、街中でも、どんなところでも出てきました」

 夜釣はうんうんと頷き、質問を続ける。

「そいつは何をしました?」

「毎日悪夢を見るようになりました……夢の中で殴られたり……蹴られたり……そして、目覚めたら夢の中と同じ位置に痣が出来てました……起きてる時の悪霊は……物を動かして……でも私にしか見えて無くて……仕事の書類を駄目にされたり……物を盗んだことにされたり……家族に……」

「もう良いッス、すいません」

 入子を温めるかのように、夜釣の手がほのかな熱を帯びた。

 

「何か、取り憑かれるような心当たりはありますか?」

 先程よりも夜釣の手の熱が強くなる。

 夜釣の片目だけが何かを探るように異常な回転を繰り返している。


「……ありません」

「心霊スポットに行った」

「……ありません」

「目の前で自殺を見た」

「……ありません」

「なにか不道徳な行いをした」

「……ありません」

「宗教的タブーを犯した」

「……ありません」

「なにか病気にかかった」

「……ありません」

「流産もしくは中絶の経験がある」

「……ありません」

「心霊スポットに行った」

「……ありません」

 夜釣の手が熱を増す。


「心霊スポットに行った」

「……ありません」

 まるで炎そのものに触られているようだった。

 悲鳴を上げそうになるのを堪えて、入子は応える。


「……自覚は無いようッスけど、ん~これッスかねぇ……」

 夜釣は独りごちると、足元のスポーツバッグを開きペットボトルを取り出す。

 そして入子の正面に回ると、そのペットボトルを握らせる。

 僅かな重み、中身は透明な液体である。


「俺がもう一度、お客さんの肩に手を置いたら……この水を口いっぱい飲んで吐き出してください。それを……ペットボトルの中の水が半分になるまで繰り返してください」

「半分ですか?」

「大体で良いッスよ、大体半分」

 再び入子の背後に回り込み、夜釣は彼女の肩に手を置く。

 入子はペットボトルを傾けて、ごくごくと口内に収め、吐き出した。

 液体は赤く、黒く、色づいている。


「血っ!血ですか!?」

「血じゃないです、もっかい飲んでください」

 最早、夜釣の手の感触を知ることは出来ない。

 振り返れば、夜釣はしっかりとその両の手を入子の肩の上に置いているのだろうか。

 入子が今両肩に感じているのは、火の玉のように熱く、形のないものだけだった。


 ごく。

 ごく。

 ごく。

 先程よりは緩やかに、しかししっかりと口内に水を収め、吐き出す。

 やはり吐き出した液体は血のように赤黒く染まっている。


「ペットボトルに水が半分残ってますね」

「はっ、はい……!」

「その水を吐き出した水にかけてください」

 フローリングを汚す赤黒い液体、それを洗い流すように入子はペットボトルの水をぶちまけた。

 透明な水に追いやられて、赤黒い液体はほんの少しだけ壁の側に寄っていく。


「では、これをもう一度繰り返します」

 夜釣が背後から入子にペットボトルを握らせる。

 ペットボトルの中の液体は茶色く、泥水そのもののように見えた。

 キャップを開くと夏の日に放置された動物の死骸のような異臭を漂わせる。


「こっ……これをですか?」

「さっきのは霊峰の水、これは沼の水です。清らかなものと汚れたもので二重に浄化します」

「……っ」

 吐き気がこみ上げる。

 飲む必要はないとは言え、このようなものを口に含まなければならないのか。

 だが、催促をするかのように肩が熱くなり、重さを増す。

 飲んだ瞬間に、入子は液体を吐き出していた。

 口に含んだものよりも、吐き出したものの方が内容量を増しているのは気の所為ではないだろう。

 液体は赤黒く染まり、沸騰しているかのように泡立っている。

 これをペットボトルの中身が半分になるまで繰り返さなければならない。


 飲む。吐く。

 飲む。吐く。

 赤黒い液体の中に、蝿が混じっている。

 口に液体を含んでいないのに、入子は吐く。

 それを隠すかのように、ペットボトルの液体をぶちまけた。


「……落ち着いてください」

 炎のような感触が入子の背を撫ぜる。

 そこに肉体的な感覚は一切存在しない。

 ただ、熱だけがあるだけだ。

 口の中には未だに酸味と生ゴミを食んだかのような気色悪さが広がっている。


「耳を澄ませて……音楽が貴方の心を落ち着かせます……」

「……はい」

 夜釣の助言に従って、入子は耳を済ませる。

 タブレットから聞こえる音楽は、爽やかな声で、将来の夢を歌う。

 僅かに交じるノイズ。

 テンポが遅くなる。

 この歌手の声はこんなにも低かっただろうか。


「悪霊が苦しんでいます……ここからが本番です……」

 汗がだらだらと流れる。

 心臓が異様に高鳴り、頭は締め付けられているかのように痛い。

 夜釣が背後から入子の手に包丁を握らせる。

 なんら変哲のない新品の包丁である。


「貴方の中に僅かに残った悪霊を完全に退治します」

 返事をしようとしたが、あまりにも気分が悪くて入子は咳き込むだけだった。

 まるで高熱に侵されているかのように気分が悪く、全身が重い。

 それでも、包丁は離さないようにしっかりと握りしめる。


「貴方自身の手で貴方の体の中の悪霊を刺し貫きます……左の手のひら、腹、右目、悪霊が深く残った箇所に包丁を刺して、抉るのです、出来ますか?」

「……出来ません」

 枯れた声で入子が言葉を返す。

 意識が朦朧とする。

 包丁で自分の体を刺して、しかも抉るなどと――いくらなんでも、そのような行為をすることは出来ない。


「出来ませんか……では私が代わりに行ってもよろしいでしょうか」

「はい」

 返事をした瞬間、入子は自身の喉を包丁で突いていた。

 ぶく。

 血があぶくを立てて、口内に湧き上がる。

 喉から抜いた包丁には多量の血と僅かな肉片が付着している。


「頑張ってください」

「……い」

 入子は返事をしたつもりになっていたが、実際のところは音のようなものが喉の穴からひゅうひゅうと漏れただけだった。

 入子は次いで、包丁を自身の腹部に突き刺す。

 腹部にのった薄っすらとした脂肪は、その柔らかな肉体を一切包丁の刃先から守りはしない。

 何度も何度も刺し続ける。

 抜きはらった包丁の狙いがずれて、今度は胸の方に当たる。

 硬い感触。

 胸骨だ。

 胸骨を削るかのように、包丁を抜きはらって勢いをつけてもう一度同じ位置に刺す。


 とっくに死んでもおかしくないような自傷を繰り返しながら、入子は生きている。

 痛みを無視して己の身体を刺し続ける。


 十分ほど経って、夜釣が入子に優しく声をかけた。


「それでは、心臓を刺して終わりにしましょう」

 入子が正確に己の心臓を刺し貫く。

 包丁越しに伝わる心臓の鼓動は弱々しい。

 そして入子は天井を仰ぐようにして倒れ込んだ。


 呼吸を求める魚のようにパクパクと口を動かす入子に、夜釣はうんうんと頷く。

 唇から言葉を読む術を知るものがいるならば、わかるだろう。


『これで除霊は成功ですか?』

 夜釣はニッコリと笑って返した。


「除霊は失敗しました」

 そして、夜釣は入子に刺さりっぱなしになった包丁を抜くと、今度は己の心臓に突き刺した。


 タブレットからは響き渡る疾走感のあるロックチューンが流れ続けていた。


***


【ある霊能者の証言】


 見たよ、監視カメラ。

 夜釣クンも可哀想にねぇ、若くて優秀でこんな変な仕事する人間なんて滅多にいないっていうのにねぇ。

 で、彼女が言ってた血塗れの子供の悪霊でしょ。

 いなかったよ。

 キミだってそんなの見なかったでしょ。


 彼女ってさぁ……何が憑いてたの?

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