第90話「王都での波紋 Part1」
時告鶏が鳴き出す二時間前に侍従は目を覚まさなければならない。我々は主に仕えるために存在しているのだから。朝の身支度を終えて軽食を済ませると、侍従が一堂に会して朝会が始まる。そこでその日の陛下を筆頭とした王族の予定を確認する。それが終わればいよいよ仕事の始まりなのだが……。
「侍従官ニック」
「はい侍従長」
「君は残りなさい話がある」
我らが侍従長は厳格な方だ。元々陛下の近衛騎士でケガが元で引退したのだが、侍従官として傍に侍りその後侍従長まで昇格した。筋金入りのエリートで、いつもこのお方を前にすると俺の腹は痛くなる。ある意味陛下よりも恐ろしい方だ。
侍従長だけに与えられる執務室に入ると相変わらず紅茶のいい匂いが立ち込めていた。最近侍従長は初老に入ったせいか騎士らしい無骨さがさらに丸くなって、紅茶の似合う気品溢れる方になって来た。
「本日の国王陛下の御予定だが……ふーむ」
うわっちゃー! 侍従長のふーむでたぁぁぁ!! 帰りてぇよ! 今すぐこの部屋から出て荷物をまとめて田舎に帰りたい! 絶対無茶ぶりだよ?! そうに決まってるよ! きっと予定外の事態が起きたんだよ!!! 私の心はまるで大地震でも起きたかのように揺れ始めていた。
「話を聞いているのか! 侍従官ニック!!」
「はっはい!」
「ふん、まぁいい実はな……――」
「――はぁ~なんでよりによって今日各神殿の神殿長が謁見を求めてくるんだよ。ただでさえ、今日は神聖国の使者が戦後処理の為に朝から陛下と謁見だっていうのに……いや、待てよだから今日なのか?」
昨日からそのことで陛下の緊張はピークに達していて、側で仕えている私としては生きた心地がしていないっていうのに……。ふぅ、深呼吸深呼吸……陛下が目覚める気配がしたらミスはできないんだから。
侍従長の執務室を後にして、陛下の御所に控えていた時だった。
「誰か」
「なっ?! っぅ!」
いつの間に目覚められたんだ?! 寝所の前で侍って既に一時間は経っているのに陛下が目覚められた気配はなかったぞ?! ん、待てよ……そういえば寝静まっている気配もなかった? まさかお休みになられていないのか!! クソ遅番の奴からは何も聞いてないぞ! そんな同僚への恨み節をぐっと飲みこんで慌てて扉を静かにかつ迅速に開け放った。
「陛下お目覚めですか。昨夜はよく休まれましたか?」
「ふぅ適当なことを申すな、まずはワシの顔をよく見てから物申してはどうだ?」
うっ……すごいクマだ。陛下も今年で50歳、ここ十年で髪もだいぶ白くなられた。その上眠れぬ夜が続いている……。なんとお労しいことか。
「恐れ入ります陛下」
「はぁもぅよい。一国の王たる余にとって眠れぬ夜は珍しいことではない。王たるもの民の為に身を粉にして励まねばならぬ。それにしても今日のラフロイグ神聖国との会談如何にしては再び戦火が巻き起こり、民がまたもや塗炭の苦しみを舐めることとなろう……むっ? 何を先ほどからこちらをちらちらと見ておるのだ? 何か余に申したいことでもあるのか?」
陛下の侍従を務めて早十年。陛下が聖君であることは疑いようがない。そんな方にこれ以上の心労を負って欲しくはない! ないのだが……ここで報告を怠ればそれは不忠に他ならない!
「陛下、報告しなければならないことがあります」
「なにごとだ、申してみよ」
「侍従長より仰せつかったのですが――」
今日の予定が変わったことを伝えると陛下の顔はわずかの変化もなくただその場の空気が重く沈んだ。一国の主は顔色を変えることはないが何も感じないわけではないのだ。
「侍従よ」
「はい陛下」
「例のカクテルを淹れるのだ。もう素面ではやってられぬ」
「承知しました」
陛下が言うカクテルとは我が国の南方の玄関口に位置する貿易都市アクアリンデルで生まれたお酒のことだ。ベースとなるお酒から新開発されたものらしく未だに王都でも出回っていない。最近アクアリンデル領主から陛下に対して献上されたものだ。
このカクテルはコーヒーで割って、その上に牛の生乳を温めて冷やして砂糖を加えて作った生クリームなるものをのせて飲むものだ。その名をショウゴのコーヒーというらしくこれを陛下は痛く気に入られたのだ。
私は早速メイドにカクテルを持ってこさせるべく指示を出した。最近では、陛下は珈琲好きもあり朝食よりもこのカクテルをお飲みになることが多く、毎日即座に出せるよう作らせているほどだ。
「ふむ、このショウゴという酒職人が造ったウイスキーなる酒とコーヒーは実に合う。ウイスキーなる酒の穀物の香りと味わいが強い酒精によって醸し出され、そこに珈琲豆の香ばしさが折り重なりあい実に趣深い味わいがあり、それらをこのなんとも甘い生クリームが包み込む……。実に見事である」
陛下は口周りの髭に豪快に生クリームをつけながら実に嬉しそうに味わっていた。それを私は白い絹地でできた布で拭って差し上げるのがもはや朝の日課になってしまっている。
「陛下、そのように酒精の強いお酒を朝から召し上がっては陛下の体が心配でございます」
「うむ、そちの余に対する忠心は理解できる。だがな、王たる余にとって余の意のままに操れることなど食事くらいのものなのだ。故に、うるさく言うでないよいな」
「……御意」
そんな悲壮感を漂わせながら言われては何も言えないではありませんか、陛下。私は知っている王とは万能ではないのだ。絶対的な権力を持つからこそ、貴族は陛下に圧力をかけてはその権力を制限する。陛下の弱みは民であり、貴族にとって民とは己の富貴を保つ手段に過ぎない者が多すぎるのだ。
今日の陛下が少しでも心安らかにお過ごしなられるよう、私もしかと務めを果たさなければ……。
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