金婚式とウエディングドレス

@archer07

金婚式とウエディングドレス


 秋晴れの空の下、紅葉に彩られた獣道を縫うように抜けてゆくと、林の中にぽつんと屹立する墓石のもとに辿り着く。木々が刈り取られた小広い空間、常なら物寂しげに佇む墓石はけれど、落ちた紅葉に彩られていつもよりも華やかな雰囲気を放っていた。


 森の朝は早い。太陽が稜線より顔を表すよりも前に、深く濃い霧が湧く。振り返れば獣道は未だ濃い霧に包まれていた。何度も足を運んだ者でも、ものの一分とたたず脇道にそれてしまう朝靄の獣道をけれど迷わず進んでこられたのは、ひとえに慣れのおかげだ。盆と正月。家族であっても二度訪れるのがせいぜいの墓に週末一度欠かさず足を運び続けていれば、嫌でも慣れるというものだ。


―――そもそもこの獣道も、自分が何十年も通うことで生み出されたものだ。


 静かな場所で眠りたいというのが、最後の望みだった。生前多くの喧騒に悩まされてきたアイツらしい望みだと思った。だから街の喧騒から離れた辺鄙で安い土地を買って、そこに墓を建てた。あの時ほど時間に縛られない職業であることに感謝したことはない。


「は……、―――」


 息を吐いて、深く吸った。体内に取り込まれた空気と瑞々しい霧がいつもよりも火照る体を心地良い具合に冷やしていった。体温の低下と共に、逸る気持ちに高鳴っていた胸も落ち着きを取り戻してゆく。ありがたいことだ。汗だくで落ち着きのないタキシード姿のジジイなんて、見苦しくてとてもじゃないけどこれからやろうとしていることに似合っていない。


―――似合わないのはどのみちか


 自重しつつ、背負ってきた三つ足のコートハンガーを墓石の近くに置く。万が一のことを考えて地面へ突き立てられるよう改造を施しておいたけれど、どうやら杞憂だったようだ。コートハンガーにかけられている唯一のそれはきちんと地面と平行の状態を保っている。こいつが今日の主役の片割れだ。これの見た目がきちんと整ってなければ、アイツも満足してくれないだろう。


「なぁ」


 ハンガーにかかっているそれの不織布タイプのカバーを取り外すと、白い布地が現れる。真新しい生地で織られた純白無垢のそれは、一般にウエディングドレスと呼ばれるものだ。


 婚と葬の象徴が並ぶ光景を見て不思議な満足感を覚えていると、木々の間を縫ってやってきた陽光がドレスを照らし上げた。真反対の性質を持つはずのそれらが互いに似たような白色の光を爆ぜ返すのを見て、アイツもこの日を待ち望んでいたのだろうと感じた。


 長い間忘れていた約束だった。約束したということすらも忘れていた約束だった。


「―――」


 青空から落ちてくる光は眩く、老化の進んだ目に染みた。五指をひさし代わりに持ちいて見上げると、林を覆っていた霧が消え失せていることに気がついた。見れば地面には雲の影が落ち始めている。あと数時間もすれば、日は直上からこの場所を照らすことになるだろう。陽光の中で挙げる式というものも乙なものかもしれないが、私とアイツが望んでいるのは甲でもなく乙でもなく、丙の式だ。参加者は二人だけ。誰一人、何一つの祝福も、要らない。


「―――急ぐか」


 手提げのバックから水を入れたボトルと布を数枚を取り出すと、墓石を彩る紅葉を取り除き、水を注ぎ、布を当てる。墓石は冷たく触れているだけで体温を奪っていった。温度差が縮まってゆく感触を、今の私とアイツの間にある溝が埋められていくように感じられて、素直に嬉しく思った。生まれた正の感情は熱となり、老いた肉体を素早く動かす力となった。


―――思えば、似たようなことがあったな……


 寒空の下で物言わぬ墓石を摩っていると、過去の記憶が蘇ってくる。浮かび上がってきた記憶はあっという間に幻影となり、視界いっぱいを占拠していった。



「なら金婚式に二人だけの結婚式をしたいな」


「はぁ?」


 何をして欲しいと尋ねて返ってきた答えに、思わず眉を顰める。質問に対して変な答えを返してくるのは毎度のことだけれど、この度のはさらに別格だと思った。


「はぁってのは何よ。何して欲しいって聞いてきたのはそっちじゃない」


 頬を膨れさせる姿は可愛くあり、その上、気品もあった。笑顔とは人の生まれ育ちを表す鏡だ。可愛く笑うだけならば女の誰でも出来ようが、そこに気品を含めようとするとそれは途端に難しくなる。眉尻と唇の角度が急過ぎれば嫌味ったらしくも作り物くさくもなるし、緩過ぎると笑顔に見えなくなる。これを自然に補正して気品ある笑み出来るようなるには、年季と経験がいる。二十を過ぎて間もないこの年でその笑みを浮かべるには、それこそ相当生まれ育ちがよくないと不可能だ。それは間違いなくこのよう狭い1DK八畳間よりも、彼女の生家にある茶会室にあって然るべき笑顔だった。


「金婚式って……、お前、それがどういうことかわかってんのか?」


「もちろん。知らないわけないじゃない」


 無知ではなく既知であると答えつつ浮かべるその笑みはやはり華やかで上品で―――、可愛かった。今よりさらに年季と経験を積めば裏側にどのような感情を抱え込んでいようとその笑顔を浮かべられるようになるものだけれど―――、コイツはまだその域に達してないことを、コイツと一緒に生きることを選んだ俺は、コイツに選ばれた俺は、他の誰よりも知っている。


「結婚してから五十年、金製品を送って祝いあう日のことでしょ」


「そうだけど……」


「でも私、金製品なんて見慣れた下品なもの欲しくないもの。そんなものより私、私だけのためにあなたが用意してくれた白無垢のドレスを着てみたい」


 望めば簡単に叶っただろう望みを叶えることが出来なくなったのは、俺のせいだ。ならば芳醇に馥郁たる乙女の香り漂わせる願いを叶えてやるのは、俺の義務だとも言える。それはいい。その事自体には文句も疑問も全くない。


「……でも、なんで五十年後なんだ?」


 ただ、それだけが腑に落ちなかった。


「着るなら今すぐのほうがいいだろう?」


「あら、知らないの? ウエディングドレスって高いのよ?」


「高い? そりゃ高いだろうが―――」


「そう。金糸の刺繍とか螺鈿の細工とかそう言う余計なのを除いても、生地と織り代だけで一千万はかかるんだから」


「―――」


 思わず頭を抱え込みたくなった。野に降りたとはいえ、相変わらずコイツの価値観は一般のそれと大きくかけ離れている。数字は多分、フルオーダー、西陣織だか何かの生地を有名なデザイナーにデザインしてもらった上、工房一つを貸し切り、夜通しに突貫で作業させた場合の値段なのだろう。希少な生地を使えば、量産を前提としなければ、働かせる人間の数が増えれば、時間を短縮しようと思えば、それらの頭に超一流の冠詞がつくようであれば、それだけかかるお金も多くなる。全てを乗算すれば通常の百倍程度のそんな金額はあっという間に越すことだろう。


「でも今の貴方にはそんなお金がない」


「まぁ、そりゃ―――」


「だから五十年後なの。いくら売れない小説家でもそれだけの時間があれば売れるようになるだろうし―――、もしも売れないままであってもそのくらいは貯めることが出来るでしょう?」


 とはいっても世間とずれたその感性をわざわざ指摘しようと言う気にはなれなかった。コイツのその感性が俺の書く世間の流れに迎合しない古臭い形式の小説を良いと判断したからこそコイツは家を抜け出してまで俺と一つになる判断を下したのだし、俺はコイツの連れ合いになることが出来たのだ。その感性に感謝することはあれ、可愛く思うことはあれ、わざわざ指摘して擦れさせるような真似をしようなどとは思うはずもない。


「五十年……、五十年かぁ……」


 薄布のカーテンから透ける月光が暗がりの部屋を仄かに明るく照らしていた。薄く白い月明かりに彩られるコイツの笑みは、薄い布団、薄い壁、月明かりも寒気も生活音も完全に遮ることのできない部屋での生活を「楽しいね」と言ってのけた当初のままだった。当時は物珍しさと新鮮さの手助けによって言うことのできる台詞で浮かべられる笑みなのだろうと思っていた。誤解はかつてと比べてささやかで小規模になった、けれども贅沢すぎる生活を共に過ごすうちに解けていった。


一日経とうと二日経とうと笑みは崩れなかった。一ヶ月経っても二ヶ月経っても、笑みは崩れなかった。三ヶ月、四ヶ月と続いたとき、自分の小ささと見る目の未熟さとコイツの懐の大きさと頑固さと真剣さを理解した。半年も経過する頃にはコイツを絶対に手放したくないと思うようになっていた。


「……まぁ、最悪、バイトを増やすか、作風を当世風に変えれば多少は―――」


「それは駄目」


 なによりも、これだ。一度進むと決めたのであれば信念を曲げず貫けと訴えるその瞳が、年若いくせに肝と腰の据わっているその態度が、怜悧であるのに熱意があるとわかる断定の声が、俺自身よりも俺と俺の作品のことを好いているとわかるこの目が、態度が、声色が、心を捉えて離さない。その頑迷さと気風の良さに、気持ちいくらい惚れ込んでしまった。


「頭を空っぽにしても読めるから読むなんていう馬鹿な層や売れてるから買うなんていうミーハーな層に媚びてばかりのカスタマーファーストの作品なんて続かないし品がないしコンテンツとしての寿命が短いし―――なによりつまらない。貴方がそんなつまらない物を書く人に堕ちるっていうのなら私は―――」


「冗談だよ」


 だからその先の言葉は、何があろうと聞きたくない。口にさせたくもない。


「冗談だ。お前が生まれる前からずっと続けてきたんだ。今更やめられるわけもないだろう」


「うん」


 はにかんだ笑みに、まんま手玉に取られたのだということを知った。不快さを感じないのは惚れた弱みのせいだろうと思った。そも、俺といるためだけに地位も名誉も豊かさもそれ以外の全てを不要だと捨てた女だ。そこらの男よりもよっぽど男らしいこんな女、惚れないほうが男として間違っていると言えるだろう。


「で」


「で?」


「お願い。叶えてくれるの?」


 小首を傾げて言うその姿は棘に花に毒があるとわかっていても手にしたいと思えるほど蠱惑的だった。男ならば誰でも首を縦に振る以外できないだろうその姿に、コイツの祖父や父や兄がこぞって反対していた気持ちと、反対するなら二度と会わないからと言った瞬間に絶望の表情浮かべた気持ちと、賛成するなら盆暮正月に必ず顔を見せるからと言った際に安堵と苦渋の表情浮かべた彼らの気持ちを、同時に、コイツの母や姉妹たちがコイツが家を出て行きたいと言った際に諸手を挙げて賛成し続けた理由を、一気に理解する。


 これはあまりに魔性すぎている。目にしたものの誰もが目を奪われる華なんて、男ならば秘してそばに置き続けたいと思うだろうし、女ならば可能な限り遠ざけて隔離して誰の目にも触れないようにしてしまいたいと思うだろう。


「叶えるよ」


 この華はきっと老いても枯れても朽ちても気品をなくすことがない。経た歳月に応じて千変万化の美しさを保ち続けるだろう。月光が頷くように暗がりの部屋の中を強く照らし、雲に隠れて暗がりに戻し、再度現れては部屋の中とコイツを明るく照らしあげた。月明かりに化粧されたその顔は可愛かった。美しかった。綺麗だった。儚げだった。天真爛漫だった。―――狂おしいくらいに愛おしかった。


「必ず、叶える」


「……うん」


 誰もが羨み妬む華を手折ってそばに置くのだから、それが咲き誇ってあり続けることができるよう努めるのが男の義務というものだろう。それを成し遂げることが不可能と言うのであれば、そんな奴はその場で命を絶つか、そもそもそんな華を手に入れるべきじゃない。


「待ってるね」


 暗がりの中でした誓いを、コイツと共にある限り決して忘れないだろうと思った。


―――それが事実であったと気付かされたのは、それから数十年の月日が流れた後だった。



「あ―――」


 それを見つけたのは引っ越しに向けて荷物整理をしていた時のことだった。自分以外の誰もがいなくなってしまった一軒家は、老いたこの身には広すぎた。一方で、まだ幼年盛りの子どもを三人も抱えた長男は、ワンルームマンションの狭さに困っていた。双方の愚痴が交わった結果、住処を交換する話とあいなった。悪いからと言っていた長男は奥方と子どもたちの圧力に負けて、首を縦に振ることとなった。嫁にやった長女も互いが納得しているのなら勝手にやってくれと賛同した。餞にリフォームのための費用と引っ越し費用も出してやろうというと、奥方は「いいんですか」といいつつ喜びを隠しきれない表情を浮かべたが、長男の方が「流石にそこまで親父に迷惑かけられない」といって、自分たちの貯蓄から費用を出すことを、渋々ながらも奥方に認めさせた。どうやら長男も男としての矜持を失ってはいなかったらしいと、誇らしく思ったことを覚えている。閑話休題。


「桐の……箱―――?」


 引越しの準備の真っ最中、現れたその箱に首を傾げた。桐箱はだいぶ年季が入っていた。息を吹きかけると吹き飛んだ埃の匂いに混じって樟脳の香りがうっすらとあたりに漂った。それでも表面の埃は取れきれなかった。仕方なく手で拭うと艶のある品のいい表面が露わとなり、遡れば藤原忠通の子、関白松殿藤原基房に連なるとかいう見覚えある家紋が現れた。


 言葉を、失った。これがアイツの遺留品であることに間違いはなさそうだった。見れば箱は和風の見た目に似つかわしくない八桁のダイヤルロック式の錠で密封されていた。


錠の数字は一部が掠れていた。よほど何度も桐箱を開け閉めしていたのだろうと思った。掠れた部位に導かれるよう、八桁の数字を合わせた。錠が解除された。箱を開けた。濃ゆい樟脳の匂いがあたりに漂った。匂いには懐かしい香りが混じっていた。


―――アイツの香りだ。


 思考が停止した。アイツの笑顔が蘇った。八桁の数字の意味を理解した。視線を落とすと透明な袋に包まれた上品な仕立てのクラシカルなタキシードが目に映った。停止していた時間が動き出した。忘れていた約束を思い出した。クローゼットの中はあの時と同じくらい狭く、暗かった。浮かび上がってきた面影に、涙がこぼれ落ちた。


「ふ……、は、―――ぅ、……く―――」


 縋るように中身を取り出して強く抱きしめた。ただの布切れを愛おしく思うのは初めてだった。あの日の光景が、言葉が、頭蓋の中で巡り続けていた。こんなにも自分を情けないと思ったのは初めてのことだった。胸の熱さと痛みを留めておく術など知らなかった。嗚咽と涙はいつ終わるともなく、こぼれ落ち続けていった。


―――お願い。叶えてくれるの?


「う……、ぁ―――」


 守ると誓った。笑顔を保ち続けると誓った。その誓いは叶った。最後の最後までアイツは最初と変わらない笑みを浮かべ続けていた。誰も俺を責めなかった。アイツのいなくなった世界は色褪せていた。矛盾が辛かった。忘れるようにして、アイツが好きと言った俺の小説を書き貪った。


―――待ってるね。


「すまない―――、すまない」


 気がつけば読む人の数は増えていって、懐具合も暖かくなっていった。けれど胸の中にはいつでも冷たい風が吹き続けていた。大穴が空いていた。大事なものが欠落し続けていた。―――生地と織り代だけで一千万はかかるんだから。


「すまない……、ごめん……」


抱きしめたいタキシードの布地の質に良さに、アイツの言葉はこれを仕立てた経験から生まれたものなのだろうと思った。私がアイツの本気を疑っている間にも、アイツはすでに私と共に五十年生きた後のことを思って行動を起こしていたのだ。


―――金婚式に結婚式をしたいな。


「あ―――」


だからアイツは金婚式にドレスを欲しがったのだ。それほどまでにアイツは私を愛していたのだ。鈍感で狭量な自分を殺したくて仕方なかった。


「う……、うぅ―――、あ―――、っ……、っ」


情けない声は狭いクローゼットの中で愚者を責め立てるように残響した。泣いて、泣いて、泣いて―――、もう涙が出ないくらい泣き尽くしたその時、暗がりばかりに支配されていたクローゼットが仄かに明るさを取り戻しているのを見て、顔を上げた。


 月光がそこにはあった。街の灯りに希釈されて薄くなった月明かりは、あの狭苦しい1DKの八畳間で見た色の輝きとよく似ていた。光に、奇跡を見た。桐箱の奥底には便箋があった、


「―――」


 タキシードを桐箱に戻して、恐る恐る取り上げた。便箋には封がされていた。開けるべきか迷った。その資格があるか、心底悩んだ。月明かりが手紙を照らした。表面に掠れた字があることに気づいた。懐かしい筆跡で自分の名前が刻まれているのを見て、ほとんど反射的に封を切った。中には紙切れが一枚だけ入っていた。そこには短く一文だけ刻まれていた。


―――約束、守れなくてごめんね。


「〜〜〜っ!」


見た瞬間、地面を殴りつけた。情けなくて、情けなくて、仕方なかった。ありったけの力を振り絞って狂ったよう地面を殴打し続けた。


「俺は―――っ、私は―――っ!」


 あっという間に青痣が生まれた。


「お前は―――、どうして―――!」


 それでもひたすら殴り続けた。約束を守れなかったのは俺だ。約束を忘れていたのは私だ。アイツはひたすらに約束を胸に秘め続けていた。叶うことを信じて、手入れをし続けていた。


「俺は―――、お前に―――」


 その証がここにある。掠れた文字は痛いくらいにアイツの真剣さを訴えてきていた。


「あ―――、あぁ、あっ、……あっ―――、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 殴る。殴る。愚かしさを悔やんで、果たせなかった約束を嘆いて、笑顔の裏に負の感情を隠し続けたアイツの強さを知って、漫然と年を重ねてきただけの醜い己を嫌って、思い切り地面を殴打し続ける。続けているとやがてアイツの遺した紙切れが地面と拳との間に入り込んできて、愚かしい自傷行為を止めさせた。紙切れはまるでアイツのように優しかった。行き場を失った痛みと熱が全身を駆け巡った。砕けんばかりに歯を食い縛って耐えることしかできなかった。それでも湧き出る想いを留めておくことは難しく。


「―――っ、あぁっ!」


 最後に一度未練がましく、紙の横の空いた地面を思い切り殴りつけた。フローリングの床は、ドンっ、と大きな音を立てたのち、一切の音を発さないようになった。


「―――あぁ……」


 床に置いた拳から冷たさが伝わっていた。冷たさは狭い部屋に二人で暮らしていた時のものとよく似ていた。それを切っ掛けにして思い出が蘇ってきた。アイツの笑顔が、アイツの言葉が、次々と鮮やかさを取り戻していった。


―――叶えるよ。


「ああ、そうだ」


 世界が色を取り戻していた。この世にやり残したことはないと思っていたが―――、他の何に代えても叶えるべき約束があることを思い出した。


「叶えるよ」


―――うん


「必ず、叶える」


―――待ってるね


 待っている人がいる。果たすべき約束がある。必ず叶えると誓った。忘れないと誓った。けれど忘れてしまっていた。辛さに耐えかねて封じ込めてしまっていた。それを思い出した。それを思い出させてくれた。だから叶えなければならない。約束を果たさなければならない。


「絶対に」


 暗がりの中、あの日のように誓う。


「絶対に、叶える」


 アイツのそばにいて恥じない俺を取り戻すため―――、アイツが好きだと言ってくれた俺を取り戻すため―――、私は何に代えても約束を果たさなければならないのだ。



墓石を綺麗にする頃には息が上がっていた。墓石をシミ一つないように磨き上げるのは喜寿を超える老体にはそれなりに重労働だった。それでも太陽が墓石の周りを照らすよりも前に作業を終わらせることができたことには深い満足感があって―――、それが全身の疲労を心地の良いものへと変化させていた。


「さて、と」


見渡せば式場は紅葉に彩られている。朝靄は丁度消えてくれている。自然の艶はアイツが最も好んだ景色の一つだ。ならば飾り付けはそれで十分だろう。アイツの死から約四十年。あの約束の日から約五十年。忘れていた約束を果たす時がついに来たのだと今更実感する。緊張に気持ちが昂った。気持ちのいい風が吹いて、火照った体から熱を奪っていってくれた。


「待たせたな……」


 自然の力に助けられて言葉を捻り出す。綺麗にしたばかりの墓石にウエディングドレスを掛けて、指輪を墓前に備えた。バッグからアルバムと簡易椅子を取り出して、墓の横へと腰を下ろした。タキシード姿の爺がウエディングドレスを掛けられた墓石の横に座り込む光景は他人が見れば冗談のようにしか思えないだろう。墓前で結婚式を挙げるつもりなどと言えば、気が狂ってると思われても仕方ない。多分事情を知らなければ私だって同じように思う筈だ。


「―――」


 事情を話しても理解を得られたのはごく僅かに人間にのみだった。ほとんど全ての知り合いがやろうとしていることに難色を示した。そんなことに千万も金を使うのは馬鹿げていると言われた。アイツを溺愛していたアイツの父や兄ですらも、顔をわずかに曇らせた。完全に賛同してくれたのはアイツが遺した息子と娘だけだった。


「さすがはお前の子だよ」


聞けば桐箱をクローゼットの奥に仕舞い込んでくれたのはあの二人であるらしかった。思い出せばアイツを失って間もない頃、その持ち物を整理してくれたのもあの二人だった。二人は私たちが結婚式を挙げていないことや、そんな約束を交わしていたことなんて当然知らなかった。けれど上等な入れ物と表側に刻まれた紋様と裏側に刻まれていた製作者の名前から桐箱の中身が何であるかを悟った二人はこれを見せれば親父が傷つくと思って、それを奥に隠すことに決めたらしい。


「俺に似ず、よくできた息子と娘に育ってくれた」


 胸に去来したのはただの誇らしさだけだった。


「―――始めようか」


 胸を一杯にする想いに突き動かされるよう、アルバムのページを開いた。


「覚えているか。これは初めて出会った時の写真で―――」


 静寂が支配する林の中に小さな声が響いてゆく。朝の光を迎え入れつつある林は、不思議なくらい暖かみに満ちていた。



アルバムのページを捲り終えた時には、もう太陽は沈みかけていた。見上げると赤いはずの世界が灰色に見えた。光景に、自分は全てを果たすことが出来たのだとそう直感した。


「あぁ―――」


胸がいっぱいになった。胸が苦しくてしかたなかった。喉はカラカラに乾いていた。もう呼吸するのすら億劫で面倒で仕方なかった。


「間に合った―――」


 言葉を吐き出すごとに、残る熱が失せてゆく感覚がある。音が聞こえなくなったのは直後のことだった。木々のざわめきも、鳥の囀りも、葉の擦れる音も、自分の心臓の音も―――、もうすでに聞こえなくなっている。


「―――」


未練の重石はもう消え失せた。動く気力ももう残っていなかった。今にも意識が吹き飛びそうだった。何か一言二言口にすれば、それでもう燃料切れに陥るに違いない。


「―――あ」


 気付けば太陽が沈んでいた。月明かりがあたりを照らしていた。薄暗さと冷たさは約束を交わしたあの日の部屋のそれらとよく似ていた。後ろ髪を引かれるかのよう、視線は墓石に向けられた。


「―――」


 そこに奇跡を見た。白無垢が月光を反射する光景は美しかった。それは唯一色付いていた。面影を見た。白無垢を着たアイツが見えた。笑っていた。初めて会った時と変わらない笑みを浮かべていた。胸がいっぱいになった。思わず口を開いた。


「―――愛しているよ」


 決定打だった。抱きつくように墓石に体を預けた。痛みはなかった。冷たくもなかった。墓石とドレスは柔らかくもたれかかってきた私を受け入れた。それで満足だった。何かが体の中から抜けていく感触があった。きっとそれは―――





「親父!」


 早朝の静寂を打ち破って大きな声が墓場に響いた。声の主人は墓場にある唯一の墓石へ駆け寄ると、墓石に体を預ける老爺の肩に手をかけて―――、止まった。


「親父―――」


 老爺は無反応だ。年甲斐もなくタキシード着込んだ老体を抱き寄せると、懐かしい匂いがした。その匂いには覚えがあった。それは遠い昔に嗅いだことのある匂いだった。


―――お袋の匂いだ。


「父さん―――」


 匂いに記憶が想起させられるよりも前に、声が男を現実へと呼び戻した。顔を向けると、妹がそこにいた。妹は笑っていた。妹は泣いていた。妹はハンカチを取り出すと露に濡れた老爺の顔を拭いた。


「いい金婚式だったのね」


 拭われた老爺の顔は昔のように笑っていた。それは母がまだ存命だった頃にしか見られなかった笑顔だった。魂の抜け殻を男が抱きしめた。頷くよう老爺の首は下に動き、二人は静かに涙を流した。



 秋口が終わる頃、墓場の墓石に刻まれる名が増えた。寄り添う姿はいつかかつての老爺と墓石の姿によく似ていた。

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