締切の次の日

英島 泊

締切の次の日(一話完結)

「…………ああ」

 とあるアパートの一室で男がうめいていた。時計は二十三時をとっくに回り、部屋のエントロピーは非常に高い。画面に照らされた表情は眠気と苦悶の等量混合物であった。

「締切まで、あと十分か……」

 男は物書きをしている。今回は、何としてでも出さねばならないのだ。しかし、冒頭を書いてから全く続かないのである。

書き終えた冒頭部分を、既に数十回は読み返した。消してしまって一から作り直してしまおうか、いや少しでも進捗を稼がねば、しかし、もはや書き終えるには絶望的な時間だ、……

 電流は脳神経を回るのに、有用な生成物は何一つ無く、グリコーゲンが無為に消費される。もはや、足りないのだ。そして、地球が瞼を引っ張って、頭をデスクに叩き付けた。

「……明るい……え?」

 窓の外は柔らかい光に包まれていた。男は目をこすって、画面端の時計表記を見る。

「午前六時、十月十日……十月十日⁉」

 素っ頓狂な声。しばらくしてから口内が乾いたのに気がついて、男は段ボール箱のエナドリを一缶開ける。そして、目の前のパソコンを弄る。今日は確かに十月十日であった。

「日付間違えてたのか……はぁ」

 とはいえど、首の皮一枚が繋がっただけである。状況は変わっていない。それでも、

「書くか」

 パソコンに向かう。

 数十分が経過した。男はネットの海を無為に泳ぎ回っていた。リンクを辿っては、情報を観測して忘却することにエネルギーを使った。脳は、その緩慢で断続的な刺激に満足した。

 なんとなく朝食をとった。歯を磨いた。少しだけ書いた。部屋の掃除を始めた。懐かしい本を読んだ。ゲームに手が伸びて、やめた。書いた。石鹸で手をこすった。腕立て伏せをした。昼寝した。起き上がり、書いた。少し消した。動画を見た。夕食らしきものを食べた。書いた。空気を眺めた。トイレに居座った。そして、パソコンの前に座った。

 時計は再び二十三時を回っていた。進捗はまずまずであった。残るは最終部のオチだけである。しかし、男の脳内会議はいずれの発案も却下を繰り返した。

じりじりと締切が迫る。思い浮かぶオチはいずれも納得には達しない。最後だけ、最後だけなのだ。これが、この物語決めてしまうのだ!

 急激に思考が沈んで、意識が吸い取られた。

 鈍い光が瞼越しに刺激して、男は目を覚ました。机に突っ伏して寝ていたようだ。黒い画面を起こして、日付を確認する。

「午前六時、十月十日……?はい………?」

 昨日は十月十日だった。部屋が散らかっていた。そこのゴミ袋も片付けて玄関に運んだ覚えがある。

 男は慌てて原稿を確認した。最終部だけが書かれていない未完成品があった。安堵の気体が口からこぼれた。

 それから、男は数が元通りになったエナドリを飲みつつ、思考を巡らせていた。昨日食べたはずの食料品や、動かした物品は全て昨日の朝と同じであった。いくら確認しても、今日は締切当日に違いない。

 一つ仮説が浮かんだ。

「俺が書き終わるまで、締切の日が繰り返される」

 男はいくつかの実験を考案し、実行した。

 買い出しに出掛け、当たり障りのない物品を購入して机に並べた。手の目立つ場所にペンで文字を書き、小さな切り傷を付けておいた。トイレの電球を外した。パソコンを机の下においてから、布団に入った。

 久々に外に出たせいか、すぐに眠気が襲った。オチは相変わらず思い浮かばなかった。

 目を覚ますと、男は黒い画面を前に突っ伏していた。手を見ると、文字も傷も消えていた。机の上には物品もレシートも無かった。財布の中身は減っていなかった。トイレの電球は取り付けられていた。日付は今日も十月十日だった。昨日の朝と全てが同じ状態だった。

「まじかよ……」

 それから、男は一日のうちにできることをやれるだけやり始めた。

 積読は四日かけて読み切った。クリアできていないゲームを進めたが、セーブデータが一日で戻るので、七日ほどで飽きてやめた。近所の飲食店のメニューを全制覇した。本屋の気になる本を片っ端から買っては読んだ。資金は一日経てば元通りであった。ネットを眺めることに飽きるには数千日かかった。

 何度か徹夜を試みた。毎回、日付の変わる直前に意識が奪われて黒い画面の前に戻された。

 男は外出を始めた。電車に一日中乗り続けたこともあった。一日かけて移動できる限界は、隣国の首都であることを解明した。多くの人と関わった。同じ相手であっても、些細な目線の動きや発言の差異で、その後の反応が変わってしまうことを知った。様々な店に入り、ありとあらゆる陳列物を眺め、あらゆるサービスを受け、あらゆる物を食べた。手持ちの金が足りないこともあった。このあたりから、何度か警察の世話になった。だが一日経てば、男は前科なしの一市民であった。また、不慮の事故で死んだ。事切れた瞬間に十月十日六時に戻った。初めの数十回はやはり恐ろしかったが、やがて慣れた。

 男は、まだ物語のオチを書いていなかった。毎朝、パソコンの前で起きていたためだろうか、それは数万回繰り返されても忘れなかったことの一つだった。もはや、男は一日で体験できることを体験しきった気がした。時間はいくらでもあったが、一日でできることは限界があった。そして、脳は、記憶に耐え難かった。

 男はパソコンを持ち出して、ある場所に向かった。その途中でいくつかの物品を購入した。空が白み始めて少し経つころに目的地に着く。パソコンに打ち込み、いつものオチができた。

「目が覚めると、全てが元通りだった」

 二十四時直前で、提出を完了した。

 画面端の時計表示は、零時十月十一日を告げた。男はパソコンを放り投げると、自分の体験した中で最も苦しくない方法で死んだ。

 以上で検証を終了します。

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締切の次の日 英島 泊 @unifead46yr

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